夕暮れと、君たち2人と
兵藤晴佳
第1話 姉には秘密の妹との会話
まだ、セミがどこかで鳴いている。リビングルームの窓からは、西日を浴びて茜色に輝く入道雲が見えた。
部屋にも、冷房が効いている。けれども、斜めに射しこんでくる差し込む夕方の光は、すっかり落ち着いていた。
ワックスのよく利いたフローリングの照り返しを浴びて、目の前のカウチにもたれた少女が夏の制服姿で高く足を組んだ。
「ま、そう硬くならずに……
僕をわざわざフルネームで呼ぶのは、この
もっとも、今日は肩をすくめて訪問しなければならない事情がある。
確かに、小柄な割に妙に出るとこだけ出たこの娘の態度には少々イラつく。太腿の覗くスカートの奥からも、目をそらさないわけにはいかない。
でも、僕は努めていつも通りに軽口を叩いた。
「
いちいち名前を呼ばなければならない程度には、緊張していた。
それを察したのか、陽朝は目を細めて鼻で笑った。
「自分の立場、弁えてる?」
子どもの頃から、そうだ。
その場の主導権を握った途端、高飛車な態度で人の鼻面を掴んで引き回しにかかる。
少なくとも、僕たち3人の間では。
「
その、もう1人の名前を出して話をそらそうとする。
陽朝の双子の姉だ。
昔は3人で、近くの公園で暗くなるまで遊んだものだった。小さな会社を経営している両親もまた、家の灯を点ける頃には帰っていて、双子の娘を玄関口で出迎える。僕はそこで頭を下げて挨拶すると、自宅へと駆けていく。
それが子供の頃の生活だった。今でも、僕たちは同じ高校に通う2年生同士だ。
但し、この年齢になると、いつでも3人一緒にというわけにはいかなくなる。
たとえば……。
「部活」
陽朝が答えたように、高校に入ってから、月夜はバスケットボールに夢中になっていた。
本当は長い髪を丁寧に結って、放課後は体育館のアリーナを走りまわっている。 身体が少年のようにスレンダーなので、動きの激しい球技には向いているのだろう。
それなら髪も、他の女子部員と同様、少年のように短くすればいい。だが、妹と張り合ってのことか、髪だけは絶対に切ろうとしないのだった。
その姿を思い浮かべながら、僕は安堵の息をついた。
「よかった……」
昨日などは、どうなることかと思った。
小学校から皆勤賞の優等生なのに、昨日は学校に来なかった。陽朝に事情を聞いてみたら、朝から具合が悪いという。心配になって様子を見に行ったら、妹とは別々に与えられている部屋のドアを閉ざしたまま、帰れと言われたのだった。
「よくない」
確かに月夜は物静かで大人しいが、いったん言い出したら聞かないところがある。小学校や中学校では、平気で男子の集団と口論していた。
それ以前も、公園で僕を突き飛ばした、どこかの男の子を睨みつけているのを見たおぼろげな記憶がある。
だが、どうも陽朝はそういう意味で言ったのではないらしい。僕も聞き返さずにはいられなかった。
「何で? 元気出たんだろ? 部活できるくらい」
陽朝はこめかみのあたりを押さえてうつむくと、深い溜息をついた。
「昨日、言ったばっかでしょ? お姉ちゃん、好きな相手がいるって」
敢えて考えないようにしていたことが、簡潔に、きっぱりと告げられた。
白状すると、僕は昨日のその時点で、初めての失恋を自覚していた。
言い換えると、それは初恋に敗れたということだ。
「……で、誰?」
できれば永遠に先送りしたかった用件を、僕は仕方なく口にした。
学校で聞いたところによれば、陽朝はその相手を聞き出したらしい。
その名前を伝えるために指定されたのは、他のどこでもない、この家だった。
「
陽朝が口にした名前を聞いて、僕はとても敵わないのを悟った。
相手は、男子バスケットボール部を引退したばかりの前部長だ。
チームはインターハイこそ逃したが、選手個人としては、数多の大学から声がかかる名プレイヤーらしい。
しかも、校内の球技大会なんかでは、いつも女子生徒から黄色い歓声を浴びている。
学校の廊下ですれ違わないこともないが、僕などは全く相手にもされない。
いや……なぜか避けられている感さえある。
すぐさま帰ろうとする僕を、陽朝は立ち上がりもしないで呼び止めた。
「どこ行くの?」
「お邪魔しました」
バカ丁寧に答えてやったのも、長居する理由はなかったからだ。
「何で? まだ両想いになったわけじゃないのに」
「そういう事情なら、まあ」
当たって砕けるには、僕の心と身体は貧弱過ぎる。
「まだチャンスあるって、ここなら!」
当然のように共に過ごしたこの家で告白すれば、ということらしい。
「向こうの地位高すぎ」
「あのね、高い所は足場も狭いの」
背も地位も低い僕は返事をしなかった。その性分は、陽朝も承知の上だ。
「……星宵のそういうところがダメなんでしょうが!」
それは認める。
小さい頃、あの公園でどこかの男の子と月夜が睨み合っていたとき、確か僕は泣いていた覚えがある。
修羅場にあって何ができるわけでもないのは、昔も今もそんなに変わらない。
夜を日に継いで会社を切り盛りする両親を見てきたのが、この家の姉妹だ。
2人の目からすれば、僕は男として頼りないことこの上ないだろう。
「いや、それが分かればもういいんだ」
月夜からみれば、完全に眼中になかったわけだ。
だが、陽朝は僕を逃がそうとはしなかった。
「……告白の返事しに行ったんでも?」
思わず足が止まったが、だったら余計に手の打ちようがない。胸が押しつぶされそうな悔しさをこらえて、僕は精一杯にカッコつけてみせた。
「……そうだったの?」
そのまま玄関へ向かって歩きだした僕に、陽朝は追い討ちをかけてきた。
「知らなかった? もう噂になってるんだけど」
そのときにはもう、僕は靴を履きにかかっていた。
「……帰宅部なんで」
屈めた背中にはトドメの一言が突き刺さった。
「本当に取り柄のない男ね」
その通りだ。身長だって、高校に入って背が伸びた月夜に比べたら不釣り合いに低い。
そんなのがムキになったところで、結果は知れている。
「暗くなる前に帰らなくちゃね」
理由は、それで充分だった。
目的は果たした。
とりあえず、月夜が部活に行けるようになっただけよかったのだ。
もちろん陽朝はツッコんでくる。
「いつの話よ」
子どものころだ。日が暮れるまで遊び回っていたから、僕たちは親たちからそう言われていた。
そんな分かり切ったことを言い返して、口論になってもつまらない。
「いや、ほら、月夜には内緒で来てるんだし」
月夜は怒らせると、結構、面倒臭かったりする。この場を離れるのに、これ以上の理由はなかった。
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