その4
ノーラは混乱した。勇者からは魔法を唱えるという雰囲気を感じることができず、むしろ「これから殴り合いをおっ始める」ようにしか見えないからだ。
――こ、これは……
無言のち、しばらく考え、はっと何かに気づく。
――これは高位の魔法使いの構えなのね。こんなの初めて見るよ……
なかなか、ポジティブである。
――その握りこぶしから魔法が飛び出すのだろう、たぶん、きっと
勝手な妄想で、やや願望が入り混じっているが、そもそも高位の魔法使いなど見たことがないノーラにとっては、それを否定する材料を持ち合わせていなかった。
ゴブリンたちも、対峙する相手の雰囲気がおかしいことに戸惑っているようだ。攻撃をためらっているのか、動きをうかがうようにバベルを見ている。しかし、同様に勇者も様子を見ているようで、積極的に飛び出そうとはしない。彼らの間には少しばかりけん制しあう空気が流れた。
―― キキッ! ――
どれほど経過しただろうか。しびれを切らした1体のゴブリンが、バベルに突撃してきた。助走をつけジャンプし、腕を振りかざす。長い爪は、バベルの顔を目掛けて一直線に向かっている。
「ふっ――」
しかし、バベルには届かなかった。彼は体を90度傾け、そして爪の軌道から身を反らす。勢い余ったゴブリンはそのまま反対側までよろけていった。
―― キキキッ! ――
今の攻撃を合図に、残りも一斉に襲い掛かってきた。前、右、左とそれぞれから攻撃を繰り出す魔物たち。
しかし、そのすべてを身のこなし一つでかわすバベル。後ろ、左、右と華麗に舞うその姿はまるでダンサーのようであった。彼がステップを踏むたびに砂煙が立ち上がり、それが消えるころには、いつの間にか勇者は魔物たちの背後に回っていた。
「す、すごい……」
ノーラは、初めて目にするバベルの戦い方に感動した。一体なぜ魔法を使わないのか分からないが、この身のこなしは間違いなく歴戦の勇者のそれである、と。彼女は後ろの木の陰から固唾を飲んで見守っていた。
ゴブリンたちも、この相手がただならぬ存在であると認識するようになった。慌ててバベルのほうを向き直すものの、今度は逆に魔物たちのほうから距離を取り出すようになった。
再び初めの状態に戻り、こう着する時間が続く。だれしもが無言。山のそよ風が奏でる、木の葉を揺らす音のみが、この戦場のBGMとなって鳴り響いている。
「なるほど。じゃあ、こちらから行くぞ!」
今度はバベルが動いた。目の前にいる相手にターゲットを絞り、突進していく。そのスピードはすさまじく、まさに電光石火。身構える時間の無いゴブリンに近づき、腰を落として振りかぶる勇者は、ついに
「せいっ!」
魔物をありったけの力で、殴った。
俗に言う「パンチ」である。
「な、殴った? 何で、何で?」
ノーラは、その衝撃的な光景を目にして、開いた口が塞がらなかった。剣で攻撃するのは普通だ。魔法で攻撃するのも普通だ。しかし、魔物を殴って攻撃するのは、ほとんど見たことがない。いや、一度も見たことがない。当然、聞いたこともない。というか、その必要性が分からない……彼女の頭の真上には、いくつもの「はてな」が舞い上がっていた。
その殴られたゴブリンはというと、腹部をえぐられて悶絶し、足元をゴロゴロと転がっている。たかが殴打とはいえ、そこは歴戦の勇者。その鍛え抜いた肉体から放つそれは、相手を一撃で行動不能にするのに十分だった。
「まずは1体」
渾身の力から放った拳の一撃により、魔物を倒したという確かな手ごたえを感じていた。うっすらと浮かべる笑みから、まるで満足そうな様子が垣間見える。
―― キキキッ! ――
ところが、である。まさにその瞬間をゴブリンたちは見逃さなかった。残りの4体すべてが同時にジャンプし、バベルに向けて爪を伸ばす。まるで彼が攻撃してくるのを「待っていた」かのようでもあった。
「な、何っ?」
はっと気づいたバベルは慌ててかわそうとするが、先のゴブリンと同様に身構える余裕が無い。それぞれの方角から伸びてきた爪は確実に勇者の身体に触れて、体のそれぞれの部位に突き刺さり、そして切り裂いた。
「ぐあっ!」
攻撃に成功したゴブリンたちは一斉に後ろに下がり距離を取る。
残ったのはバベル一人。それは、最弱の魔物の攻撃に悶絶する、最強の勇者。まったく想像だにしない光景を目の当たりにして、ノーラは驚愕の表情を浮かべる。期待の色はどこかに消え失せ、かわりに血の気の引いた青ざめたものとなった。
「え、嘘でしょ……」
やがて、バベルの動きが止まる。
「あれ、バベル……」
鋭利な爪でえぐられた跡からポタポタと血が流れ出し、そしてシャワーのように血しぶきが上がる。まるでスローモーションのように時間をかけて膝をつき、地面に崩れ落ちた。
「ちょっと……死んだの……?」
彼女の瞳に映ったのは、亡骸のように崩れて動かなくなった勇者の姿だ。
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