1章2話 地方の村で、お姉ちゃんと――



 ロイ・モルゲンロート。

〈世界樹に響く車輪幻想曲〉というゴスペルをその身に宿した少年は、転生後の世界でそう名付けられた。


 生後半年の頃合い。

 流石に〈世界樹に響く車輪幻想曲〉――つまり努力が苦にならないゴスペルを保持していたとしても、赤子の身体では剣術も、魔術も、体術ですら努力しようがない。


 前世の記憶、彼が死ぬまでの15年間分の経験……というよりは、より根本的な喋る、動く、食べる、寝る、トイレをするなど、子どもでも知っている程度の生きるための感覚があれば、赤子でも多少は早く成長を自分の意思で促せると考えていたが、見込みが甘かった。


「……――~~――~~――……~~」

「~~、~~~~……――…………」


 ロイの母親と父親が彼に向って話しかけるも、当然日本語ではない。

 幸いにも頭脳、学習能力は、精神年齢が15歳とはいえ、赤子のモノ、要するに人生で一番物事を吸収する時期のモノと同じだったから、異世界言語も徐々に覚えつつあったが、どうにもこうにも呂律ろれつが回らない。舌を器用に動かせない。


(確か、前世で人間の赤ちゃんが言葉を喋り始めるのって……、『あ~う~』とか、『お~お~』とか、喃語なんごって呼ばれる言葉を口にする段階が生後2~3ヶ月だった。で、これは生後半年の今のボクなら当然できる)


 しかし――、


(車のことをブーブーって言ったり、犬のことをワンワンって言ったり、そういうのは大体、生後1年ぐらいか……)


 前世で引きこもっていた期間の趣味が読書とネットサーフィンだったロイは、誕生から半年かけて自分の意識をハッキリさせた頭でそのことを思い出す。

 結果、普通の赤子はだいたい1歳半の時点で「ママどこ?」などの2語文や、早ければ3語文を口にするらしいから、自分はその時点で流暢に会話をしてみせよう、と、決めてみせた。


(前世でまったくいいことなんてなかったし、このぐらいはいいよね?)


 実はロイが困っていることは、赤子の時点で言葉を喋ろうにも呂律が回らなかった、という問題以外にも多数ある。


 その1、自分の意思とは関係なく泣いてしまう。


(最近は頻度が少なくなったけど、出産直後は大泣きしたなぁ)


 それもそのはずで、出産直後に赤子が大泣きするのは、呼吸、即ち自分の身体に酸素を取り入れるためだ。自分の意思でどうにかできる現象ではない。

 そして出産直後の大泣きから一度落ち着いても、また――、


(意外と本能というのはすごいモノなんだね。成長すると忘れてしまうけど、赤ちゃん、つまり野生に近い状態の人間って、おなかが減ると泣くし、オムツを汚しちゃっても泣くし、ちょっと痛くても泣くし、自分でもよくわからなくても泣くし……。本能はすごい)


 なんてしみじみとした感慨を覚えると、またもやロイは泣きたくなってきた。

 幸いにもこの世界の時間の確認の方法は、前世と同じで短針と長針を使った時計だったので、彼は時計を一瞥する。


(ああ~、道理でおなかが空いたと思ったら、もう3時かぁ)


 と、ロイが自分で自分が置かれている状況を把握すると、それがキッカケだったのか、本当に泣き出してしまった。

 だがそんな彼を、抱き上げてくれる女の子がいた。


「よしよ~し、いい子ですね~。お姉ちゃんが頭を撫でてあげますからね~」


 ロイの姉、マリア・モルゲンロート。

 姉といってもまだ7歳だ。


 幼い女の子特有のさらさらで甘い匂いがする黒いストレートの髪。抱き上げられたついでにツンツンしてみると、マリアのほっぺは信じられないぐらいプニプニしていた。桜色の唇に、白磁ような白い肌は、まさしく穢れを知らない純真無垢な幼女のイデアそのものという感じさえする。紅い瞳はルビーのようで、大人になればさぞかし綺麗な美人になるだろうが、それでも今の愛嬌のある顔立ちは可愛らしくていとけない。


「弟くんのために、わたしがりにゅーしょく? を食べさせてあげますからね?」


 言うと、マリアはロイを床の上にお座りさせて、一度キッチンに向かった。数秒後、今度は母親が用意したらしい蒸した野菜をなだらかに擦り潰した離乳食を持って戻ってくる。

 当然、まだ彼女は7歳なので身長はロイの目算で120cm前後しかない。ゆえに戻ってくると、全身を使って彼を抱きしめるように膝に乗せて位置を固定した。


「はいっ、弟くん? あ~んしてくださいね〜?」

(前世でいうところのキャミソールを着ているだけだし、できれば胸元を隠してほしいのに……。まさかドキドキしてしまっている、ってことはないけど、もし見えてしまったら罪悪感がヤバそうだし……)


 斜め上には幼女のあ〜んが、斜め下にはサイズが大きめで胸元が覗けてしまいそうなキャミソールが。

 転生者であるため意識がハッキリしている以上、どちらを選んでも黒歴史確定である。


(いや、恥ずかしいけど普通に離乳食を選ぼう……。没収されたら困るし……)


「お姉ちゃんのあ〜ん、美味しいですよね〜?」


(嗚呼、ボクは今、前世だと小学校低学年の女児に物を食べさせてもらっているのか……。しかも赤ちゃんの姿で……。自分1人で食事ができないとはいえ、なんか虚しい……)


 マリアは前述のとおり7歳で、身長は120cmぐらいだ。

 当然のことながら、まだどうやって子どもを作るのかも知らないし、ロイと父親以外の男性の裸さえ見たこともないだろう。


 そのように外見的にも中身的にも幼気いたいけな女の子を相手に、リアル赤ちゃんプレイをしている。

 不本意だろうが半ばそのような状態だと、名状しがたいイケナイ感じのようなモノを覚え、やたら内心がカオスだった。


(そういえば……、この世界でも長さの単位はメートル法を採用しているし、水を基準に1リットル=1キログラムらしいんだよね。偶然、なのかな?)


 と、その時だった。


「マリア、ちょっといい?」

「ママ!」


「ロイにお昼寝させてあげて? お姉ちゃんには見ててもらえると助かるな〜」

「わかった! 弟くん、お昼寝しましょうね〜?」


 ロイとマリアがいた部屋にやって来たのは、2人の母親、カミラである。洗濯物を山のように持っていた。

 当たり前だがこの世界に洗濯機という便利な物はなく、洗濯物はいつも手洗いしている。で、それも終わり今、家の中に入ってきたのだろう。


(お昼寝ならまだセーフ、かな? 実際に体力がなくてかなり眠いし。うん、起きたあとにアレが待っていなければ……)


 そして約2時間後――、

 ロイにとって第2の問題が発生した。


「汗かいたからお着替えさせてあげますからね〜?」

(これもう、リアル赤ちゃんプレイというより、羞恥プレイの間違いじゃないの……?)


 その2、自分では着替えができない。

 となると、必然的に自分以外の誰かに着替えを手伝ってもらったり、粗相をした場合、オムツを替えてもらう必要がある。


 着替えを手伝っている最中、それに気付いたマリア。

 彼女は実は常日頃からお姉ちゃんぶっている成果もあり、即行でオムツを発見して、持ってきて、古いオムツの対処をしようとしてみせる。


 なお、ロイは羞恥心で生後半年なのに死にそうだった。


「上手できましたね~。今、お姉ちゃんがオムツを替えてあげますね?」


 マリアに頭をなでなでされる。

 きっと彼女はロイを相手に、お人形でおままごとをしているような感覚なのだろうが、やたら彼に対して態度が甘く、なにをするにも手放しで褒めてくれた。


 弟ができて母親の真似事をしたがるのは、どこの家庭の姉でも同じことなのだろうか。

 と、ロイはそのように微妙にズレたことを考え現実から逃避する。


「かぶれるといけないから、きれいきれいしましょうね?」


 実際、赤子の状態でかぶれるとかなり、かなり、それはもう非常に不愉快だったため、キチンと馬油バーユを塗ってもらう。

 その後、マリアは弟のオムツを替えて、つい先ほど洗濯を終えた母親、カミラに古い方を新たな洗濯物として運んでいった。


(……この世界のオムツは紙オムツじゃない。で、紙オムツが普及し始めたのは、前世の年代で言うと1900年代の後半。このオムツの素材は布で、多少不衛生かもしれないけど、洗濯して繰り返し使うタイプの布オムツ。こっちのオムツが普及し始めたのは、少なくとも日本では戦前よりもさらに前。バカらしくて嘆きたくなってくるけど、オムツから推察するに、この世界、いや、少なくともこの村の文化水準は前世で言うところの18世紀以前レベルなのかな? ネットサーフィンで無駄に知識を蓄えておいてよかったとはいえ……、文字通りクソが付くほどくだらないキッカケで文化水準を知ることになるなんて!)


 心の中で嘆くロイ。

 が、ふと考え直す。


 科学にしろ社会にしろ、仮に国単位で水準が18世紀前後レベルならば、前世で言うところの産業革命より前の文明なのか、と。

 となれば、ロイが願うことはたった一つだ。


(まだボクは王都、ってところに行ったことはないけど、願わくはファンタジー世界らしく、中世~近世、せめて近代の西洋みたいな街並みであってほしいかな)


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