Whip ‐ホイップ‐ 十分立て

 詩杏はキッチンに向かって顔を顰めている。何でも良いが一番困るのだが、一体何を作ればいいのだろう。取りあえずは材料を確認しないことには始まらない。

 マスカット色の艶々したタイルの上には、卵・小麦粉・砂糖・シロップ・牛乳・バター・おそらく季節のフルーツ・その他スパイスが並べられている。横の棚には鍋や型が綺麗に整頓されていた。流石はパティシエの長。品揃えが抜きん出て違う。

 設備は、と言うと、これは何とも古風であった。辛うじてタイマーと温度計が付いているオーブンは、文字が読めないので探り探り使っていくしかない。詩杏もほとんど触ったことがなかったが、それがパティシエール魂に火を点けた。

 何でも良いとのことだったので、どうせならここでしか作れないものを作ってみたくなったのである。さっそく準備に取り掛かろうと、腕まくりをしてオーブンのつまみを弄った。


  卵……………L三個

  砂糖…………九〇グラム

  小麦粉………九〇グラム

  牛乳…………一五グラム

  バター………一〇グラム

  生クリーム…二〇〇ミリリットル

  フルーツ……適量


 オーブンは一八〇℃に予熱、バターと牛乳を湯煎し溶かしておく。火を入れ過ぎないように注意。コンロに掛けると難しいが、湯の温度の目安は約四〇℃。溶けたら湯から外しておくと良い。

 ボウルに卵を割り入れ、砂糖と合わせ泡だて器でよく混ぜる。今回は全卵を使うので卵白と卵黄を分けなくても良い。ある程度混ざったら今度はこちらを湯煎し、砂糖が溶けるまでさらに混ぜる。これも約四〇℃で温め、卵液に熱が通ったら火から外す。

 ここからが腕の見せどころだ。ハンドミキサーが見当たらないので、ひたすら白くもったりするまで高速で混ぜていく。余談だが、パティシエは意外と筋肉が付くのだ。

 嫌になるほど混ぜ、生地に泡だて器のリボン跡が付くようになったら、少し力を落とし泡のキメを整えるように混ぜる。小麦粉を振るいに掛け、二、三回に分けて加えていく。決してぐるぐると混ぜず、底の方からすくい上げるようにしてさっくりと合わせる。次に、溶かしておいたバターと牛乳を加え、さっと混ぜ合わせる。

 ケーキ型の底面と側面にクッキングシートを敷き、生地を流し込みオーブンに入れて二〇分から二五分ほど焼く。


「よし、その間にホイップクリームを――」

「お嬢さん」

「ひゃあ!!」

 製菓に夢中になりすぎて、長老が近寄ってきていたことに気付かなかった。詩杏は驚いてボウルを落としそうになるが、道具を傷つけてはいけないと、すんでのところでキャッチした。

「おや、驚かせたようで申し訳ないの」

 口ではそう言うものの、全く申し訳なさそうに笑っている。次いで老人はもうひとつ頼みごとをした。

「申し訳ついでに、今度はお嬢さんの作りたいものではなく、儂の好きそうな菓子を作ってくれんかの? 何、そのケーキはそのまま作り続けて問題はない」

「おじいさんの好きそうな、もの……? どれを使えばいいですか?」

「何でも好きに。お嬢さん自身で考えた、儂の口に合うスイーツが食べたいの。ひとつ作るもふたつ作るも同じじゃろう。それでは頼んだよ」

「えっ!」

 ニッカと笑い老人は踵を返してシグレの元に帰っていった。確かにひとつ作るもふたつ作るも同じだが、あの細い翁はそれほど大食いなのだろうか。しかしそれを考えると、ひとりで食べるわけではないものの年寄りにホールケーキは重く感じられた。これを食べる上でもうひとつ、と言われると作られるものがかなり限られてくる。

 そう言えば先程笑った老人の歯は、何本か抜け落ちていたように見られた。追加で作るなら、さっぱりとしていて、かつ柔らかいものだ。そうなるとゼリーやプリン……。いや卵はもうケーキで使っているし、ゼラチンや寒天らしきものも見当たらない。やはり果物を使うのが一番良いのだろうか。しかしそのままと言うのも芸がないので、ここはコンポートでも作ることにした。幸いスポンジを冷まさなければいけないし、時間はたっぷりある。詩杏は鍋を引っ張り出し、五徳の上に置く。ここが他人のキッチンであることを、すっかり忘れて没頭しているようであった。


  枇杷………五個

  水…………三〇〇ミリリットル

  砂糖………三〇グラム

  蜂蜜………大さじ二分の一

  レモン汁…大さじ二分の一


 枇杷は変色しやすいので、皮を剥く前に枇杷以外の材料を鍋に加えておく。枇杷に切り込みを入れ、くるりと回し半分に割る。種と皮を素早く取り除き、鍋の中の材料に浸けておく。

 全て剥けたら鍋を火にかけ、沸騰させる。沸いたら弱火にし、灰汁が浮いてくるので綺麗にすくい取る。程度を見ながら五分から一〇分ほど煮詰めたら火を止め、粗熱を取って冷蔵庫へ入れれば保存も利く代物である。今回はケーキもあるし口へ運ぶのが年配の方とあって、甘さを若干控えめにしたつもりだ。果物の並びから見て枇杷は旬であると推測されるし、柔らかくさっぱりと食べられる。砂糖漬けなので長持ちはするだろうが、そこまで大量でも困るだろう。数も少なめにして、食べ切りサイズを目指した。

 誰に向けて作るのか、で、選ぶメニューも食材も変わることを、改めて自覚した。

 しかし感慨に浸っているわけにも行かず、そうこうしている内にケーキのスポンジがそろそろ焼き上がりそうである。詩杏は急いで生クリームをホイップし、角が立つほどの個体へと変化させた。

 泡立ての間に焼き上がりの時間が来たので、オーブンを開け竹串を通す。生地がべたべたしていないことを確認し、厚手のミトンを着けてケーキ型を取り出す。慎重に取り出したものの、その後はキッチンのタイルの上に思い切りたたきつけた。初めて見る人は驚くかもしれないが、こうすることでスポンジ中の空気が抜け、焼き縮みを防げるのだ。スポンジをクッキングシートごと取り出し、逆さまでケーキクーラーの上に置き、熱を取っていく。

 フルーツは網目のないメロン、キウイ、さくらんぼを使うことにする。折角なのでさくらんぼに合わせ、球体に削ったメロンとキウイを乗せることにした。

 しばらくしてケーキが冷めたので、二つに切り、クリームを塗った上にフルーツを乗せていく。重ね合わせ、更に周りにクリームを塗りたくり、これでもかと言うほど再度フルーツをトッピングした。デコレーション用のホイップクリームの口金は、フラワーの一三三番。くるくると円を描き、慣れた手つきであっという間にホールケーキを仕上げてしまった。

「できた!!」

 詩杏の嬌声に、老人と子が反応する。いままでの工程から見て一時間ほどは経ってしまっているだろう。詩杏が製菓作業をしている間も何やらブツブツと話していたようだが、彼女の耳には届いていなかった。

「助かりました、かたじけないねぇ。ではさっそくいただくとしようかね」

「どうぞ、お召し上がりください!」

 パティシエールの性か、自身の菓子を振舞うことにふんぞり返っている。日頃からその腕を磨いているのだ。しかし詩杏には、学校の外で誰かに食べてもらうことは初めてに近かった。ましてや、何だか分からないがきっとお偉い長老様に食べてもらえるなんて、何とも光栄なことに思えたのだ。

 ミスペルは引き出しに並べたナイフの中からケーキ包丁を取り出し、ホールケーキを手際良く切り分けていく。昔取った杵柄と言うやつなのか、それでもきらりと光る刃物は決してなまくらではなかった。

「どれどれ……、ふむ。まぁ、こんなもんじゃな」

 丁寧にフォークで一口分のケーキを切り、咀嚼する。ミスペルは頷いた後に、そう呟いた。次にコンポートにフォークを刺し、口に運ぶ。瑞々しいシロップの啜り音が、口元から零れた。

「ほう、こちらは良くできたね。お嬢さん、食べ比べてみなさい。シグレ様もお召し上がりくださいな」

「…………」

 示された二人は無言で顔を見合わせ、そして同時にミスペルからフォークを受け取る。恐る恐る、まずは老人の真似をしてケーキから口を付けた。

「そんな……!」

 一番ショックを受けたのは詩杏だ。あんなに一生懸命作ったのに、ほとんど味がしない。シグレの方は、やれやれと言わんばかりだった。

 砂糖も入れているし、生地だって生焼けでなかったはずだ。なのにどうしてこれまで風味がしない。ホイップクリームだって甘さを出したのに。何より可笑しかったのは、果物すらも甘みを感じられなかったことだ。

 これは昨夜食べたパウンドケーキと同じだ。焼き菓子がいけなかったのだろうか。土地柄であるのだろうか。

 詩杏はクランベリーの眼を愕然と見開きながら、不味かった理由を探る。

「どうして……? あの、もう一度……!」

「その必要はありませぬよ。コンポートの方を食べてみなさい」

 再びのチャンスはなく、突き放されたのだろうか。コンポートもさぞかしひどい味に違いない。良くできたと言ってくれたが、それはきっとお世辞だったのだろう。

「長老殿、もうこれ以上は――」

「シグレ様! 食材に罪はありませぬ! 常に感謝をしてお召し上がりくださいと申しているのが、まだ聞き入れられませぬか!?」

「っ!」

 急に声を荒げたミスペルに、シグレは息を呑む。パティシエはどのようなものであっても常に食材に対する感謝を忘れない。しかし結果が見えている以上、消化するのは無駄に思えた。シグレが行動に移すのをためらっていると、老人の意思を汲み取ったのは詩杏であった。

「そう、ですよね……。食べ物に罪はない。わたしが作ったんだもの。責任取らなきゃ!」

 勢いよく枇杷にフォークを突き刺し、一口に頬張る。すると今度は、ちゃんとさっぱりとした甘みが感じられた。

「……あれ? こっちは、美味しい……?」

「何じゃと?」

 枇杷のみ熟していたのだろうか。しかし触った感じや香りは、どの果物も適時だったと思われる。ならばどうして……?

「さ、シグレ様も」

「む……」

 薦められて鼻の前に持ってこられたコンポートは、艶々としていて何の変哲もないようであった。少し迷っていたが、意を決してシグレも一欠けらだけ口に含む。もう不味いのはまっぴらごめんなのだ。

「ん……? 旨い……」

 初めてシグレの口から称賛の言葉をいただいた気がする。枇杷は柔らかく、ほろほろと崩れていった。噛むたびに絡んだシロップが溢れ出しているが、軽い口当たりでいくらでも食べられそうであった。

「お嬢さんに足りないのは、実践ですな。常時、相手を想うこと。それが大事なことですぞ」

「相手を、想う?」

「そう、でなければ製菓に魂は宿りませぬ。国を背負うだけの覚悟が、おありかね?」

 その言葉で、詩杏は足元をすくわれる思いをした。背筋に氷を入れられたような感覚だ。どくんと胸が跳ね上がり、同時に締め付けられそうになる。

 国を背負うとは、シグレと肩を並べると言うことだ。

「専属になると言うことは、思ったよりも重いじゃろう? 貴族の願いを叶えるだけの技量が自分にはある。それに応えなければならない。貴族もまた然り。彼らは職人を第一に考え、どのようにしたら有意義に製菓に励んでもらえるか、考えなければならない。それがどんなに残酷で恐ろしいか、いずれ実感するじゃろう」

 二人は、ミスペルの言葉を黙って聞いている。

「しかしの、互いに契約者の笑顔と幸せを守りたいと思うのなら、お嬢さんに稽古をつけてやっても良い。ただし! 双方の意見が合致したときのみじゃぞ。分かったな?」

「……畏まった」

 ぽつりと答えたのはシグレだ。それは決して意気揚々としてではなく、深い思慮の中での、いま一番最善で出せる受け答えでしかなかった。


「シグレくん! ちょっとは手伝ってよ~!」

「何を申しておる! お主こそ、自分で責任取らんか!」

 二人は、ミスペルからひとつ課題を言い渡された。それは詩杏の作った生ケーキを平らげること。仲良く苦虫を噛み潰したような顔を見せ、同じように肩を落とした。ここへ来て、食材に罪はない、に首を絞められている。シグレは何とか回避しようと弁明してみたが、生きた年齢が違う分、軽くあしらわれてしまった。

 仕方がないので、二人でちびちびと消化していくことにしたのだった。

「お主がホールでケーキなど作るから、朕も巻き込まれる羽目になったではないか!」

「だってぇ~! 作りたかったんだからしょうがないじゃん!!」

 詩杏とシグレは、けんかしながらもケーキを食べていく。やがてけんかの内容も尽きてきた頃、詩杏はミスペルから言われたことを思い出し、シグレに話を振る。

「長老さんって、いつもあんな感じなの?」

「朕の知る限りでは、常時ああじゃ。祖父が皇帝であったときは、もっと厳格で頑固じゃったと聞いたが……」

「おじいさんも皇帝だったんだ。ってことは、長老さんがシグレくんのおじいさんの専属ってこと!?」

 へぇ、と関心も束の間、新しい情報をもらって詩杏は混乱する。

「そう言うことじゃ。元三つ星から稽古をつけてもらえるとなったら、光栄の極みじゃぞ!」

 詩杏は再び驚いて、簡単に折れてしまいそうなミスペルを思い出す。あの細い腕でいったい何を生み出していたのだろう。いま、老人は良く横になる生き物の例に漏れず、朝寝をすると言って奥に引っ込んでしまった。あの体躯での過去の想像が、全くつかない。

「そうだったんだ~。う~ん、だけど、ねぇ……」

 詩杏は頭を抱え、この国での自分の立ち位置を探る。ああ言われてしまっては、固まっていた意志も揺らぐというものだ。

「無理せずとも良い。お主は、お主の好きなようにしろ」

 シグレだってこう言ってくれるし、逃げることも視野に入れても良いだろうと言う気はしている。しかしやはり答えを出すのはまだ早いような思いもあり、足踏みしている状態であった。

「……ねぇ、シグレくんはさ、どんな王様になりたいの?」

「王ではなく、皇帝じゃ。……そうじゃな、父のような善い皇帝になりたいものじゃ」

「そっか……。お父さんってどんな人?」

 シグレは思い出すように、天を仰ぐ。

「民のため、尽力していた。父は祖父から帝位を受け継いだのじゃ。長老殿の腕が良かったため、長年祖父は皇帝の座を守ることができたのじゃ」

 見てきてはいないものの、ぽつりぽつりと思い出すように語り出した。

「帝位を世代で継ぐのは、なかなか珍しいことでの。いつもなら皇帝の座は、志ある者が取って代わるのじゃ。故に、父は初め期待されておらなんだ。じゃがの、父も黙って帝位を受け継いだわけではないのじゃ」

 それは過去に繋がる物語。シグレの父と、第七十二代クラム・ショコラが全盛期だった時代だ。詩杏が生まれるより、少し前の出来事であった。

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