第4話 心の在処
「その心は、どこにあると思うかね」
ここでこんな議論しても何の意味もないはずだ。それはとりもなおさず、この問答の最後に待ち構えているのが、呆れるほどの持論の展開か、それとも単なる暇つぶしの類と読める。つくづくこの男は、人をいたぶるのが好きな
陽の差し込む男の背後の窓から、風に揺れる公園の木々が見える。最上階がたかだか3階でも、
風が吹けば枝葉は揺れる。幹が脳なら、風は出来事、
「最初の質問は、心とはなんだ、ではなかったですか?」
「主旨は同じだ」
舌打ちしたいのをこらえて口を開いた。
「まず、心とはそもそも何なのかは解明されていません。心という言葉は概念として創造されたもので、それが実際に存在するかどうかということについては、定かではありません」
何が言いたいんだ、とばかりに男が眉を曲げた。
「心が、胸、心臓にあると考えたのは──アリストテレスでした。好きな人を想像すると胸がドキドキする。悲しみに胸は痛みます」
私の言葉に、男が鼻の横だけで笑った。
「脳にあると考えたのはヒポクラテスです」
「そうだよ、その通りだ」男は組んだ両手でデスクに身を乗り出した。
「近代科学は、心を“脳という物質の産物”と定義してきました。心とは、脳内にある神経の電気回路から生じる現象であると。これは脳が先で心は後、心は副次的な存在であり、脳を離れては存在しえないということを意味しています」
「わかってるじゃないか」
現代物理学は、物質の概念そのものを非物質化して、「唯物論」という思想はもはや成立し得ないことを証明した。
物質世界の究極は、粒子状態と波動状態というふたつの顔を持っていて、実体としての物質はどこにも存在しないことが明らかになっている。
つまり、光は粒子性と波動性を持ち、また、物質も粒子性と波動性を持っているということで、これは、動物や植物、鉱物、人間、地球、すべてに当てはまる。
すべての根本は物質だとする
「魂の存在を公言したのは、中世の哲学者ルネ・デカルトでした。脳科学者である大谷悟は、こころは、からだと環境にまたがって発生・存在しているもので。心は身体・環境システムの別称であると書いています」
「しかし君も並べ立てるねぇ。君の答えはいったどれだね」再び椅子にもたれる。
「脳という物質から独立した意識が存在する。それが心だと思っています」
「君は本当に科学者か? こころは脳の働きだよ。脳が死んだら体はもちろん、心もおしまいだ。心は脳が作り出すんだ。心は脳にあるんだ。常識じゃないか」
近くにいたら、つばが飛んできそうな勢いだった。頭が凝り固まっている。これはほぼ、脳死状態だ。
「お言葉を返すようですが──」男が不快そうに眉を曲げて、もういいよ、と呟いた。
「ギルバート・ライルという哲学者は、心の場所探しをするのは、大学を構成する建造物と大学という機能を同一視する誤り、カテゴリーミステイクであるといいました」
男が聞こえよがしに舌打ちをした。
「もう一度訊くが、君は本当に科学者なのか?」またもや馬鹿にしたような表情を浮かべる。
「化学は万能ではありません。森羅万象という名の巨像の足元、地面すれすれの爪の先にしがみついている程度の存在なのに、何事かをわかったような顔をしているのが人類です」
「卑下したもんだな。もちろん自分をだろうがね。君と議論しても噛み合わんな──呼んだのはほかでもない。一組」男は不機嫌な顔をにやりと笑わせた。
「候補が出てきた」
「本当にやる気なんですか」
「こんなところで嘘を言っても始まらんだろう。高瀬君、現場責任者たる君が担当したまえ。用はそれだけだ」男は、すべての質問も意見も拒むように、椅子を回して横顔を見せた。
「高瀬君」
「はい?」ドアノブに手を掛けたまま、声に振り向いた。
「君はお金が好きかね」
「お金、ですか?」
「あ、ダメだ。即座に好きだと言わない人間に金は回ってこん。だからここは苦しんでたんじゃないのか? それを救ったのが俺だということを忘れんようにな。人間の体もそうだが、すべてのものは磁力を持っている。その中で驚くほど大きな磁力を持つのが、金だよ」
「
「まさか、金より愛とかいうんじゃないだろうね」ククッと男がおかしそうに笑う背後でドアが閉まった。
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