タッキュウウミガメ

日車

タッキュウウミガメ


「なあ知ってるか。」

俺の隣で藤野が言った。

「卓球の球はウミガメの卵で出来ているんだぜ。」

またか、と俺は内心身構えた。


藤野は俺の友人の一人である。いつもは浮き草のように何をするでもなく校内を漂っているが、何故か広い人脈と奇妙な雑学の知識を持つ掴み所のない男だ。普段は気のいい奴で悪友とも呼べる存在なのだが、妙に現実味のある嘘を並べては俺を騙す悪癖を持っていた。

今回は信じないぞ。俺は堅く心を決め、言葉を返した。

「卓球の球はプラスチックで出来ている。俺は高校の時卓球部に所属していたから知っている。」

「初耳だな。強かったのか?」

「試合にでたことすらない。」

「それなら吉岡が知らなくて当然だ。」

吉岡は私の名前だ。

「ウミガメの卵から作られる卓球の球は質が良いが、ごく少数しか出回ってない希少な品だ。数が取れない上に高いからだ。それこそオリンピックの選手レベルじゃないとお目にもかかれないというわけだ。」

「万年球拾いの俺には関係ない世界の話というわけか。」

「そういうこと。」

藤野は笑った。こいつはいつもこうしてむふむふと笑いながら、厚い面の皮で俺に嘘を並べるのだ。大人しく信じ込んだ俺が厄介なトラブルに巻き込まれたことは何度もあった。それで憤慨しても、お得意の長広舌で煙に巻かれる。腹が立ってたまらない。

「本当にウミガメの卵だというのなら、中に入っているウミガメの子供はどうなるんだ。まさかそのまま使っているのとでもいうのか。」

俺は再び反論を試みた。

「使うのは卵の中で体が育ちきらずに死んでしまったものだけさ。殻に針で細く穴を開けて、専用の器具で死んだ赤ちゃんを取り出すんだ。穴はごく小さいものだから後で塞いで、表面をコーティングしたら完成だ。」

「動物愛護団体が黙っちゃいなさそうだな。」

「でも海外にもあるだろ。孵化前のひよこを食べる料理。」

「まあ、たしかに。」

「それにこの事実はほんの一握りの人間しか知らない。」

「じゃあ何でお前が知っているんだよ。」

「ある先輩から言われたんだ。『ウミガメの卵集めのバイトをしないか』って。」

「胡散臭い。今度こそ騙されんからな。」

「頑固だなぁ。」

「そもそも何故そんなことを俺に教えるんだ。」

「吉岡もそのバイトに誘ってるんだよ。どうせ夏休み暇だろ、お前。」

「上手いこと言ってキツイ仕事を俺にも肩代わりさせようというわけか。」

「いんや、そんなことはない。バイト代も結構出るぞ。」

そう言って、藤野は小声でその金額を俺にささやいた。途端、俺の心は大きく揺らぐ。バイトの時給が生活費で大幅に消えていく私にとって、その金額は大いに魅力的だった。

「どうだ、行くか?」

ちょっと悩んで、俺は不承不承頷いた。

「よし。決まりだな。」

藤野は小学生のように無邪気な顔で笑った。



数日後、俺と藤野は、都心からだいぶ離れたとある道路を車で走り抜けていた。時刻は5時半。トンネルの中にいるので外の景色を楽しむことは出来ず、俺は助手席でぼんやりと藤野と言葉を交わしていた。

「ところで、そのウミガメは何というんだ。」

「名前?」

「ああ。」

「タッキュウウミガメ。」

「そのままじゃないか!」

「いや、本当は偉い学者さんがつけた長い長い学名があるのだが、忘れてしまった。」

頭をかく藤野を見て、やっぱり嘘なんじゃないか、という気持ちが俺の心にムクムクと湧き上がってきた。しかし、ここまで来てしまった以上後戻りはできない。俺には藤野に大人しく騙される道しか残っていないのだ。

ふいに橙色の西日が車内を染めた。車窓から外を見ると、トンネルを抜けて、今俺たちは海岸沿いの道路を走っているのがわかった。遥かな水平線に夕日がゆっくりと近づいているのが見える。

「あんまりゆっくりもしてられないな。遅れると水野さんに怒られてしまう。」

「その水野さんが俺たちの雇用主か?」

「ああ。ウミガメの卵拾いに関してはこの道数十年のベテランだ。普段は漁師をしているが、季節になると副業の一環として卵を集めている。」

「すごい人がいるんだなぁ。」

「でも藤野も卓球部ではずっと球拾いをしていたんだろ?案外才能あるかもしれないぜ?」

「黙れ。」

そうこう言っているうちに俺たち二人は水野さんの漁師小屋にたどり着いていた。水野さんは赤銅色に焼けた肌をした、いかにも漁師といったいかめしい男性だった。しかし深い皺から覗く小さな目にはどこか愛嬌がある。

藤野と彼は知り合いのようで、軽く挨拶を交わした後に藤野が俺を紹介した。水野さんは面白そうなものを見る目つきでこちらを見つめた。

「まだ時間はあるが、とりあえずは仕事の説明をするか。」

水野さんが言った。ゆったりとした厚みのある声だった。

「俺たちは何をすればいいんですか?」

「あと数十分したら、タッキュウウミガメが卵を産みに浜へ上がってくる。それからしばらくすると、元気な赤ん坊が孵化して海に帰っていく。だが、中にはいつまで経っても生まれない卵もある。お前たちはその卵と、残った卵の殻をこの網で集めろ。」

手渡されたのはかつて卓球部で使っていたものと同じ、プラスチック製の網だった。その軽さは悲しいほどに俺の手に馴染んだ。

「卵の殻も集めるんですか?」

「使えるかもしれんからな。」

小屋から出ると、日はその体の半分を水平線の下に落として、眩い夕の光が俺たちを照らした。夏のぬるい潮風が頬を撫でる。浜には俺たちの他に誰もいないようだった。産卵の時期は一般人の立ち入りは禁止されているのだ、と藤野が教えてくれた。

「じゃ、頼んだぞ。」

水野さんは小屋に戻っていった。

俺たち二人は、しばらく網を片手に静かに波音を聞いていた。

「来た。」

突然藤野がささやいた。その視線の先を追い、俺は思わず息を飲んだ。

何十ものウミガメが海からのっそりと姿を現していた。数は数え切れないほどだ。彼らは緩慢な動きで四肢を動かし、そして夕日に照らされた浜の中ほどまで這っていった。

そこで彼らは動きを止めた。今まさに卵を産んでいるのだ、とわかった。その瞳からはポロポロと涙が溢れていた。

「何だか、気がひけるな。」

俺は呟いた。藤野が静かにこちらを見た。

「それは人間が勝手に決めているに過ぎない。彼らは悲しいから、ああして涙を流しているわけではない。」

「わかっているが……。」

やがて、ウミガメたちは海へ帰っていった。日は完全に落ちてあたりは真っ暗だった。夕日の残滓が、ウミガメたちの姿が、俺のまぶたの裏に残っていた。俺たちはただ待ち続けた。

しばらくして、白い卵の山の中に何か動くものが見えた。

「生まれる。」

親ウミガメの数より更に多い子どもたちが次々と卵の殻から顔をのぞかせていた。ぱきぱきと微かな音を鳴らして浜に這い降りた子供たちが、一心不乱に海を目指して這っていく。

彼らがいなくなったのはそれからだいぶ経ってからだった。

「じゃ、集めるぞ。」

藤野は網を肩に担いで笑った。





「なあ知ってるか。」

向かいの席の藤野が言った。

「かき氷のシロップは、色で人の脳を騙しているだけで実はみんな同じ味なんだ。」

俺は海鮮丼をかきこむ手を止め、藤野の顔を見つめた。

無事卵を集めきり水野さんから謝礼を受け取った俺たちは空かした腹を持て余し、浜の近くにあった定食屋に立ち寄っていた。ちょうど夕食時のようで店内は賑わっている。潮の染み付いた店の机は少しべとついていたが、出された料理は絶品であった。

俺はごくん、と口の中のまぐろを飲み込んだ。

「それがどうした。」

「いやな。つまり俺が言いたいのは、嘘だって人生を豊かにするためには必要だということだよ。」

「……。」

猛烈に嫌な予感がした。

「かき氷のシロップは、目と鼻を塞いで食べればみな同じ味になるが、そうしたらかき氷の醍醐味は失われるだろう?そんなことをして世界の秘密を知ったと得意げになっても、なんの意味もないということだ。」

「おい。」

「嘘がなければ、この世界は途端につまらないものになってしまうんだよ。わかるか?」

「お前やっぱタッキュウウミガメなんてデタラメだったんじゃないか!?」

「ああ。すまん。許してくれ。」

藤野は机に手をついて頭を下げた。俺はその姿に言葉が出ず、ただ怒りに体を震わせた。

「本当になんなんだお前は!」

「まあ、アレは普通のウミガメだが、卵を集めなくてはいけないというのは本当だ。あの浜は観光客に人気らしいからな。裸足で硬い卵の殻を踏んだら大変だというわけだ。水野さんも、ちゃんと仕事をしてくれるならと一枚噛んでくれたよ。」

「そう、かよ………。」

「卓球の球になるウミガメの卵なんて面白いだろう?」

「それは……。」

久しぶりの肉体労働で、網を動かした腕はただひたすらに疲れていた。卵は案外重かったのだ。その疲労で怒る気力は段々と失せてゆき、今度はまたもや藤野の言葉を信じてしまった自分のバカさ加減を責めた。

しかし、藤野がニヤニヤ笑っているのを見ると、また沸々と怒りが湧いてきそうだった。

「お前、なんでそんな俺を騙すんだよ。」

「言ったろ。騙された方が楽しいこともあるって。」

「………。」

「あとは吉岡が信じ込みやすいからだな。」

俺は黙って再び海鮮丼をかきこみはじめた。その姿を見て藤野は笑った。

「かき氷、頼むか?」

潮風に吹かれて変色したメニュー表には、かき氷始めましたと乱雑な一文が書かれている。俺は深くため息をつき、藤野を睨みつけた。

「食べる。もちろん食べる。奢れよな。」

「もちろん。おーいお姉さん、かき氷二つお願い!」




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