Blend ‐ブレンド‐  or sugar

「ハニー・キャンディ!? キャンディ!!」

「は……? はい!」

 彼女は、キャラメル色のすとんと落ちた髪に、木苺色のおっとりとした眼をしていた。ハニーは教室の一角で、教師のヌガー・ピスタチオの授業を受けている最中だ。ここ、ベェク帝立製菓学校には、多くのパティシエ見習いが通う。

「キャンディ、また心ここにあらずなのかしら!? 先生の授業はそんなに面白くない!?」

「ちっ、違います、先生! 今日は何を作ろうかと……、頭がいっぱいで……」

 ハニーはその中でも人一倍製菓が大好きで、常に菓子のことで頭を悩ませていた。本来製菓職人として学ばなければいけないはずの授業も、聞いていないほどに。

 ハニーはいわゆる、天才だったのだ。材料を見ただけで、完成された味が分かってしまう。なのでよく、課題をアレンジして先生に叱られていた。ハニーも生徒であれば、基本を抑えるべきはずなのだ。特に菓子作りは分量を少しでも違(たが)えば失敗してしまうのである。

「それで授業を聞いていないのであれば、本末転倒ではないですか! キャンディ、あなたの才能は認めます。ですがまだ学生の身。学んだ知識は裏切りません」

「はい、先生……。すみませんでした……」

 また叱られてしまった。その名の通りピスタチオのような眼光に睨まれると、肩が竦んでしまう。だけれども先生、その組み合わせならジャムではなく潰した生の果実の方がジューシーになるのに、と言おうとしたのを何とか喉の奥に飲み込んだ。

 幼い頃から、菓子の焼ける匂いや切っている果物などで何を作っているのか分かった。みなは褒め称えてくれるのだが、自分にとってはこれが普通であったのだ。何が凄いのか理解が追い付かない。卵や牛乳、果物の酸い甘いも鼻で判別できる分、出来上がりの味には自信があった。しかし思った通りというのは、何とも面白味がない。味気ないのだ。

 やがてハニーは基本の組み合わせを違えるようになり、新しい何かを産み出そうと一生懸命考え込むようになった。しかし何を混ぜても想像の域を出ない。それがとても空しく、口惜しかった。

「ハニー、ま~た怒られたね?」

「イチコ……」

 授業後に話しかけてきたのはハニーのクラスメイト、イチコ・アップフェルだった。りんごのような燃える瞳に、同色のもっさりとしたショートボブ。背が低く人懐っこいので、どことなく小動物に似ている。

「余計なお世話よ。ほじくり返さないでくれる?」

 ハニーは不機嫌そうに、そう返す。けれど彼女はいつもの如く、他人の話は聞いていないのだ。

「ハニー、気にしなくていいよ! ハニーは良いところたくさんあるもん!」

「別に気にしてないんだけど……」

 どうせ学校を卒業するまでの関係だ。先生もクラスメイトも。特に誰かが嫌いだということはない。暴走する癖はあるがイチコは数少ない友人だし、満喫できていないわけでもない。授業だって改めて学べることもあるし、つまらないこともないのだ。

 それでもどこか、心の奥底でぽっかりと穴が開いている感じがして、やること全てに集中できなかった。開いた穴はきっと製菓で満たされるはずだと思っているのだが、作っても創っても、それは埋まらなかった。

「イチコ、今日あたし帰るわ」

「えっ!? そんなにショックだったの!? 怒られるのはいつものことなのに! へこまなくて大丈夫だよ!!」

 失礼なことを口走るのも、玉に瑕(きず)である。

 少しカチンと来ながらも、ハニーは無言で立ち上がり荷物をまとめた。わたしのせいじゃない。前言撤回だ。ピスタチオ先生の授業に関してだけは、全く面白くない。味のなくなったガムをずっと噛んでいる感覚だ。でも出してはいけない、なんて自分勝手すぎる。

「ハニー!? ちょっと……ホントに帰るの!?」

「悪いね、イチコ。やる気そがれたわ。ひとりでキッチンでケーキ作ってる方がマシ」

 それはハニーだけの、誰にも邪魔されない世界。自分だけの答えを導き出せる、唯一の場所だった。ハニーは教室を足早に後にし、出来るだけ誰にも見つからないように玄関まで駆け抜けた。左右を見渡し、また一気に走り出す。

 ベェク帝立製菓学校は、パティシエたちが暮らす森の中にどっしりと構えられている。十半ばのパティシエ見習いは全員、足しげく通うようにとの規律が出ていた。元は親が子に伝承していた技術であったが、帝都の人口も増え、それにともない専属パティシエの数も必要になったのだ。必然的に森に残れる職人も少なくなり、伝えられるレシピもちらほらと抜け落ちるようになってしまった。

 そこで建てられたのが、ベェク帝立製菓学校である。誰にも付かないパティシエを講師として招き入れ、そこでレシピを教える。画期的な教育機関の完成である。

 しかし正直、ハニーにはどこが必要なのかさっぱり理解できなかった。いまの皇帝が力を注いで作り上げたのだが、つい最近建設されたばかりなので色々と穴はある。いわゆる家庭の味と言うものが再現できないのだ。パティシエ家系はそれぞれに違う味を持っており、その味の違いを貴族に見初められて契約となるのだ。

 皆で同じ分量、同じ材料、同じものを作ってしまったら、職人の腕の判断はどこですればいいのだ。ハニーには何とも気に食わなかった。

「だいたい、同じものが作れるようになったからって、何が嬉しいのよ……!」

 とたん、ざわざわと強風が吹き荒び、唇を尖らせていたハニーの長い髪を乱れさせた。季節はもうすぐ、春の嵐がやってくる。ふと毛先に付いた白いものを見ると、それはベェク帝国が誇るシアンの花びらであった。クーベルチュールチョコレートほどのそれは、しばらくすると全て散ってしまう。花の寿命は短いとは知っているものの、やはり物悲しいものであった。

「シアン……。シアンハニー、美味しいよね」

 ハニーはうっとりと、独り言ちる。味を思い出し、幾つかのレシピを打ち出した。こと、菓子作りに関しては一瞬にしてその世界に堕ちることができる。だって、その時間が一番楽しいのだもの。

 今日はシアンハニーで何か作ろうと考えていると、後ろから声が掛かる。

「其方(そち)! 森のパティシエかの?」

 ハニーはどきりとして、声のした方を向く。後方では、胡麻を擦ったような艶やかで漆黒の馬と、それに跨る大男がいた。馬と同じくガトーショコラのような黒髪は短く刈り揃えられていて、簡易ではあるが武装されている。

「そうですが……、何か?」

「ふむ、学生かの? はて、いまは教育機関ができたから勉強に励んでいると思うておったが……」

 ガチャガチャと金属を鳴らしながら、大男が太い指を顎に遣る。乗馬もしているし、話し言葉も貴族のようであった。変に探られてサボりがバレるのは避けたい。大人に何を言われるか分からなかった。

「きょ、今日は、お休みなんですぅ~……」

「そうであったか! いや何、パティシエの文化は其方等に任せておるのでな! これは失礼を!」

「そ、それよりっ! 本日はどうされたのでしょうか!?」

 ぎこちない笑顔で対応してみたら、すぐに納得してくれたようだ。ハニーは話を逸らし、相手のしたかったことへ促す。

「そうじゃった! 朕は専属のパティシエを探していての! 村に行きたかったのじゃが、道に迷ってしまったのじゃ!」

 ガハハと豪快に笑う男は、あまり困ってないように見えた。身体と同じく動作も大きく、何とも陽気な貴族だった。

 ハニーが村の場所を教えると、男は礼を残し早足に去っていく。怒涛の嵐のような貴族に少々気疲れし、かつ呆気に取られた。ハニーも順当に行けば、いずれは貴族の専属パティシエールとなる。決して決められたレールではないが、自分たちのほとんどがそうなる運命なのだ。自分はどのような貴族の専属になるのだろう。先程の男が選ぶ専属パティシエには体力が必要そうに見え、それがハニーには気の毒だった。

 しかしハニーには関係ないだろう。天賦の才能の持ち主かつサボり常習犯ではあったが、どのような者でも学業を終えるまでは誰の専属にもなれないのであった。初めは意味を成しているのか分からない取り決めだったが、それまで無法地帯であった契約の内容もそれに伴い一新された。時には、天才的パティシエと見れば十そこらの子どもまで連れ去られることがあるため、パティシエの業を伝承させるのに問題があったのだ。

 そのような文化も変わりつつある昨今だが、この体制が長く続くようであれば変化は否定しない。そもそも自分だけの力では、世界を変えることもできないのだ。我々はただ皇帝を信じるか、背中を預けられるパートナーを見つけるしかない。現時点ではいまの皇帝に不満はないし、それどころか善い皇帝だと讃えられるほどであった。

外枠がしっかりとしていれば崩れることもないので、これが皇帝のお遊び程度でないことを祈る。

 ハニーはしばらく男が向かった方を見て呆けていたが、ひとつ溜息を吐きまた歩き出した。今日はシアンハニーをたくさん含んだ菓子を作るのだ。特にゴールはないけれど、立ち止まってはいられない。

「そうだなぁ……。うん、今日はハニークッキーにしよ!」

 メニューを決めたので、ハニーは足取り軽く森の奥へと入っていった。誰にも見つからないような土地に、おあつらえ向きのあばら屋がある。ぽつんと佇むそれは草木に覆われ、初め小屋だとは気付かなかったほどだ。どこか煤の匂いがして草の山を掻き分けてみると、拓けた空間が存在していた。

 昔、誰かが製菓をするのに使っていたらしい。古い型ではあるものの、きちんとオーブンもあれば道具も揃っている。ネーブルオレンジ色のタイルは蜘蛛の巣が張り、刃物は錆びつつあったが、ハニーはこれ幸いとこのあばら屋に足しげく通うようになったのだった。ハニーのひっそりとした秘密基地は、掃除からが最初だった。

 いつも通りガサガサと枯草を跳ね除けると、ハニーは扉の閂を外す。足を踏み入れたのは誰にも教えていない、自分だけの空間だ。そこでハニーは、綺麗になった厨房に向き合い、てきぱきと材料を準備していった。


  小麦粉…………一五〇グラム

  バター…………四〇グラム

  卵………………M~L一個

  シアンハニー…大さじ三


 まずは竈に薪をくべ、温めておく。温度計が付いていないので、手を入れて温度を都度確認するように。小麦粉を振るい、シアンハニーを加えよく混ぜる。さらに溶かしバターを加え、ひとまとまりになるまで生地を練る。

 生地を五ミリ程度に引き延ばし、好きな型で抜く。クッキングシートを敷いた天板に並べ、十分に温まったオーブンの中に入れ約十分焼く。熱くなり過ぎるようであれば、薪を掻き出しておく。


 クッキーは良い。簡単だしすぐ焼ける。この竈に関してはずっと火を見ていないといけないが、普段のキッチンで行う分には差し支えない手順だ。しばらくすると、火が通った菓子の香りが満たされてきた。


「ハァ、ハ……。腹が……限界だ」

 浮浪者は空腹で、今にも倒れそうであった。どこぞで拾った木の枝を杖代わりにして、何とかして膝を付かないようにしている。いつの間にやら知らない土地に迷い込んでいた。いったい自分はどうやってここへ来たのだろう。

 見渡す限り一面の森。何か資源があるかと思い歩き回ったが、木の実はほとんどなく、水すらも見当たらなかった。

 その時だ。

「ん……この、匂いは……?」

 男は興奮し、残った僅かな体力で匂いのした方へ駆け寄る。これで現物がなかったら遂には絶望しかない。一縷の希望を掛けて、男は命からがら辿り着いた。

 小麦粉と砂糖の焼ける香ばしい香り。クッキーだろうか。嫌と言うほど嗅いだ匂いだが、いまはありがたかった。草に覆われるようにして扉だけ見える。チャイムなどはなかったので、男は息を荒げながら慎重にノックをした。中から、若い女性の驚いた声が響く。

「ひゃうっ!?」

「ハァ……。お……驚かせてすまない……! その……空腹で……。いや、何もしない! 何か食べ物を、恵んでくれないでしょうか!?」

 息絶え絶えの男が突然やってきたら、どのような女性だって怖がるだろう。念のため何もしないと意思表示をしたが、信じてくれるかどうか……。とは言え、何かをする体力すらもなかったが。この場に同性がいないことをとても悔やむ。

「ハ……、駄目か……」

 せめて砂糖でも、いや小麦粉だけでもいいので舐めさせてくれないだろうか。その望みすら叶えられないだろうか。

「ゔ……」

 眼の前が揺れて脳が痛い。歯を喰いしばっているが、足がふらついてきた。扉が開いて、中から高校生くらいの少女が出てくる幻想すら見えてくる。キャラメルの髪に木苺の眼とは、自分の幻想にしては不似合であった。俺はそんなにお気楽野郎じゃない。

「あの……、どうしたんですか……?」

「……あぁ、幻、じゃ……ないのか……?」

 眼が霞んでいるので、本物かどうか確かめるのには、きめ細やかな肌に触れるしかなかった。柔らかい感触はあったようだが、指先の感覚も怪しいものだ。最近の女子高生のお洒落は全くもって分からない。

 突然ボロボロの男性に触られた少女――ハニーは、全身の毛を逆立てて叫ぶ。

「きっ、きゃああああああ!! 変態!!」

 しかし森の奥のため誰も来ず、ただ鳥たちが羽ばたくだけであった。つんざく悲鳴は男の耳にも届き、次いで頬を引っ叩かれる。ああ、痛い。紛れもなく現実だった。

 叩かれた衝撃で、顔をやった方へ倒れ込む。

「えっ、ちょっと!?」

 空腹で気絶するなんて、初めての経験だ。耳の遠くで、可愛らしい声が籠る。すでに指の一本も動かなかった。

 どれくらいそうしていただろう。気が付けば薄暗い部屋の、土の上で寝かされていた。鼻の前には、神の施しかのような菓子が置いてある。男は跳ね起き、すっかり冷めた天板の上のクッキーを勢いよく平らげた。

「ちょっと! 大丈夫なの……!?」

 指に付いた欠片まで舐めとっていると、女の声が掛かる。部屋の隅に隠れてこちらを見守っていたようだ。全く気付かなかった。手には両手で持ってぴったりくるくらいの木片が握られている。あからさまな敵意だ。肩を強張らせているところを見ると不慣れなようだが、なるべく刺激しないように武器を下ろさせることにする。

「……ああ、世話になったようだな。突然押しかけて悪かった」

「べ、別に助けたくて助けたわけじゃ……! あたしが叩いたから倒れたんだ、なんて思いたくないし!」

 そう言えばそうだった。少女のか弱い平手打ちかと思ったら、案外痛かった。そうなるとその木片も痛そうだ。それを茶化して場を和ませても良かったが、命を助けてくれた恩義もある。差し障りなく、大人の振舞いをした。

「そんなこと思わないよ。クッキーをありがとう。お礼と言っては何だが、美味しいクッキーの焼き方でも教えてあげようか?」

「はぁ? 何よ、それ! ケンカ売ってんの!?」

 空腹が最高のスパイスとも言うが、彼女が作ったとみられる基本のクッキーはあまり味がしなかった。しかしそれは少女の腕をけなしてしまったようだ。パティシエにはプライドの高い者が多く、彼女もそのひとりと言うことであろう。

 しかしながら、自覚のない下手が一番厄介だ。自分が教えている生徒にもたくさん存在している。そしていつも自分は頭を悩ませるのだ。あまり下手に突っかかると生徒からはパワハラだのセクハラだのと言われるし、何か問題が起これば校長からも良い眼をされない。

「あー……いや、君がいいなら、良いんだ。邪魔したね」

 彼はいつもの通り、のらりくらりと曖昧な表現をし、この場を後にしようとした。教えようとしたのは講師としてではなく、職人の性と言える。旨くない菓子を作る者には、眼も充てられないのだ。

 そういうときは、面倒に巻き込まれる前に眼を瞑るしかない。また森をさまようことになるやもしれんが、些細なことで訴えられるのは勘弁だ。男は腰を上げ、少女の横に位置する玄関に向かう。しかし少女は青年の袖を強く引っ張り、足を止めた。

「待ちなさいよ! さっきのどういう意味!?」

 しまった。これは、プライドは高いが自分の納得がいかないと不満になって追及してくるタイプだ。一番面倒くさい。

 教師は苦虫を噛み潰したような顔を一瞬するが、すぐに無表情になる。日頃の忙しさから心を殺すことは心得ているのだ。

「いや、何でもないよ。俺が空腹過ぎて、可笑しなことを口走ったらしい」

 必死に作り笑いをしているが、気怠い空気は隠しきれない。ハニーは自慢の鼻でそれを嗅ぎ取り、ムッと眉をひそめていた。そのあしらいは、さらに固く拳を握らせるだけだったようだ。

 ああ、俺の一張羅なのに、とふと思う。だが、それも森をひたすら歩きまわったせいであちこち破れ、土で汚れていた。これからの皺など、取るに足らないだろう。

「お気に入りだったんだけどなぁ……」

 ぽつりと呟き、肩を落とす。自分には珍しく贔屓にしていたワイシャツがあった。ニセアカシアの花の色のような白地に、同じく枝のような細さでヨモギ色のストライプが入っている。まるで草餅に似た配色だった。

「わたしのクッキーが不味いって言うの!? 答えなさい!!」

 ハニーは怒りで相手を捲し立てる。そのようなことを言われるのは、初めてだった。幼い頃から天才として扱われていた自分の菓子に対して、よもや、あの楽しくない教育が必要だと言うのか。

「いや、きっと何か混ぜ間違えたんだと思うよ。俺の思い違いさ」

 何とも無難な言い訳をした瞬間だった。口髭についていたらしいクッキーのカスを、少女はおもむろにひったくる。男はどきりとしたが、その眼は自分を見ていないことに気付いて、少し落胆した。

 その一欠けらで味は分かるのか、とも思ったが、プロのパティシエなら十分かもしれなかった。彼女はプロたり得るか。

「やっぱり、味しない……」

 どうやら自分で気付いていたようだ。ひとりで作っていると何がどう間違っているか分からなくなるものだし、彼女もその落とし穴に嵌まってしまったのだろう。

 ハニーはしばらく考え込んでいた。時間にしては数秒程度であっただろうが、思考を張り巡らせる。やはり味がしないのは、自分だけが感じていたことではなさそうである。何を作っても味気なく、製菓は楽しいが食べるのは苦だった。スランプと言うやつだろうか。

「見た目は完璧だったし、焼き加減も素晴らしかった。きっと材料の問題だ」

「そんなことないわ! 何度も確認したもの! でも焼き上がったら味がしなくなるのよ! 何で……? 何でなの……!?」

 その悔しそうな表情は、確かに菓子職人のものであった。皆一度は悩む、壁にぶち当たる。自らで乗り越えなければならないとしても、手を差し伸べる行為をせずにはいられなかった。

「少し時間を置くといい。俺にも作らせてくれないか?」

 きっとどこか見落としがあるのだ。彼女の手順は見ていないため何も言えないが、自分が作れば少女自身が気付く部分もあるだろう。ハニーは若干迷ったが、青年のネクタイに“一つ星”が付いていたため厨房を任せることにした。

「……分かったわ。好きに使いなさい」

 学校ができたのはつい最近で、学業に励む者は無星である。卒業生もしくはそれと同等の実績を持つ者は一つ星。彼は一つしかなかったので、貴族専属にはなっていないと言うことだ。

 好きでなっていない者もいれば、望んでもなれない者もいる。青年はそのどちらであるのか。それともまだお声が掛かっていないだけなのか。

 好きこのんで物資の少ないこの北の森をさまよっているような人物なら、それもあり得る気がした。

 ハニーは青年の後ろに当たる壁に背を預け、じっと製菓の様を見ていた。このあばら屋にはキッチンしかない。それに気付いたのは恥ずかしながら、いまだ。よほど菓子作りが好きな者が建てたと思われるが、その他の目的では使えないため意外と不便である。元々、別の目的などで来訪してはいないのだが。

「仕上がったぞ」

 男はやはり手際が良かった。ハニーと同じ材料、分量で作りたいと相談してきたので教えたが、その一瞬で手順を理解したようだ。

 ただ、シアンハニーだけは気付かなかったようであった。この国であれば誰もが知る蜜を、何故か訝しんでいる。他国から来たのだろうか。そう言えばパティシエ仲間に見ない容姿である。

 髪は竹炭をまぶしたようで、あまり美味しそうではない。海藻のようなうねった毛先に無精髭とは、ストレートに言えば不潔に感じた。そのような男にパティシエを名乗られては困るのだが、それなりにはできるようだ。ハニーはあまり気に食わないが、それでも何か吸収できるものがあれば使うまでであった。

 竈から出したばかりでまだ熱く食べられないので、天板に乗せたままタイルの上で空気にさらす。その間に教師はハニーに問いかけてきた。

「俺と何か違ったところはあったか?」

 ずっと真剣な眼差しで見られていたことに、気付いていないわけではなかった。先生と言う立場上、目線を向けられることに慣れている。

 訊かれたが、ハニーには異なる手順は見つけられなかった。静かに首を横に振る。

「そうか……。また復習すると良い。冷めたら食べよう」

 急にしおらしくなった少女は、思ったより幼く見えた。まるで幼児をなだめるように話しかけ、アドバイスを送る。冷めるまでもう少し時間があるので、男は少女の隣に、しかし数十センチ開けて腰掛けた。

「君は、パティシエールになるのかい?」

 それは専属に、と言う意味だろうか。そう勝手に汲み取ったので、ハニーは答えた。

「そうね……、たぶん。でも分からないわ。わたしはただ、楽しくお菓子作りができればそれでいいのよ……」

「……そうだな。俺も、教師になるつもりはなかった」

「先生、だったのね……」

 ハニーは少し眼を見開く。薄汚い恰好をしているのに、彼は指導者だったのか。それでハニーは合点が行く。教えると言ったのは、教師だから出る言葉であったのだ。

「ああ、そうだ。君は俺の担当じゃないから、会ってないのかもな」

 はて、担当が違うと言ったが、ハニーの学校には三人しか教師がいないはずだ。第一期生を教えるヌガーは見知った仲で確かに担当は違うが、第二期第三期を教える講師も顔を知らないわけではなかった。確か第二期は中年の女性で、第三期は老爺だったはずだ。いま現在はそれ以上いないのだが、新しく講師を雇ったのだろうか。

「俺は花ノ木 明志(あかし)だ。君は?」

「ハナノギ・アカシ……? わたしはハニー。ハニー・キャンディよ」

「えっ、外人……?」

 聞きなれない発音にハニーは困るが、取りあえず同じ響きを繰り返した。相手が名乗ったためこちらも自己紹介をしたが、何故か驚かれてしまったようだ。

「? 何のこと?」

「……あ、いや。君はハーフかな?」

 確かに国際化が進んでいるので、日本に外国人やハーフが学びに来るのも珍しくない。改めて思えば、髪も眼も、日本人とは思えない色だった。てっきりお洒落なのだと思っていたが、自然由来のものであったのか。

「良く分からないけど……。他国の人なのはハナノギの方じゃないの? ベェクには珍しい名だもの」

「何……?」

 今度は明志が困惑する番だった。ハニーが言うところによると、自分の方が珍しいとのことだ。ここは日本ではないのか? それとも大人をからかっているのか?

「ハニー・キャンディ……さん? ここは、どこだい……?」

「何よ、改まって。ハニーで良いわよ?」

 生徒を呼ぶときに則ってハニーを呼んでみたが、それは一蹴された。ハニーは言葉を続ける。

「ここは北の森よ。不毛の地だから誰も寄り付かないわ」

 それで何も食べられるものがなかったのか。いや、そういうことを訊いているわけではない。

「“ベェク”……とは?」

「この帝国のことじゃない! いったいどこから来たの?」

 呆れたと言わんばかりに口を大きく開け、叫ばれる。帝国、と言うことは皇帝が統べている土地だろうか。帝国と呼べるものは多くないので記憶を探したが、“ベェク”と言う名の国は見当たらなかった。独立もしていない国家であろうか。それにしては製菓の文化も行き届いているし、部落と言った雰囲気は感じられなかった。ここへ迷い込んでからハニーしか出会っていないので、不確かではあるが。

 しかしもういい歳をした少女が、すぐバレるような嘘を吐くとも信じ難かった。だが自分はいったいどうやってここへ来たのか。数日間放浪していたためか、記憶が曖昧になりつつあった。

「ハニー、日本と言う国を、知らないか?」

 試しに訊いてみるが、ハニーにはピンと来ていなかった。知らないのだ。

「聞いたことないわ……。そこから来たの? “ニホン”も帝国語を話すの?」

 さらには言葉すらも同じと捉えらていたらしい。それはそうか。こちらも話が通じるため、同じ言語を話していると思っていたのだ。

「いや……、日本は日本語を話しているよ……」

 特に意味を持たない訂正だったが、明志はそれしか答えられなかった。日本人特有の適応力で、必死に環境を飲み込もうとしている。考える癖で頭を掻くが、指に脂が付いて不快な思いをした。

「ふっ、ハナノギって面白いわね! そろそろ冷めたかしら」

 少女は軽く立ち上がり、天板を見に行く。クッキーの上に手をやって冷めていることを確認した。鉄の方の熱もすでにほんのりと感じられるくらいになっており、逆に冷やし過ぎたようであった。

 ハニーは明志に持ってくる前にひとつつまみ食いをして、唸りを上げる。

「うぅ~~~ん……」

「どうした、何か不味かったか?」

 その唸りが気になって、明志も腰を上げた。先程まで立ち仕事でやっと座れたと思ったのだが、すぐまた厨房に戻ることになる。生徒とは数年離れているので、若い子と比べると体力が違っていた。それでもまだ二十代前半であるし、少しくらいは付いて行かないと舐められてしまう。

「いいえ、美味しいわ。味も感じるもの……。わたしのと何が違うのかしら……?」

「どれ、俺もひとつ……」

 ハニーの横から手を伸ばし、丸形のクッキーを口へ運ぶ。基本のため、基本通りの味だった。取りあえずは、不味くなければ合格点だ。ハニーが気に入ってくれるのなら、それはそれでなお良しなのだが。

 別にそれは好意ではない。パティシエ、いや料理人に関しては自己顕示欲が強く、自分の作ったそれを他人に食べてもらうことによって喜びを感じるのだ。相手の顔が見えるのであれば、なおさら想って調理に励めるし、見えていなくてもそれは同じ心持ちでいかなければならない。自分だけの満足では、幸せにはなれないのだ。

「あまり深く考えるな。やがて降りてくるときもある」

 明志はパティシエには珍しく理論派だが、個々に説明するときには感覚で話すこともある。それは、その方が伝わりやすいときもあるためだ。教師として学んで、身に付いたものである。

 恐らくハニーには感覚で伝えた方がいいのだろう。仏頂面の彼女は、黙って何かを考え込んでいるようだ。やがて彼女が口を開いたが、それは思ってもみない指摘であった。

「って言うか、ハナノギちょっと臭い……」

「何っ!?」

 森の生活には、風呂もなかった。飲み水すらも確保できなかった土地に、シャワーがあるわけなかったのだ。それは不可抗力だが、女性からしたら気になるのだろう。しかし、

「そうは言っても、風呂が用意できるわけでもないし……。川でもないのか?」

「帝都に宿は取ってないの?」

「いや、俺は森の中をさまよってたんだ。そんなこと初めて聞いたよ」

「不法入国、じゃないわよね……?」

 訝るように見る目には、どう答えれば信じてくれるだろうか。いやしかし、不法入国と言えばそうなのかもしれなかった。気付いたら見知らぬ国に来ていたなどと、誰が聞いてくれよう。明志にとっては、ハニーが語る内容の方が頭に入ってきにくいものではあったが。

 だけれどもまずは食料と寝床だ。ここは彼女の部屋……、というわけではなさそうだが、彼女が使っている分、男の自分が寝泊まりするのは避けた方がいいだろうか。

「臭いで人は死なないよ。すまないが、いまだけ我慢してくれないか? もうすぐ俺は出て行くよ」

「何言ってるのよ!? このわたしにクッキーの作り方、教えてくれるんでしょ!? わたしが満足するまで、ちゃんと教えなさいよ!」

 これは参った。いつの間にやら面倒に首を突っ込んでしまったようだ。明志は頭を抱え、ひとつ大きな溜息を吐いた。

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