その10
――
いつの間にか日も暮れてきた。夕日が山を真っ赤に染める。その山を貫く道には、二人分の長い影が宿場街に向かって進んでいた。
「はあぁ……」
ノーラは深いため息をつく。その顔には疲労の色がありありと見える。まるで死をも覚悟する強大な敵と戦った後であるかのようだ。まあ、実際にはゴブリンなのだが。
――うぅん、ゴブリン程度でこんなに苦戦するって…… この先やっていけるのかなぁ……
あれほど明るかったノーラの表情は、今では不安と不満と不信に満ちあふれている。もちろん、その矛先はすべての元凶である隣の伝説様だ。
ジロリと疑惑の視線を勇者に向ける。するとどうだろう、彼は笑っていた。ニコリとかそういうレベルではない。「ハハハ」と口を大きく開けて豪快に笑い飛ばしていた。どうだと言わんばかりである。
「いやあ、ゴブリンが連携取って戦うとはな。意外な発見だったな。まあ、何とかなるもんだ。この先も大丈夫だろう」
ノーラの心配とは対照的に、お気楽な言葉がバベルの口から飛び出してくる。思わず、顔を真っ赤にして、にらみつけた。
――なぁぁ、もう! 人の気も知らないで! ていうか、何が『対策はある』『任せておけ』よ。全然、考えてなかったじゃん!
彼女は怒っている。いろいろと思うところがあるようだが、本当のところは「何もしてあげられない」という状況が、フラストレーションの一番の原因だった。
ツカツカと早歩きでバベルの前に出る。さて、流石のバベルもノーラの足取りの変化に気づいたのか、ふと何かを察した後、その不機嫌な少女に声をかける。
「ところで、な」
「なに?」
まっすぐ前を見て歩いたまま、返事をする。
「さっきの戦いだけど」
「だけど?」
「ありがとうな」
突然の一言に、耳がピクリと動く。
「え、どうしたの?」
「ノーラが指摘してくれただろう。ゴブリンの中にリーダーがいるって。あれが無かったら、またやられてたかもしれない」
「見たまま言っただけだし…… そもそも、やられないでよ」
「いや、俺ですら気づけなかった。お前は結構、観察眼があるのかもしれない」
「そうかな?」
そんなこと、言われたこと無かった。
「そうだ。冒険家にとって、とても重要な能力だ」
「ふぅん……」
「だから、これからも何か気づいたことがあったら言ってくれ」
「……」
「今日は助かった、ありがとう。次も助けてくれ」
「……分かった……」
勇者の一言に、小さくうなずく。相変わらず顔をそむけたままだが、傾けた耳は真っ赤に染まっていた。いつの間にか、その顔から怒りの感情は消え、かわりに何か温かい感情が渦巻いていた。
ノーラは、チョロかった。無意識だったのかもしれないが、バベルは不機嫌な少女をなだめることに成功していた。
そうこうしているうちに、目的地である宿場街まであと少しのところまで来ていた。10分ほど歩いたところにある、下り坂の少し先に、ポツリポツリと街の明かりが見える。夕飯の準備だろうか、民家から炊事の煙が立ち上がっている。
「ああっ、街だぁ」
思わず声を上げるノーラ。魔物は基本的に人間のテリトリーに近づかない。例えるなら、現実世界の野生動物が人間の集落に近づかないのと同様だ。街が見えたということは、魔物と戦う心配が無くなったということである。
「おう、着いたな」
返事をするバベルも、心なしか安堵しているようだ。
「ああ、はやく休みたいぃ。おなかすいたぁ。お風呂ぉ」
「おいおい、気が早いな。まあ、夜も更けてきたし、すぐに宿にするか」
「うん!」
ここら辺は、16歳の少女らしい、素直さの表れである。
「ところで、宿って空いているの? もう日も暮れているし、最悪は野宿とか……」
「まあ、大丈夫だ」
彼には何か当てがあるようだ。
――
勇者と少女は街の中心に立つ宿を訪れた。この街の宿の中では一番の大きさを誇り、既に夕暮れともあって多くの冒険家や市民でにぎわっていた。
受付のベルを鳴らして従業員を呼ぶ。主人らしき小太りの中年がハイハイと面倒くさそうに出てきたが、目の前の男を見るや、その表情が一変した。
「なんとまあ、勇者様ではないですか!」
突然の勇者の訪問に驚く主人。
バベルの名は世界中に知れ渡っている。そして、その男が世界の平和に大きく貢献するほど偉大な存在であるとも。だから、勇者を持て成すというのは多くの市民にとって当然であり、そして光栄なことでもあった。
余りにも持て成しが度を過ぎて、大量の物を送り付けられたり、延々と接待を受けたりして困る時もある。ただ、それらは自分への期待や好意の表れであるとして、ありがたく受け入れるというのがバベルのポリシーだった。
「えっと、部屋を取りたいんだけど、空いている? できれば食事も」
「もちろんです。すぐに用意します! 食事はレストランで最高の物を用意します。お部屋に持ち込んでいただいても構いませんよ。お代? そんな、まさか」
主人は慌てて空き部屋を確認して、彼らを持て成す準備を急ぐ。
バベルは、どうだとばかりにノーラに視線を送った。顔パスで代金はタダ、こういうことは彼の冒険では日常茶飯事だった。
「あ、そうだそうだ!」
主人が大事なことを忘れていたとばかりに、バベルの方に向きなおす。
「後でサインをくださいね」
「はいはい」
勇者は苦笑した。
――
部屋は別々に用意してもらった。バベルとて、さすがにデリカシーというものがあるようだ。
「それじゃ、また明日ね」
ノーラは勇者にあいさつをすると、バタンと扉を閉めてプライベートな時間に入る。
部屋を入ってまず感じるのは、その大きさ。彼女がこれまで利用したことがある宿の倍以上はある。いや、彼女の自宅よりも大きい。さすがバベルと感心するが、普段の生活空間よりも大きいというのは逆に落ち着かない。さて、どうしよう。
「とりあえず」
部屋の中心にあるベッドに飛び込んだ。大人が3人並んで寝てもあまりある大きさ。そして、真っ白く柔らかい生地。
「えいっ」
―― ボフッ ――
布団の海に沈む。
「ふかふかぁ」
昨日からの張りつめていた感情が一気に溶けていく。疲れメーターがぐるぐると逆戻りする。
「夕飯食べなくちゃ、だけど……」
食事は部屋に持ち込んで食べることにした。それはテーブルの上に置いてある。しかし、この白いモコモコの敵は強すぎる。逃れることができない。ああ、これは悪魔だ。その名は睡魔。天国へと誘う悪いヤツだ。そいつにあっけなく打ち負けた彼女は、そっと目を閉じる。
「……Zzz……」
宿場街を月がやさしく照らすころ、二人の冒険家は、二人とも同じように、眠りの世界に旅立っていった。
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