Blend ‐ブレンド‐  or honey

 遂には、誰もキッチンに踏み入ってはこなかった。心配はしているであろうが、それより我が子の道やパティシエールとしての腕を信用しているのだろう。それほどまでに大事なのだ、この菓子は。

 焼き立てのパイに恐る恐るナイフを入れる。ハニーとその両親、ガトーと長老に分ければ五等分……いや、明志の分も合わせて六等分だった。まさか自分にも分けてくれるとは思いもしなかった。

「何とぼけた顔してるのよ? ハナノギのリクエストなんだから、どれだけ不味くても食べてもらうわよ!?」

 しかも毒見役は自分と言うわけだ。これは頼まなければ良かったと、少し後悔する。仕方がないので、まだ熱いチェリーパイを一口齧った。粗熱は取れているのでそこまでではないが、蕩けたチェリーフィリングが舌に絡みつく。それは甘酸っぱく、バターの芳醇な香りがするサクサクのパイ生地と良く合った。

 上手く食感が混ざり合い、しつこくなくすっとなくなる。大きめにカットしてあるが、すぐに平らげられそうだった。

「味がある……」

「えっ、……ほんとに?」

 クッキーの方が簡単で明快なのに、なぜそちらが不味かったのか明志には理解できなかった。いまとなっては明志の腹の中だし、もうどうしても答えは分からない。

「ほんとね……。治ったのかしら……?」

 ハニーは眼を輝かせ、自分の焼いたパイを頬張っていた。自画自賛ではあるが、こればかりは仕方ないだろう。やっと自分の味を思い出せたのだ。

「良かった……」

 泣きそうにはにかむ彼女は、確かにパティシエールの魂を持っていた。菓子など誰かのものを食べればいい。現代社会においては甘味など食いあぶれるほどだ。それでもその誰かが自分のものを選んでくれるなら、心から嬉しさが湧く。

「ハナノギ、わたし嬉しいわ。わたしがどうしたいか、気付いた気がする」

「――……そうか」

 明志は一瞬息を詰まらせるが、もともと自分はハニーの教師ではない。出会って数時間の関係だ。その道は、自分で決めるに越したことはない。


 ハニーはひょっこりとキッチンから顔を出し、辺りを見渡す。小さくなった篝火が、長老のあばら屋を照らしていた。周りには変わらずガトーとハニーの両親、そして長老の姿があった。一悶着あったが、皆静かに、それでいて心のざわつきを隠しきれていなかった。

 ハニーは少しだけ冷めたチェリーパイを盆に乗せ、彼らの元へ歩み寄る。それにいち早く気付いたのはガトーだ。日々の鍛錬で気配の察知能力も上がっているのだろう。

「ハニー女史、待ちかねたぞ! 良い香りじゃ!」

 豪快に鼻をすんすん鳴らし、嬉々として飛び上がる。

「どうぞお召し上がりください」

 恭しく四人の前にチェリーパイを差し出し、各々が取り皿を取っていった。長老の足は悪いので、ハニーは眼の前に持っていく。

「ハニーよ、もう悩みからは抜け出せたかのかい?」

「長老様……、お分かりでしたか」

「僕も昔良く悩んだよ。どれ一つ」

 それぞれが口に含んだころ、ハニーは言い放つ。

「皇太子様、わたくしハニーは、喜んで専属パティシエールになりたいところです。が、わたくしはまだ学ばなければいけない身です。それは学業と言う意味だけではありません。ハナノギに付いて、見たい世界がたくさんあるのです」

「お、おい……!」

 明志が考えていた答えとは、まったく違った。急に引き合いに出されて焦り出す。

「だけど、この機会をみすみす見逃すなんて、それはパティシエールとしてできません。だから、できればわたくしを専属パティシエール見習いとして契約してくれませんか?」

「ハニー! なんて失礼な!」

 無茶な交渉であることはハニーだって分かっている。これで断られたら折角見いだせた夢が潰えてしまう。心臓が高鳴っている音を耳の近くで聞きながら、それでも自信たっぷりに見えるようにポーカーフェイスを保っていた。

「今でも十分旨い菓子じゃ。じゃが、これよりもっと旨いものが作れるようになると言うことかの?」

「必ずや、作って見せましょう」

「じゃが、朕もそれほど長くは待ってはおれぬ。本来の修業は秋と聞いた。秋まで……、収穫祭までに仕上げることは可能かの?」

 猶予は、秋。いまは春なので半年ほどとなるだろう。それまでにもっと、自信のある味をできるだけ見付けたかった。明志と共にいれば、それは叶うような気がする。

「はい! ハナノギ先生がおります故、必ずや皇太子様に見合うだけのパティシエールになってみせます!」

 ガトーは明志をちらと一瞥し、再びハニーに向き直る。

「ふむ。信頼できる講師がいると言うのなら、朕は待とう。じゃが何度か其方の菓子を食べに寄越させてくれ。こんなにも人を想うものを食べたのは初めてじゃ」

「喜んで、いつでも皇太子様のためにお作りいたします」

 ガトーは嬉しそうににやりと笑って、見透かしたと言うように勝手な解釈をした。

「まったくパティシエと言うヤツは、またそう言う嘘を吐く。知っておるぞ、其方等は自身の信じることのためにしか菓子作りはせんことをな! 朕はそれに応えることしかできん。こちらもハニー女史を迎える準備をして待っているとしようかの!」

 ガトーは愛馬の手綱を柱から外し、勢い良くまたがる。駆け出す前にハニーと明志に立ち寄って、別れの言葉を告げた。

「そうと決まれば、さっそく一度宮殿に帰らねばならぬ。父に報告せねばならぬからの。ハニー女史、これを其方に託そうぞ」

 言ってガトーは、大きな握りこぶしをハニーに向ける。ハニーの二つの掌でやっと収まるくらいの拳であった。

 その太い指が柔らかく開かれた瞬間、ハニーは何か硬いものに触れる。ガトーの手が退かれると、そこには鉄でできたような星型の勲章があった。それは皇帝の専属になるものだけが持てる、世界にたった一つのものだ。ブラックココアを塗したような深い黒だが、それでいてキラキラと光沢があり夜空にも似ている。

「こ、皇太子様!? これを、いただいてもよろしいのですか!?」

「気負うことはない。朕は其方を専属パティシエールに決めたぞ! それに其方は第七十二代クラム・ショコラの素質があるようではないか。期待しておるぞ」

 パティシエの苦悩も知らず、ガトーは期待を胸に膨らませる。次いで明志に想いを託した。

「師アカシよ、其方にはハニー女史の成長を任せることにした。朕が皇帝の座に座り続けていられるような、立派なパティシエールに育ててくれることを願う。其方にはこれを」

 明志のネクタイに付いている星を確認し、今度はもう一つの星を分けてくれた。こちらでの貴族専属を表す証拠である。ハニーと違い金箔色で良く出回っている代物であったが、本来手に入れるのは難しいものだ。

「形だけではあるが、二つ星を名乗るが良い。我が専属パティシエールの師であれば、後ほどもっと良い地位を授けてやろう。それでは、また参る! さらばじゃ!」

 ガトーは嵐のように去っていった。明志は掌の星を見て、また面倒そうなものを貰ってしまったと、への字口にする。パティシエたちは互いに星を貰ったことにまず困惑していた。

「ハニー、改めて紹介してくれるかしら? その、先生のこと」

 ハニーの後ろから、母の声が掛かる。不服だが、明志はこれでこの世界に存在してもいい権利を貰ったのだ。二つ星は実力を認められた証。それも皇太子から直々に賜ったのだ。誰も抵抗ができない。

「母様、父様……。ハナノギは、わたしの先生よ。それ以下でも、それ以上でもないわ。でも、わたしが初めて信頼できる、尊敬できる人なの」

「そう、か……。その、ハナノギ、先生? ハニーを、どうかよろしくお願いいたします」

 男親は不便な生き物だ。娘が連れてきたどこの馬の骨かも分からない男に宝を任さねばならぬときもある。その初めてが自分で、何とも申し訳ない気分だった。

 だけれどもパティシエとして、任された義務は果たさなければならない。ハニーをガトーに見合うだけの腕にするまで、離れるわけにはいかなかった。

「ハニーさんのお父さん、お母さん。自分が責任を持ちます。お任せください」

 果たしてその教師としての責任はどこまで効力を発するのか不明であったが、そう答えるしかいまはできなかった。明志にはこの国でできることが少なすぎる。まずは何があるかを把握しなければなるまい。

 すると次いで声を掛けたのは長老であった。大きな体で一部始終をゆったりと見ていた彼は、ハニーと明志を自らの小屋へ案内する。

「ハニー、そしてハナノギ・アカシとやら、こちらで話したいことがある。付いてきなさい。キャンディ夫妻よ。選ばれた者のみに話す内容故、足を踏み入れることはせぬように。もうしばらくだけ子女を借りるぞ」

「はい、何なりと」

 両親にも促されたため、二人は小屋の中へ入った。奥の床板へギシ、と腰掛けて、長老は続ける。二人にも上がるように命じ、落ち着いたところで老人は口を開いた。

「まずはハニー。ガトー殿の専属に認められ、めでたいことだ。腕を磨くよう精進なさい」

「長老様、ありがとうございます」

「そしてそちらは……、この国の者ではないね?」

 見透かされて明志はどきりとする。やはり長年生きた者は、見知った顔を覚えているのだろう。

「それは……」

「ち、長老様!? ハナノギは、その! えっと、確かに外国の人ですけれど……!」

「取り繕わなくても良い。僕には分かっている。どこの者かな?」

 問われて、少しの間逡巡する。しかしこの老爺であれば何か知っているかもしれないと思い、明志は素直に答えることにした。

「日本と言う国ですが……、ご存知でしょうか?」

「む……、やはり異次元の……」

 年老いた男の口からは、いささか出にくい単語が聞こえた。異次元、とこの長老は言ったか。気になって、問いかけてみる。

「あの……、その言葉の意味は、いったい……?」

「ベェク帝国には、次元の違う者が紛れ込むときがあるのだ。その理由はほとんど解明されていないのだが……、確か最新の書物で何か研究発表がされたらしい」

「は? はぁ」

 もうろくしているのではないかと、明志は思った。次元が違うとは? そのような話、日本では現実にない。

「ガトー殿が何か知っているかもしれん。読書家と聞いたのでな。僕も詳しい訳ではないので何とも言えないが、我々はハナノギ殿を迎え入れようぞ」

 それならばもっと早く言ってほしかった。すでに馬で駆けているので追い付くのは困難だ。いまさら後悔しても遅いので、また次来たときに訊くとしよう。まだ信憑性があると言うものだ。この話はきっとただの絵物語だと証明してくれる。

 日本に帰ろうとも特に何をするでもないし、こちらの国で教師を続けるのも悪くはない。言葉も意味も変わらないようだし、何なら永住だって考えても良かった。

 とどのつまり明志には、どこで菓子を作ろうが構わなかったのだ。ただ文化だけ慣れればいい。下手なことをして命を落としては堪ったもんではない。幸い受け入れてくれるそうだし、願ったり叶ったりだった。

「それとハニー」

 再度ハニーに戻ってきた長老は、一番大事なことを教えた。

「先程のチェリーパイ、何を思って作っていた?」

「え……、その……、ハナノギが、食べて美味しいって思ってくれたら、と……」

 若干顔を赤らめ眼を泳がせながら、ハニーはしどろもどろと言葉を紡いだ。その想いは教師冥利に尽きる。

「うむ、職人として大事なことを思い出したようだね。常に食べてくれる者のことを考えて作れ。完成は終点ではない」

「完成は、終点じゃない……?」

「ひいてはその先に何があるかを考えるのだ。これを食べた者は何を成すのか、そのために自分は何ができるのか、と言うことを」

 答えはひとつではない。それを考えられる者が、一流だと言われるゆえんだ。ときには相手に合わせ、応用を利かせることもある。ハニーはその行為が、自然とできるようになるだろうか。

 不安も確かにあるが、それより何よりわくわくの方が大きかった。これから新しい自分に生まれ変わることができる気がする。そのきっかけは、明志が与えてくれたのだ。これには感謝しかない。

 ハニーはガトーに貰ったパティシエの星をじっと見つめ、そしてそれを臆することなく自分の胸に掲げた。



 それからと言うもの、ハニーと明志は毎日製菓に励んでいる。日中はハニーが学校のため、明志は食材とメニューを用意していた。たまにハニーはひとりよがりの製菓をして明志の頭を抱えさせてはいたが、それでも手順は完璧で非の打ちようがなかった。

 要は気の持ちようで味が変わると言うことか。初め明志はこの不可思議な現象に首を傾げてばかりだったが、実際起こっているのだから鵜呑みにするしかなかった。どう考えても答えが出ないので、仕様がない。

 ボロボロだったお気に入りのワイシャツは、ハニーが糸を通して繕ってくれた。意外と裁縫もできるようで、その繊細さをもっと言動に移してくれればとも思う。

 明志はネクタイにもうひとつの星を、取りあえず付けている。森での生活はそれなりに慣れ、皆も認めてくれているようだ。それでも腫れ物に触るような感じは抜けきれないが、迫害されるよりかはマシである。どうしても足りないものやレシピは街に調達へ出かけるのだが、やはり星が付いているとスムーズに行くようだった。

「アカシ! 久し振りじゃのう!」

 台風のような男が、久々にやってきたようだ。食材を抱えた明志の横に、黒馬に乗ったガトーが肩を並べる。

「……あぁ、ガトー殿下。お久しぶりです」

 ほとんど忘れかけていたが、やはり豪快な男である。明志は軽く眼を見開いて驚きつつも、できるだけ丁寧に挨拶した。もう、初夏の季節だ。

「乗るか?」

「あー……いえ、俺はいいです……」

 乗馬などしたことはない。ガトーに任せれば上手く移動できるかもしれないが、男二人でのそれは地獄絵図だろう。ガトーもそれを察したのか、無理強いはしなかった。

「ならば朕も歩こう」

 ガトーは良い皇太子で、必ず目線を合わせてくれる。やっと会えたので、気になっていたことを問うてみた。

「ガトー殿下、異次元世界のことを、ご存知ですか?」

「異次元、とな?」

 やはり長老の夢物語であったのか、ガトーの訝るような声に恥ずかしくなった。

「い、いや、知らないなら結構です! 忘れてください!」

「そのような話ができるとは! アカシは博識じゃな!」

 しかしガトーの返事はとても嬉しそうである。異界の話はほとんど知られてはいないのか、馬が合う者が少ないのだと教えてくれた。

「最近出たのは晩冬ごろの書物じゃな。アカシも愛読しているのか!?」

「そう言うわけでは……。その、長老に話を聞きまして……」

「そう言うことじゃったか。長老殿も博識であるからの。一度でいいから異世界の民に会ってみたいものじゃ!」

 眼の前に居るのがその異世界の住人だと知ったら、どのような反応をするのだろうか。長々と質問攻めに遭うのは眼に見えて分かるので、それは御免だった。

「どうして、迷い込んできちゃうんでしょうね?」

「一説には、シアンハニーが鍵を握っているらしい!」

「シアン、ハニー……?」

 ちょっとした昔に聞いたことがある、と思ったら、ハニーとクッキーを作ったときに使用した記憶があった。シアンハニーは日本にはない代物である。それならばどうして明志は、ベェク帝国に呼び込まれてしまったのだろう。

「その、シアンハニーがあれば、異世界から人が呼べると……?」

「現段階ではネズミでしか研究成果は現れてないがな。じゃが、何かしらの理由があるのじゃろう。ネズミの消えた先が分からぬ故、まだ人で試すことはできんのじゃろうなぁ……」

「ネズミ……? 消えた、とは……?」

 はて? そう言えばネズミをどこかで見た気がするが、あれはいつだったのだろうか。

「ふふふ、アカシは良く訊いてくれて嬉しいの! 本に寄れば、シアンハニーを高温で一気に加熱したときに出る煙を吸われるのじゃと書いてあった。シアンハニーをそのまま食べさせても効果はないと言うことじゃ」

 シアンハニーの煙。それがあれば日本に、帰れる、と言うことだろうか。意外と呆気なく分かって、明志は肩を落とした。原理は分からぬが、手掛かりがこのような近くに転がっていたとは。

 いや、元々は明志がハニーと知り合わなければ、接点のない情報であったかもしれない。森でのたれ死んでいたかもしれないと思うと、いまさらながらぞっとした。そうだ、ネズミ。そこで会ったのだ。実際には日本と言う、異世界で。鼻を噛まれたときに煙かったことも、はっきりと思い出した。ではあのネズミは、こちらの世界の生き物であるのか?

「そのシアンハニーは、どこに……?」

「それはパティシエの其方が良く知っているのではないか? いまは季節ではないと思うが……、どこへ行けば手に入れられるか、菓子職人なら情報を網羅しておるじゃろう?」

「あっ、ああ! そうですね! ガトー殿下のお話が面白くて、つい!」

「そうか!? 朕も楽しかった! このような話をされると皆は退屈してしまうようでな……」

 苦笑いで何とか乗り切り、明志は冷や汗を拭う。ガトーの気持ちも分かるが、流石にいい歳の男が異世界の話を持ち出すのはどうかとは思った。そのお蔭で明志はここに至るので、幸いと言えば幸いなのだが。

「して、此度はどこへ向かうのじゃ?」

「いつも製菓の練習をしている、北の森へ向かっております。本日はチョコレートが手に入ったので、ガトーショコラでも召し上がっていかれますか?」

「何!? 朕の大好物じゃ!」

 とは言っても、作るのはハニーだ。今日は、彼女に頑張ってもらわねばならない。ガトーは良く笑う男である。きっと優しい皇帝になるのであろう。

 しばらくして学業を終えたハニーは、面子を見て大いに驚いたのであった。


  チョコレート……………………二〇〇グラム

  バター……………………………一〇〇グラム

  ココアパウダー…………………三〇グラム

  小麦粉……………………………三〇グラム

  砂糖………………………………五〇グラム

  卵黄………………………………M~L 四個

  卵白………………………………M~L 四個


  粉砂糖(トッピング用)………適量

  生クリーム(トッピング用)…適量


 チョコレートを細かく刻み、湯煎する。溶けたらバターを入れ、溶かし混ぜる。卵から卵黄と卵白を分け、それぞれ別のボウルへ。卵黄は砂糖と合わせ、白っぽくなるまで混ぜ合わせる。その卵黄に溶かしチョコレートを少しずつ混ぜ、なじんだら小麦粉とココアパウダーを合わせたものを振るいながら加える。ひとまとまりになるくらいまで、さっくりと混ぜる。

 オーブンを一七〇℃に予熱し、ケーキ型に分量外のバターを塗る。クッキングシートを底と側面に敷き詰めておく。

 卵白はしっかりとしたメレンゲを作り、二、三回に分けて生地に加える。最初の一回目は泡を潰しても良いので、しっかりと混ぜ合わせる。残りはさっくりと混ぜるが、白色が残らないようにすれば味も均一になる。

 型に流し込んだら空気抜きをし、オーブンで三十分ほど焼く。焼きあがったらお好みで粉砂糖や生クリームをトッピングしても良い。



 満足そうに平らげると、ガトーは今後について語る。

「良く洗練された味に近くなっておる。夏が終われば秋じゃ。収穫祭が楽しみじゃな。またその前に迎えに来るでの。心して励んでおれ」

 邪魔したの、と言い残し、ガトーは馬を走らせ去っていった。貴族と言うものは、向こうは向こうで忙しいらしい。

 明志は先程のガトーとの会話を思い出し、ハニーに問うてみる。

「なあ、ハニー。シアンハニーを持っていたりしないか?」

「シアンハニー? いまは時期じゃないから持ってないわ。どうしたの?」

 明志は一瞬、話していいものか躊躇した。それでも知っておいてもらわなければ、色々と不便だろう。

「どうやら、シアンハニーがあれば日本に……、帰れるらしい」

「――――え……」

 ハニーは唇が震える。師と仰いだ人物が、故郷に帰ろうとしているのだろうか。

「こっ、困るわよ!? あたしの腕は、誰が上げるって言うのよ!?」

 いつになく焦って、息が上がる。だけれどもそれが自分に止められるのかどうか、自信がなかった。彼が帰ってしまったら、一度決めた道が揺らいでしまうかもしれない。

「……心配するな。君が正式にガトー殿下の専属になるまでは、いてやるつもりだから」

 それは本心なのか。たまに明志の感情は平坦で読み辛いことがある。それでもその言葉を信じるしかなく、それでいてハニーはできるだけ、シアンハニーを遠ざけなければと言う思いも生まれた。

 確かに自分が修業課程を会得すれば、明志はそれでお役御免なのだ。その先のことを考えても、バチは当たらないだろう。そう言う自分は? 専属になってから何を目的として生きる?

 完成は終点ではない。しかし突き詰めていくと、どこにもゴールなどないような気がした。果てしない先へ向かって、菓子と言う想いを届けるしかできない。パティシエの腕は貴族の地位に直接繋がる。職人はそれ故、相方が何を行いたいのか、何のために皇帝になりたいのかを知る必要があった。ガトーの地位は約束されているが、ガトーもまた皇帝になることが終点ではないのだ。

 双方の意志が合致したときに、その地位はさらに高みへと駆け上がることができる。今一度掛け合わなければ。ハニーとガトーのために。



 木の葉が落ち、地面がパンプキン色に染まるころガトーは再びやってきた。そのときにはもうすっかり、ハニーの髪はチョコレートのようになっている。あれから明志にはシアンハニーのことは訊かれないので、ハニーは安堵していたが、しかしもうすぐ自分は宮殿に召し上げられてしまう。彼には彼の人生があるのは重々承知しているが、気になって仕様がなかった。

「皇太子様、良くぞいらっしゃいました」

「ハニー女史にそう言われるのも本日で最後じゃな」

 ガトーはいつになく静かに笑っている。明日の収穫祭で帝位を引き継ぐためか、やはり緊張しているのだろう。ハニーは恭しく腰を折り、ガトーをパティシエの村へ迎え入れた。

「まずは長老殿に挨拶と思ってな。夏ごろから具合を悪くしたと聞いた。体はどうかの?」

「まだ寝たきりですが、お話は可能です。起き上がれないご無礼をどうかお許しください」

 高齢のためか、長老は真夏の暑い日に倒れ、それから寝込んでいた。うむ、とひとつ返事をし、ガトーは長老の住まいに入る。独り身である故、傍には明志が付いていた。

「長老様、ガトー殿下がいらっしゃいました」

「あぁ……」

 明志はぽつりと告げ口し、重い長老の体を起こそうとする。しかし慌ててガトーが止めた。

「長老殿、どうかそのままで結構じゃ!」

「……申し訳ございませぬ」

 明志を頼ろうとしていた左腕が床に戻され、長老は天を仰ぐ。少しやつれただろうか。

「構いませぬ。この度はご挨拶にと伺った次第じゃ。明日、朕は帝位を賜りまする。ひいては、ハニー女史に改めて専属の話を持ってまいりました」

 緊張の最中、もう一人の若い男は辺りを見渡し、この場を去ろうとした。が、

「待て、アカシ。其方にも聞いておいてほしい。朕の意志はいつ聞こうが必ずや耳に届かせるつもりじゃからな」

「……分かりました」

 ガトーは強く頷き、話を続けた。初めて会ったときとはまるで別人だ。しかしそれは明志もハニーも同じであった。変化は悪いことではない。

「朕は、この国をもっと良くしていきたい。それは全ての貴族の願いに言えることじゃが……、まずは父、ヒガシの政策を引き継ぐつもりじゃ。それでいて改善の余地を探る。また、貿易にも力を入れるとしよう。食材はもちろんじゃが、これからは調理機器についても交渉を進めたい。ハニー女史はそう聞くとパティシエールとして黙ってはおれんじゃろう?」

 静かに聞いていたハニーだか、確かに瞳はキラキラと光り輝いていた。

「あとは民度の向上じゃな。パティシエ側もそうじゃが、貴族側も今一度学業の内容を見直さねばならぬ。アカシ、手伝うてくれるじゃろうか?」

 それには、明志は素直に頷けなかった。

「何、いますぐとは言わぬ。直接教師として教えることはなくとも、教師を教育する側に回ってくれても構わん。それは後程政策を打ち出す故、じっくり考えてくれると嬉しいの。また、海外の知識や文化も取り入れるつもりじゃ。ベェク帝国は研究者や医者が滅法少ない。これでは人を救う術が足りなくて敵わん。いま考えているのはそのぐらいじゃ」

 ガトーは改めてハニーに向き直り、再度願いを伝えた。

「朕の野望のため、力を貸してはくれんかの? 契約してくれた暁には、其方の言うもの何でも用意しよう。十分に製菓に励んでほしいからの」

 このときパティシエールには、眼の前の人物が実際政策を実行するより大事にしていることがある。自分の興味がそそられるかどうかだ。それは確かに政策内容であるときもあれば、人柄や顔つき、現在の地位などだけに反応して契約する者も少なくない。

 そしてハニーもパティシエの例に倣って、自分の興味本位で決めることにした。本来貴族は、パティシエがいなければ願いも叶えられない愚かな生き物なのである。よって二人きりになれば、こちらが上座と言うことになるのだ。

「皇太子様、いえ、ガトー・ベェク陛下。喜んで、専属の話お受けいたしましょう」

 本当のところを言うと、直前まで悩みの種はあった。しかしいま現在に至っては、誇らし気に引き受けても良いと思えるほどになったのだ。これほどまでに真剣で向き合ってくれた大人の男二人に、感謝を捧げる。

 ガトーは常々の砕けた笑顔になり、ほっと胸を撫で下ろした。

「良かった! 緊張したぞ! その言葉、偽りないな!?」

「大事な契約儀式です。嘘を吐けば首をはねられかねませんから」

「いつの時代の皇帝じゃ。いまはせいぜい迫害を受ける程度じゃぞ?」

 それでも十分手痛い仕打ちなのだが、と明志は思う。二人が結ばれたことで、やっと自分がよそ者であったことを思い出した。ふ、と感情を失い、眼の光が消える。

「それではさっそくじゃが、共に宮殿へ参ろうぞ」

「畏まりました。じゃあハナノギも一緒に――!」

「それはできぬ相談じゃな」

「え……?」

 優しいが、それははっきりと断られた。残念そうではあるが、厳しい表情をしている。

「連れて行けるのは正式に専属の儀を結んだハニー女史だけじゃ。アカシが専属見習いとして同行を望むのであれば考えるが……」

 明志はひとつ息を吸い、ガトーの言葉を奪った。

「俺は……、ここに残るよ」

「ハナノギ……っ!」

「長老様は誰が看るんだい? 俺しかいないだろう。ハニーは俺のことなど忘れて、専属パティシエールとして役目を果たしてくると良い」

 張り付けたのは、嘘の笑顔だ。ほんのりと笑っているように見えればいい。だけれどもそれはハニーを、他人と言う立場に戻す、残酷な笑顔だった。

 ハニーは口を開閉させて何か言いたげだったが、ガトーに促され遂には言葉を掛けられなかった。

「ハニー女史の二親にも挨拶せねばな。案内してくれぬか?」

「あっ……」

 広い掌で背中を押され、小屋を出ていく。それを見送ると明志はまた、す、と無表情になり、長老の看病を続けた。

「難儀なものだの、決まりと言うものは」

 しわがれた声で長老はそう呟く。

「アカシ ハナノギよ。シアンハニーが出回る時期は初春じゃ。それまで共に生きてくれるか?」

 明志は懐かしい、それでいて一時たりとも忘れたことのない食材の名を耳にした。ヘーゼルナッツの双眸を見開き、話を引き出そうとした。

「長老様、シアンハニーのことを、ご存じで?」

「僕も最近耳にしたのじゃ。伝えるのが遅くなってしまい申し訳ないの」

「……いえ、取れる時期を教えていただいただけで、十分です」

「明日、帝位が引き継がれるのじゃが、そのときに現皇帝の専属パティシエが村に戻りに来る。僕より年配だが、元気なジジイでな……。手厚く迎えてくれると嬉しい」

 懐かしむようにはにかみ、長老は色々と教えてくれた。現皇帝ヒガシ・ベェクの専属パティシエの名はミスペル・ビスキュイと言うこと。皇帝専属の任が解かれると、村へ戻り村長として治めるようになること。

 そして自分は、もうそれほど長くないと言うこと。

「せめてシアンの花だけは見ていかんとなぁ」

 それはそれは美しい、国の花であること。長老があまりにもうっとりと話すので、明志も見てみたくなった。帰るのは、その後でも良いだろう。

 ハニーは宮廷に召し上げられたときから、第七十二代クラム・ショコラとして君臨している。きっかけを与えたのは紛れもない明志だと言うことに、本人はまだ気付いていない。

 菓子職人として忙しくても、必ず七日に一回程度は森に帰ってくる。その度に元長老が気になってとの理由を付けているが、明志が故郷に帰っていないか確認するためであった。

 すでに情報は得ているのだが、ハニーには絶対に教えなかった。教えてしまったらハニーは自分を止めに来る。きっと、最後に会ってはいけないのだ。

 そうこうしている内に冬を超え、硬いつぼみが芽吹き始めた。少し暖かくなったころ、明志は長老を連れてシアンの木に案内される。

 それは確かに、たいへん美しい植物であった。蜜そのものと言うような甘い香りが風に乗って撒き散らされ、今年も良い傑作が採取されるであろうことが予測される。

 蜜蜂はどこへ行くのだろう。明志の欲する蜜をいとも簡単に飲み干してしまう、あの羨ましい昆虫は。

「アカシ、もう蜜蜂が翔んでいるな。今年は早めにシアンハニーが出回るだろう。シアンハニーを精製しているのは、現在パティシエではない。貴族が商売のため作っているから、南の市場街へ出向くと良いだろう」

 それを告げた数日後、この老爺は遠い旅路へ出た。弔いは、明志は出席せず、ミスペルに全てを任せる。初め引き受けてくれるか不安であったが、ミスペルは深い理由も聞かず、明志を送り出してくれたのだ。

 明志はシアンハニーを手に入れるべく、市場へ向かう。市場には同じ目的でパティシエが押し寄せてきていた。

「何でもいい、シアンハニーを」

 明志はやっと人の波を掻き分け、一番安いものを買う。元の世界に戻れるなら、どのような質のものでも良かった。再度帰るために人混みを抜けると、掛かってはいけない声が聞こえる。

「ハナノギ……?」

「っ! ハ、ニー……?」

 まるで幽霊でも視ているような顔だっただろう。恰好は幾らか都会的になってるが、いまここでは、絶対に存在してはいけない人物だった。

「どうしたの!? 買い物?」

「いや、まぁ、そんなところだ……」

 明志は掌の小瓶を隠すように握り直す。しかし目敏く見つかってしまった。

「もしかして……、シアンハニー……?」

「い、いや……」

「ハナノギ! ちょっといいかしら!?」

 悲しそうにぽつりと呟いたかと思えば、今度は激高して明志を連れていこうとする。今度は袖ではなく、上から手首を摑んでいた。

「ま、待て……! 俺は――」

「帝都の地理はそこまで知らないはずよ! 手を離して、迷子になっても良いって言うの!?」

 いささかヒステリックに叫ばれたので、しばらくは付いて行くことにする。心臓が締め付けられるように痛かった。どうしてか、とてもこの腕を振り払えない。男の力であれば、きっとすんなりと別れられると言うのに。

 早足で連れてこられたのは、中央に位置する宮殿だ。ハニーは恩人だと告げて従者を掻い潜り、自室へと案内する。バタンと勢いよく扉を閉め、内側から鍵を掛けた。

「――――……」

「ハニー……?」

 しばらく黙りこくっていたが、やがてひとつ質問を寄こす。

「長老様、は?」

 それはとても答え辛い問いであった。口は重いが、手早く答えてここを去らなければならない。

「……亡くなられたよ」

「…………そう」

 ハニーは眼を見開き、そして悼むようにゆっくりと黙とうした。一気に重苦しい雰囲気になる。それでもハニーは、訊かなければならないことがあった。

「ハナノギは……それを、どうするつもりなの?」

 それ、とはシアンハニーのことだ。すっかり気付かれているようで、もう隠しようがなかった。黙秘していると、ハニーは問いを続ける。

「故郷に、帰るの……?」

「……そうだよ」

 しかし明確に、返してやらなければなかった。彼女の未来のために。

「っ、どうして!? この国でずっと暮らしていけばいいじゃない!?」

「それは帰る方法が分からなかったから、仕方なく、だ」

「あたしのことも!? あたしのことも仕方なくだったの!?」

 それには、答えられなかった。自分でもどうしていままで付き合ってやったのか、気付かなかったのだ。そのとき、扉が外側から叩かれる音がした。次いで、豪快な男の声が響いてくる。

「アカシか!? 朕じゃ! ガトー・ベェクじゃ! 久しいの!」

「ガトー、陛下……」

 従者から情報を聞き得たのか、ガトーがいつの間にか扉の前にいるようだった。しかしその大きな声さえ、いまのハニーには届かないようである。そのような状況は、とてもバツが悪い。

「答えなさいよ!! 異世界の人だから!? 自分には関係ないって思ってたんでしょ!?」

 扉の外からガトーは、自分の専属パティシエールが何やら声を荒げるのを聞いていた。異世界の人、と彼女は言っただろうか。

「あたしなんてどうでもいいんでしょう!?」

「ち、違……」

 だけれども、完全には否定できなかった。それを訂正したら、自分は絆されてしまう。言いたい言葉を必死で飲み込んで、明志は押し黙った。

「だったらどうして……! 帰るなんて言うのよ!!」

 ハニーは、眼に涙を溜めている。赤いベリー色の部分を、さらに瞳に広げていた。それが何とも、抱き締めたいほど愛おしい。

 そうか自分は、彼女のことをそう想っていたのか。しばらく離れていたから気付かなかった。それとも気付かないふりをしていただけかもしれない。

 けれどそれは叶わない。二人はもともと、別の世界の人間なのだ。

「日本で、……やりたいことができたんだ」

 それはハニーと別れてから約半年間、ずっと考えていた課題だった。ここでできること。ここではできないこと。日本でしかできないこと。それぞれだ。

 明志は考えた末に、日本に戻る決心をした。

「――――っ!!」

 ハニーはその言葉を聞いて、口をつぐむしかない。パティシエの野望は同じ世界に住む者が一番理解がある。

「あっそ! じゃあ好きにしなさいよ!!」

 ハニーは鍵を明志に投げつけ、そっぽを向いた。自分には、一指も触れる権利はない。震える肩を抱き寄せたかった。だけれどもそれは、残酷な結末をより引き立てることしかできないのだ。

 明志は鍵を拾って、出て行くことにした。帰るのだ。離れなければいけない、お互いの為に。

「お別れだ、元気でな」

 顔も合わさずに、言葉だけで冷たく別れを告げる。彼女はぴくりと体を跳ね上がらせたが、それ以上の反応は見せなかった。カチリと金属の音が聞こえ、鍵が開いたことを示す。

 扉を開けるとガトーが心配そうに窺っていた。眉を下げ、珍しい顔をしている。隣には誰か分からないが、一人の女性が控えていた。

「陛下、あの子をよろしくお願いします」

 なるべく名前を呼ばないようにした。口が思い出すと全てが蘇る。明志は挨拶もせず、元来た道を早足で戻っていった。

「……ハニーよ。どうしたのじゃ?」

 自分の相方になったからか、敬う名称が外されていた。それでも敬意が消えたわけではないことを、我々は知っている。

「…………何でも、ありません」

 何とか絞り出した返事は、何もなかったように聞こえなかった。それにガトーは扉の外で聞いていたのだ。見てはいないが、知らないわけではない。

「ハニー、いま幸せかの?」

「は……っ? …………えぇ」

 いまの状況には不似合いな質問であったが、一部始終を見ていないガトーには仕様がない問いなのかもしれなかった。パティシエールとして最高の地位に就いて、不幸せなことがあるはずない。そう、言い聞かせる。

「ふむ、それが本心ならば何も言うまい。朕の願いは皆が希望に満ちている国になることじゃ。まずは朕の近くの者から叶えていきたい。其方の思うように、生きれば良いのじゃぞ?」

 優しく諭されて、ハニーは言葉を失った。そのようなことができたらどれだけ楽か。自ら選んだ道ではあるが、果てしなく後悔した。きっと後にも先にもこのようなことはないだろう。

「ですが、あたしは皇帝陛下の専属の身。ここにいるしかできません」

 少し、嘲笑混じりに答える。皇帝がこれほどまでに愚かであるはずはないだろう。専属のパティシエールを失えば、皇帝の地位はたちまち消滅してしまう。折角政治も軌道に乗り始めたばかりなのに、みすみす手放すことは考えられなかった。

「朕を誰だと思うておる! ベェク帝国の皇帝じゃぞ? 其方がいないときの対策ぐらい、考えておるわい!」

「えっ……、ですが――」

 希望で一瞬顔を上げたが、それはきっとリップサービスで言っているに過ぎないだろう。本当にこの場を出ることは許されない。

「もっと朕を信じろ! 皇帝の朕が行けと言うておるのじゃ。其方は心配せず、自分の気持ちに正直になれば良い」

「本当に……、大丈夫なのですか……?」

 その希望に満ちた問いに、ガトーは満足そうにニッカと笑った。

「幸せになれよ! ハニー・キャンディ!」

 その言葉に突き動かされて、ハニーは走り出す。申し訳ない気持ちではあるが、どうしても止められなかった。宮殿を、城下町を高速で抜ける。

 目指すは、二人が初めて出会った北の森だ。



「さて、どうしようかのう……?」

「まさか、お考えなしであのようなことを?」

 ガトーは考えるために顎に指を遣る。便乗したのは隣の女性だ。

「いや、策がない訳ではないのじゃがな……。まさかこのような展開になるとは! 人生は面白いのう!」

「ふふ、主様らしい」

 破天荒なガトーに合う妻は、また破天荒であると言うことだろうか。自分の地位が危ういと言うのに、二人して笑い合っていた。

「しかし、アンコには悪いことをした。折角朕と婚姻してくれたと言うのに……」

「まぁ、あたくしは大丈夫ですわよ。愛する主様と共にいられるのなら」

 ガトーはアンコを愛おしく抱き寄せる。自分たちがそうであるように、二人にもこのように幸せを感じて欲しかった。それは短い間ではあるが、同じときを過ごした友人であるからだ。

「できればアカシにも紹介したかった。二人は上手くやれるだろうか」

「愛は偉大ですわ。ですが、ときには互いを傷付けることもあります。その全てが大事な経験。絆はより強固となって、本物を支えますわ」

「……そうじゃな」

 後日、秘密裏に会談が組まれた。現皇帝ガトー・ベェクと彼の信頼する友人ポメロ・ケィクが椅子に座る。ポメロの傍に控えるは、イチコ・トルテ。先日までの名を、イチコ・アップフェルと言う。ガトーは皇帝の座をポメロに譲る協定を交わし、ポメロもガトーの築いた道を歩むことを決めた。

 双方納得の上で握手し、ガトーは皇帝の座を退いたのだ。



「ハナノギ!」

「……!? ハニー!? どうして来た!」

 北の森のあばら屋で、再度ふたりは邂逅した。明志は古い竈に薪をくべ、高温に熱しているところだ。

「あのね……あの、あたし! ハナノギと一緒に生きたい!!」

「ハニー……、だが専属の君がここへ来てどうする!?」

 明志は必死に止めようとする。が、ハニーの意志は固かった。思えば、最初から彼女には振り回されっぱなしだった。

「あたしだって悩んだわ!! でもガトー陛下からお許しが出たの。ハナノギと共に生きてみたい。ハナノギと一緒なら、どこへだって行ってもいい!」

 だから今度は、俺が導いてやらねばならない。

「ハニー……。来い! 俺はもう、君を離したくない」

「ハナノギ!」

 初めて、二人は手を握る。最後まで彼女は自分を苗字呼びだったが、それも今度訂正しよう。明志はシアンハニーの瓶を、焚き木を掻き出した竈に投げ込み、煙を発生させた。包まれた世界はやがてするするとほどけて、ハニーには見知らぬ景色が拡がっていた。

「ここは……!」

 明志は何やら見覚えがあるのか、眼に光を宿している。

「ボヤで良かったね~。あれ、花ノ木先生? その人は?」

「あっ、いやハニーは……!」

「ハニー!? 彼女さん!? キャーッ!!」

 その後、教師、花ノ木 明志は彼女のことを“ハニー”と呼称していると言う不名誉な噂が立ったのは、言うまでもなかった。二人は互いに顔を見合わせ、まるでフランベかと言うほど赤面した。

 ここはシューティングスター製菓学園。どこか齧られたのか、ネズミの出てきたオーブンから突然煙が発生し、外に避難してきたらしかった。後に、娘が通うことになる。

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