パクリの誤解

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パクリの誤解

あらゆる人が作品を発信できるようになった時代、これほどまでに作品が溢れかえることを予測できた人がどれほどいただろうか?


今まで以上に「パクリ」は必然的に起こるものになった。


あいみょんの『マリーゴールド』とゲーム『メダロット2』のBGMが酷似している問題は記憶に新しい。彼女ほどの知名度があるからこそ取り沙汰されているが、検索にかければパクリを見つけるのはミルクティーの中のタピオカを吸い上げるよりもずっと簡単だ。


しかし、あくまでパクリとは客観的な感想に他ならない。


「パクリでしょう!」→「違います!」


【完 全 勝 利】


基本的に「意図しているかどうか」がパクリの判定基準の大部分を占める。(実際はパクリの烙印を押されて本人の知らぬところでパクリ認定されるケースがほとんどだが。)


つまり、本当の意味での意図したパクリ作品は存在しえない。(異論は認めます。)したとしても推測の域を出ない。われわれが日ごろ目にしているのは【客観的パクリ】に過ぎない。


以下で表記する「パクリ」はすべて【客観的パクリ】である、という前提を踏まえたうえで読んでほしいのだが、


「パクリ」には決定的な誤解がある


と私は踏んでいる。


「過去の作品と酷似していたらパクリなんじゃないの?」


違う。正しくは半分正解、半分誤りだ。


どういうことなのか、パクリの誤解を実例を交えて説明したいと思う。


■タイムリープモノパクリ事件






『Re:ゼロから始める異世界生活』は2016年最もヒットした作品の一つである。(小説・アニメ)(以下Re:ゼロ)


『Re:ゼロ』最大の魅力は主人公の能力「死に戻り」だ。異世界で様々な苦難に立ち向かう主人公が何らかの原因で死ぬと、生きていた時のある場面まで時が巻き戻り、死んでしまう原因を回避、解決しながら生き延びるのが本作品のテーマだ。『Re:ゼロ』は「死に戻り」という斬新な能力と練りこまれたストーリーが人気を博し、一躍有名になる。


ところが、人気絶頂の『Re:ゼロ』に後ろ指を指す人が現れる。




「それ、シュタゲのパクリじゃね?」






『Steins;Gate(シュタインズ・ゲート)』は2009年発売のゲーム、およびそのアニメ化作品。ヒロインの運命を変えるため主人公が繰り返し「時間を巻き戻す」作品である。ん?時間?


察しの良い読者の皆さんならお分かりの通り、そう、『Re:ゼロ』と『シュタゲ』は時間を巻き戻す点でテーマがかぶっているのだ。しかも『シュタゲ』のほうが7年も前に制作されており、一時はブームを巻き起こした大ヒット作品であるためアニメ好きなら知らない人はいない作品だ。


「言われてみればパクリかもしれない…」


テーマが丸被りしているわけではない。時間を巻き戻すトリガーが明らかに違うし、ストーリーもキャラも全く異なる。ただ、「斬新なテーマ」がウリの作品、そのテーマが被ってしまっては当然悪目立ちすることになる。その結果、一時は「Re:ゼロアンチ」と呼ばれる人が動画サイトにあふれることとなった。


ところが、今度は「Re:ゼロアンチ」に後ろ指を指す人が現れる。




「そんなこと言ったらタイムリープモノなんて昔からあるよ。」




※「タイムリープ」とは:過去のある場面まで時間を巻き戻して同じ時間を追体験すること。タイムスリップのように未来には行けないし、自由に場所を移動できない


『タイムパイロット』(1982)、『ミステリーゾーン』(1959)など、


「同じ時間を繰り返す作品」がいくつも散見されるようになる。つまり、上記の作品は元をたどればすべて「タイムリープの原典のパクリ作品」ということになる。


パクリ・パクリじゃない議論を繰り広げていた人々は一様に沈黙する。もはや歴史が絶対的な事実である以上、どんぐりの背比べになることは目に見えていたからだ。議論はここで終結した…かに見えた。


こんな声を上げる人が現れたのだ


「これ、Re:ゼロのパクリじゃん」


その人がパクリだと指摘した作品は『シュタゲ』であった。2016年放送のアニメを、あろうことか2009年の作品がパクったと主張し始めたのだ。そして、大勢がそれに賛同したのだ。


冷静な諸氏にはお分かりの通り、こんな主張が通るわけがない。しかし、彼らが声高に主張するのには確固たる理由があったのだ。


そう、「こんな面白い設定見たことない!」のだ。


推測も交えるが、おそらく彼らの多くは中高生だろう。『Re:ゼロ』は深夜放送だし、中高生はちょうど深夜アニメを見始める時期だ。『シュタゲ』放送時の視聴者とも被らないだろう。


つまり、彼らにとっての初タイムリープモノは『Re:ゼロ』であり、その記憶が鮮明に焼き付いているため、いくら過去の作品を見ようが、彼らにとっては「Re:ゼロと似ている」作品なのだ。


言い換えるなら、それは【主観的パクリ】だ


もちろん彼らも馬鹿ではない。冷静に見れば天地がひっくり返ってもそんなことが起こらないことはわかるはずだ。しばらくすると、Re:ゼロのパクリだという人はいなくなった。


なぜ彼らは客観的に見て明らかなことを認めようとしなかったのだろうか。知性に欠けていたから?違う。おそらく答えはもっとシンプルだ。


「自分の好きな作品がパクリであるはずがない」


これだと思う


そんな馬鹿なと私自身考えた。だが、もし自分の好きなドラマなり、ゲームなり、漫画なり、アニメなり、心の底から楽しんでいたものを「パクリだ」と一蹴されたら?この世で唯一無二の宝物が本物のうわべをなぞった贋作とみなされるのだ。これほど悲しいことがあるだろうか?大切な思い出を台無しにされたような気分になるだろう。


「パクリ」を否定したくなる気持ちはわからないことはないのではなかろうか。少なくとも、理性より感情が先に出てしまうことは十分あり得るのではないだろうか。


多分概ねどの作品も何かのパクリである。どこかしらでテーマやストーリーが被っているのは必然だ。タイムリープというマイナーなジャンルですら問題になるのなら恋愛ものなどどうなってしまうのかという話である。


だけど、よほどのことがない限り、私たちはパクリを意識しない。【客観的パクリ】であっても【主観的パクリ】ではないからだ。


パクリに関する誤解とは、私たちが知らないだけで「ほとんどすべての創作物は過去の人にとってはパクリである」ということだ。よく音楽でパクリが多いとされるのは、無意識に昔聞いた作品に影響されることが起因しているからだと考えられるが、創作物は人生で得た経験や感覚をもとに作られる以上、どうあがいても過去に似た作品があったことは避けようもない事実なのである。私たちは歴史という長い道のりの上にいる以上、道からそれることはできない。


概ね論じるべきことは論じたが、一つだけ忘れないでほしいことがある。


「パクリを見つけても、決してパクリとは言わないでほしい。」


初めて感動した時のことを覚えているだろうか?初めて憧れたキャラクターはいるだろうか?「初めて」はどんなものにも代えがたい大切な思い出だ。その人にとってその後の人生を大きく変えるかもしれないものだ。どうかその思い出を大切にしてあげてほしい。


最後になるが、この文章が有意義なものであることを願う。


尤も、「パクリ」だがね。

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