健康診断 ~追試編~

「要胃カメラ検査 下記の日付までに検査してください」

 バリウムの味を忘れた頃、一通の封筒が送られてきた。

 先の人間ドックの結果、胃の慢性的な炎症が確認され、再検査に濃いとのお達しである。

 慢性的ならいつ調べたって変わりゃしねえよ、という検査の本意を鼻糞ひとかけらも理解していないで、憎々しくその通知を眺める。

しかし元来から強気の虫より弱気の虫の飼育数に定評のある皮田わたしにこれを無視しきることは難しく、紙に記載された番号に電話して予約を入れる。しかし腹立たしいことだ。受付の女は受話器越しに「胃カメラの検査ができるのは火曜、木曜、金曜になりますが、いつご都合がよろしいでしょうか」などと、こちらの顔色なんて気にも目にも留めることなく言ってのけてきやがる。

「バッきゃろい!平日ひらびで都合だ?こちとら都合どころか地に足もつかねえような生活してんだよ!」と大きく抗議の弁をしてやりたいものの、はなから小心に出来ている皮田は予定表をめくりめくり、日時の指定をして通話を切った後、思い思いの罵詈雑言を声しか知らぬ女に向かって、いや向いているのかは知る由もないのだが、吐き捨ててから尿検査にも引っかからないほどの薄い蛋白を放出して留飲を下げた。


 はてさて迎えた検査日。検査の場所は当然人間ドックを受信したのと同じ病院ではあるが、階が異なっている。そのためで全くと言って良いほど混雑が見られない。以前は待合室のソファで左右どちらか片方は1つ飛ばしに座ることができない程度は人がいた。

 受付で持病や薬、そして前日の夜は当然飯を食ってはいないだろうな、という念押し等が書かれた問診票を埋めて渡すと、検査室前に案内される。


 正直舐め切っていた。4~5年前に国営放送で胃カメラの小型化たらいうので錠剤型のカメラを飲んで、尻からポンと出すというのの開発が進んでいるという趣旨の放送を記憶していた。そのため漫画やコントで胃カメラの管を突っ込まれて吐きそうになるという描写なぞ、小学生の卒業アルバム程度に「そういやこんな頃もあったな」程度の遺産じみた、何なら化石と言える代物で、今はスッと飲んでケツからポンなんだろうとタカをくくっていた。

 そんな予想が幻想や妄想の類であるかのように、霧吹き型の容器から10には達しない回数で口内に麻酔を吹きかけられる。

 これが苦くてやたら唾が出てくる。しかしだ。管を挿入される際の違和感を緩和するための麻酔を喰らったもんだから、唾を飲み下そうにも自分のものではないようにつかみきれない喉の感覚によって上手く飲み込めない。

 逆にこんだけ痺れていりゃ、焼き鏝を突っ込まれたところでびくともしないだろう。口端から胃に送り損ねた唾を垂らしながら得意気に思ってもみる。

 そして肩に注射を刺される。なんでかは忘れた。まあしかし、薬なんて毒でもシャブでも効くから打つのだ。頼もしい。


 で、診察室に通されると眼鏡をかけた50がらみのうらなり瓢箪がごとき医者が、こちらの耳に届く前に地面に落ちて溶け消えそうな声量でもって前回の診断結果からなぜ胃カメラを要することになったのかという、この期に及んでこちらが四の五の言う余地なぞ与えられるわけでもないのに不要な説明を、ぼそぼそと経を読むがごとく説明をくれた。

「身内の方に大腸がんの方がいらっしゃるという話ですが、胃がんではないのですね?」

 そういえば麻酔の前に看護師から身内にがんがいるか聞かれた。なんだその言い方は。こっちも胃がんだけなら黙っていたが、看護師のほうから「胃や、大腸、小腸などの…」という聞き方をされたから答えたまで。これじゃ皮田おれが胃がんしか聞かれてないのに勇み足で身内の病歴をベラベラ余計にくっちゃべったみたいじゃないか。不愉快な連携を敷いてきやがる。


 そいではいざ本番。ベッドに横になると顔もとにガーゼを何重かにしたものを敷かれた。それで下側になった左手にも少ししっかりとした生地のガーゼを握りこまされる。

 ついで渡されたのが円筒型のプラスチック。これを咥えてると皮田は阿呆のように口が開きっぱなしになり、また筒の穴から向こうの思うようにカメラの管を出し入れできるという、まったくもって叡智の限りが詰め込まれた超高精度の医学機器であった。

 用意ができると経読み医者がスマホの充電器のコードを3回りほど太くした管を突っ込んでくる。

 とたん、喉に異物感。麻酔はどうした。普通に気持ちが悪い。

 しかしみるみる押し込まれて、体内を進んでくる不快感が逆に胃だの食道だのがここにあると皮田に存在を示してくる。この辺で限界が来た。

「ぉご!あぁ、こーっぁ、ごぅえええあああ!」

 思い切り嗚咽く。無駄な足掻きとはこういうことを言うのだろう。なんせ胃の中にあるのは意志持たぬ未消化の食い物なぞではない。口外から人力で押し込まれている最中の人工物である。

 こちらの内臓がどうこうやったところで腕力に対しては赤子の手を捻るどころか、腕ひしぎ十字固めを施すにも似た蹂躙である。

 経読みが経を唱える。何も聞こえない。再度、嗚咽く。管が動いて、いや蠢いているのだ。

 目についたのは60という数字と定規のようなメモリ。これは㎝なんだろうか。圧倒的な異物感の増大とともにメモリが50の方が見えてきた李、70の方がこちらに近づいてきたり。

 ガーゼが唾の水溜まりを作る。背中をなでる感触は看護師の手だ。そんなことより話しかけデモしてくれた方が、まだ気が紛れよう。焼け石に水どころか、太平洋にカルピスの原液を1滴垂らす程にしか気が逸れない。

「おお、おお、っぉ!ろぅえかあ!」

 ぬぬぬっと体内から聞こえる。自分が泣いている。背中が痛くない、ひたすら不快だ。体を伸ばせばいいのか、うずくまるようにすればいいのか。いや開放はないのだ。これでもかと言うくらい突っ込まれて、胃の中で管がとぐろを巻いている錯覚さえある。

 一体いつまで続くんだ。終わる気配が分からん。いっそ気絶させてほしい。

 無限にも思われる内臓の強姦。そこから幾何の時間が流れたのだろうか。ずっ、と引いた管が、戻されるでなく再度連続して引かれる。

「ああ」

 薄い吐息が漏れる。そのまま徐々に、徐々にフィリバスターよろしく管が我が臓物から粘液を見せびらかすように煌めきながら、空気に晒される面積を増やしていく。

 自分の涙の冷たさを感じる余裕が生まれた。もう少し…、もう少しっ。

「…っ」

 異物が完全に皮田と分離した。恥辱を感じさせらるほどの苦痛が終わった。

 加えさせられたプラスチックの逆さるぐつわを抜かれて、大量の粘りの強い唾液をそのまま口元のガーゼにボトリと落とす。

 流しで口を揺るいでから左手のガーゼで口を拭うよう促される。記憶から去っていたそのガーゼを、しかし我が手は藁以上に頼りにして縋りついていたようで、ちっとも握り落とすことはなかったようだ。


「慢性的な胃炎ですね」

 口内をサッパリさせたところで、経読みから門前の小僧も全身にタコが出来るほど聞き飽きた事実を告げられる。

 慢性的な胃炎で胃カメラを撮るよう言われて、あれだけの苦痛を強いられ、検査結果が慢性的な胃炎。こいつは本当に医学部を出ているのだろうか。

 目の前のバカの肛門から胃カメラをぶち込んで奥歯をガタガタいわせたろうか、なんて強気なことを考え付いたのは、しかし帰宅から半日経った後。

 それほどこの検査は精根ともにことごとく消耗させられた。

 つくづく健康に気を遣おうという気にもさせられもの。ある意味それが一番の意味なのかもしれなかった。

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