オロカ
仮 名前
第1話
「ごめんなさい。」
僕が五歳の頃大好きだったのは電池式の長い新幹線と八つくらいのレール。カーブ四つに直線四つで作った簡易線路の上で僕は名前もわからない新幹線を朝から晩まで目の中、円を描く。
僕が十歳の時に好きだった人は僕に生きる意味を与えてくれた。
セミの生まれる頃、あの子が転校してきたあの日から僕が理想とする女の子像は固まった。憧れに近かったのかもしれない。日差しは肌を包み込み優しくあの子を発光させる。あの子は今もまだ僕のことを覚えているのだろうか。そんなことを毎日考えながら僕は日々を過ごすのだ。
僕が零歳の時に好んだものは人間の笑顔だった。僕が笑った瞬間みんなの表情は緩みオデコの縦ジワも消えて見えなくなる。そんな魔法をあの時の僕は持っていたのだ。涙を流しても家族や知らない人までもが笑顔で僕の目を見てくれる。中には嫌な顔をする人もいたのかも知れないが笑顔が僕を厚い壁で守りってくれた。
僕は今、街行く人と目を合わせたりなんてしないし手を振り合って笑いあうことだってしない。ましてや一日の幸せを願ったりするなんてことあるはずがない。歳を重ねるたび人間はそれらをすることが困難になってしまうのではないだろうか。笑える瞬間をひたすら探しては本気で笑えないような話に大げさに笑う。年齢が上の人には敬語かつフレンドリーな年下を演じ、更に上の人には誠実な自分を見せつつも時折十六歳らしさを垣間見せるなど自分なりに工夫をしている。そうすると気に入ってもらいやすいのだ。こんな計算だらけの世界で生きている僕を本当の意味で見てくれる人なんてきっと現れない。 なぜなら僕は’’僕自身’’が人を’’人間’’として見ることが出来なくなってしまっているからである。
しかし自由に生きたいと本心では願っていることも僕はわかっている。
街中の人に挨拶をして笑顔で「行ってらっしゃい」「お元気で」「今日もいい日ですね」「可愛いワンちゃんですね」なんて生活を送りたいものだ。そうして、僕自身の肺に引っ張ってきた「みんなの幸せ」を溜め込む。そして「僕を含めた全ての幸せ」を肺から押し戻して吐き出すんだ。その「綺麗な幸せ」をまた誰かが吸う。その繰り返し。そんな未来があればいいと僕は思う。
けれど僕の理想と現実は違う。反対に言えばこれが世の中の「普通」なのかも知れない。
「行ってきます。」
重いドアを閉じた瞬間僕は声だと判断することすら困難な汚い音で呟く。これがおばあちゃんを起こさず怒らせない為の二ヶ月前から作った小さな習慣である。
「白線の内側までお下がりください。」
喉が押し潰されたような声で駅員さんは人間を運ぶために叫ぶ。
「最近は向日葵を育てているらしいですよ。」
「まじ、あのミノムシしつこくない?」
「山登り同好会なんて久方ぶりよね。」
朝方の電車の中は偶然会ったであろうサラリーマンと様々な種類の制服を着た小学生や中学生、高校生で溢れかえっている。そして時たまおじいちゃんやおばあちゃん達の集団で優先シートは埋め尽くされる。そんな車内に僕もまた存在している。一番空想がしやすく安心・安定する瞬間がある。電車のピーク時から十五分後に発車する六両目だ。話す人は比較的いなくてぶつかりもしないので平和に下車することもできる。
「おはようございます。」
僕が毎日最初に話す相手の大半は学校の先生だ。たまに声が裏返る日もあるのでいつも声の確認をしてから登校する。その準備もなくクラスメイトに会ってしまった時は二分の一の確率で声が裏返って朝から笑いながら登校することになる。声をかけてもらえる瞬間は嬉しい、振り返る時のワクワクとこれから話しながら登校するのだというウキウキ感。しかし同時に予定を壊される絶望感も押し寄せてくるから面白い。
学校生活は’’普通’’だ。
「来たぞ」
それは幸せを連れて帰る合図。
*〜 笑夢藍華 えむあいか 〜*
教室にやって来たのは高校一年生のあの日から付き合い始めた’’笑夢藍華’’正真正銘、僕の彼女だ。
「今日、保健室に行った。ってタムタムから聞いたけど大丈夫なの?」
「心配はいらない、田村は大げさなんだよ。体育で怪我しただけだ。逆にダセーよ。」
「よかった。どこか怪我したのかと思っちゃったよ。」
「鈍臭すぎるだろ。」
「この前、私助けようとしてこけたじゃん・・・。」
少しの間、生温い風が僕らの背中を押してくる。
「わかった。今日だったよね。パーっとしに出かけますか!」
楽しげに僕の腕に胸を添わせてくる腕を拒むことはなくなった。最初は体を寄せてくる彼女にびっくりした。藍華は僕が腕を離すことを照れているとでも思っているのかいつも嬉しそうに笑って「まだ慣れないの?」とか言ってくる。会話が面倒なので今日からは受け入れることにしよう。
人生のうちたまには事実を話さない瞬間があってもいいだろう。もし、その真実が相手を傷つけることになるなら尚更。
*〜 笑夢藍華 えむあいか 一 〜*
藍華と出会ったのは奇跡でも何でもない。いや、ある意味同じコップの中に落ちた水のような奇跡はあったのかもしれない。
僕がコップの底に溜まっていた時に同じクラスで仲が良く交友関係も広い田村がカラオケに誘ってくれた。その時にいたのが藍華だ。彼女と田村は昔、同じ幼稚園に通っており再開したあの浅い感じの関係を深めようと田村は誘ったらしい。
「どうも。」
カラオケの受付前に集合した僕達は会釈だけして室内に入った。田村はみんなの為にと動いてくれるいい奴だ。おかげで受付はすぐに終わった。
田村が一曲目を歌い始めてすぐ、向かいのソファに座っていたはずの彼女は僕の隣に席を変えてきた。君の正体は蝿なのか。心が荒んでいた当時の僕はその時そう思った。しかし違った。彼女はただ「僕」というケーキに興味を持った普通の女の子。
「初めまして。」
「どうも。で、田村とはどういう関係なの?」
会話が面倒臭い。全くの知人かつ今後話す機会が無いような相手だからこそ楽に話せるわけで田村の知り合いとなっちゃ話が違う。
「えー。ちょっとショックなんですけど。」
「なんで。」
「私のことだよ〜。田村くんから聞いてないんだね。実は…。」
田村の声を避けるように彼女は僕の耳に手を当て、温かい疑念を投げかけてきた。
「そこまで、な、か、よ、く、なかったりするの?」
態勢を変えて動く彼女の生温い手が透けた白い花柄の上に移動したのを横目で確認しながら僕は会話を進めた。
「田村とはクラスで一番話しているし長い付き合いだ。席も隣だしね。」
「そっか。じゃあ私のことはこれから知っていくわけだ。」
そう言い終えた一瞬、彼女の頬に薄暗い線が見えたような気がした。堅いはずのソファが縦に沈む。
「次、どっちが歌う?君は普段どんな歌を歌うの?」 「私?私はこないだメトロックっていうフェスで歌っていたのを見て初めて知ったんだけど「フォーリミ」ってグループの曲は最近聴いてるよ。知ってる?まだ歌えるほどじゃないんだけどね。」
「知ってるも何も大好きなグループだよ。メトロックのフェス、君も行ってたの?」
初めて彼女の瞳を見た。彼女はずっとこちらを見ていたのだろうか。瞳の方向は一直線に進んでいる。頭上に存在するミラーボールの反射が青から赤に変わる時、僕は’’僕の心’’が静かに高揚したのを感じた。それも波揺らがぬように。
「友達の誘いでね。あ。普通の同じクラスの子だよ。女の子。」
早口で話す彼女の口から出た’’女の子’’について聞いてみたいことは多かった。しかし田村が流暢な英語を歌い終え間奏に入った時、マイクが僕の唇に当たりかけた。
田村は選曲を急かすような男だっただろうかと一秒考える。
「フォーリミがちょうどいいんじゃない?話してたところじゃん。」
彼女の言うことは理解できる。だが僕にはフォーリミを歌いたくないポイントが一つあった。それは一曲目に高音を出すのは厳しいからだ。
「いや、ラッドにしておくよ。」
僕の声に一番合っているバンドだ。
一曲目に相応しい。
学校帰りのカラオケだったのでその日の帰りはいつもより遅く電車内は「帰りのサラリーマンで賑わっていた」と言いたいが全く覇気が感じられず各々が所持するスマホばかりが空間を光り舞う。この長方形の堅物が発する光りたちは揺れるたびに笑いながら僕に問いかけてくる。
「なぜ死に生きるのか。」と。
そうして僕と彼女の最初の一日目は終わりを告げた。
*〜笑夢藍華 えむあいか 二〜*
翌日、旧校舎にある僕たちの教室に来た。新校舎と違いエアコンがない旧校舎に人が来るのは珍しくクラス中の視線が笑夢藍華という名の少女に注がれている。
「えーっと。何くんだっけ?キミキミ。」
僕に人差し指だけを向けた彼女は飛び跳ねながら手の平を下に向け僕を呼んだ。それもよく通る大きい声でだ。
「もうちょっと声は小さくしてくれないかな、君もかなり目立ってるよ?」
「あー。いいのいいの。みんなに知ってほしいし。」
彼女の考えることはよくわからない。典型的な女の子らしい女の子でもなければ目立ちたがり屋に見えるような容姿でもない。
「それで?呼ぶほどの内容って何?」
「そうだ。私はそれを伝えにきたんだった。」
彼女は簡潔に一言だけ話した。
「殺されるの。」
沈黙と共に進む秒針が止まることはなく僕の心臓もまた止まることはなかった。
いや、間違いだ。僕の心臓はたった一瞬止まって彼女が口を閉じたあと、動き出した。
急いで息を吸い平然を装う。
「冗談ができるような状態じゃないんだ。俺は眠たい。」
汗の伝う気持ち悪さがわかるだろうか。その雫はゆっくりと皮膚に添わせながら外気を吸収し冷たくなっていく。
そして最も嫌な瞬間は冷え切ったこの雫が中途半端に僕の皮膚から離れていってしまうこと。いっそのこと離れないでいてくれ、なんて思ってしまう時もある。
悲哀に満ちた音が一歩、一歩。僕の耳から遠ざかっていく。
「あいつ、何の用だったんだ。つーか、お前いつの間に仲良くなったんだよ。昨日会ったばっかりだろ?」
「なんでもない。俺、寝るわ。昼休み終わったら起こしてくれ。」
心臓の音に起こされ続けていた僕はこの間、現実から離れることは出来なかった。
*〜 家族 一 〜*
「ただいま帰りました。」
落ち着かせた声で帰宅を報告する。
母方のおばあちゃんと住み始めたのは約二ヶ月前の五月だ。一軒家で暮らしてきた母にとってアパート暮らしは苦痛らしい。反対に父はこのアパートに思い入れがあるらしく退去することをかなり渋った。「おばあちゃんのうちへはここから通えばいい」と母を説得していたが自由な一軒家に戻りたい願望が強い母を納得させるも父にとっては残念な結果に終わった。 そして僕はただおばあちゃんが心配だった。住む場所なんてどちらでもいい。おばあちゃんが安心して暮らせるなら移り住むしおばあちゃんが自分の時間も欲しいと言うのならこのアパートから通う。そう思っていたのだが僕の父と母はなぜか別居と言う名の離婚をすることになった。空気にすら僕の言葉は触れなかった。息子が思春期真っ只中で高校も入学したばかりの不安定な時期に離婚、別居なんて決断を普通の親ならしないのだろう。でもこれが僕の親だ。
・学校の先生に頭を撫でられるとき。
・こけて僕に友達が手を差し伸べたとき。
・友達とハイタッチするとき。
・頭のゴミを取ってもらうとき。
僕はぎゅっと目を瞑り、唇を歪ませ降りてくる手を待つ。僕の体を硬い手で触るのは’’母’’だけであるとみんなの柔らかい手に触れた時に僕は知った。
母のことをもう少し語るとすれば僕はこのことを話す。父が帰ってくる瞬間のことだ。あの瞬間が僕は嫌いだ。
母は笑顔になり僕は口に溜まった空気を吐き出すことの出来ないまま喉元を圧迫して肺に悪の気を溜める。。
*〜 あの子 一 〜*
溺れかけている友達を助けに行くとする。
浮き輪を持っている者。
泳ぎが得意な者。
そういう人たちが助けに行くのは納得できる。しかし僕自身溺れている中、溺れているであろう人間を助けに行くのは死に向かっているようなものだ。
だから僕は助けに行かない。
でも違ったんだ。
昼休みに藍華が来た夜。僕は夢をみた。
『夢の中のあの子』
小学五年生のクラスメイトであるあの子は僕に笑いかけ他愛ない会話をしてくれた。
「久しぶりだね。元気だった?」
「なん…で。」
「私のこと、ずっと見てたよね。」
「ごめん…なさい。でもとっても綺麗だったから。」
「ふふふ、それはないよ。ところで君は今、元気?」
ずっと見てきたあの子の笑顔は何ひとつ変わらなくて僕をあの頃へと連れ戻してくれた。当時の僕がいくら願いの叶うと噂される神社に行って毎日泣いて願ったって会うことはできなかったあの子が今、目の前に存在する。あの子が頭の中から消えていく感覚をただただ気持ち悪く思っていたあの頃の僕とは今日でおさらばだ。僕の願いは届いたのだ。約四年のバグは大きいと感じながらも僕は言う「ありがとう。」
それから夢の中のあの子は僕の手を取って雲ひとつない空の中、一緒に飛んでくれた。足が地面に食べられてしまうと思った時、あの子はシュークリームのような笑顔で羽のない僕にシルクのような羽を譲ってくれたんだ。
「あの子の本当の笑顔はここにあったんだ。」なんて、僕は夢の中で初めて本当のあの子をみた。もう二度と見ることの出来ない笑顔を瞳の中の結晶に焼き付けて僕は目を閉じる。
僕の羽が動き出した。あの子の手の感触はすでになくて。僕は拳を握り締め青空の口から降りる。
少ししか話すことは出来なかったけれど、あの子は青空という名の’’永遠’’の中で「僕」を「僕たち」を「子供」を「大人」を「社会」を「世界」をそして「未来」を守り続けると僕に誓ってくれた。
「人間はみんな才能があるの。生きる意味があるの。だからまだあなたには生きなきゃならない理由があるはず。生きて。探して。そして一緒にまた同じ夢で生きようね。」
夢から目覚めて耳の穴が溺れていることに気がついた。口の中に大量の雨と泡を流し込み小さなブラシで遊んでから全身を雨で濡らし身支度を済ませた。
*〜笑夢藍華 えむあいか 三〜*
「行ってきます。」
朝一発目の声は元気がよく。白熱灯みたいな空に背を向けていても光は僕の目指すところを明るく照らし続けている。
「このまま彼女まで光が射せばいいのに」なんて、人を想うのは久しぶりだが気持ちのいいものだ。
自転車を走らせるのは久しぶりであるがうまく漕ぐことが僕は出来る。自転車に乗り始めた当時、コケては自力で起き上がり汗と血の涙を流してはまたペダルに足を置き漕ぎ進める。けれどいつしか僕らはその苦労を忘れて自分たちの余裕のシロップに浸っている。
何だろうね。僕たちは事故を起こすために自転車の乗り方を覚えて、車の免許を取っているのかな。『死』に僕たちはいつも近づきたがる気がしてならない。
連絡もせずおばあちゃんの家から北に信号を七つ渡って左にもう四つそして小道を二つ曲がると田村の家が見えてくる。前の家からなら四つの信号で辿り着くことが出来る距離に田村の家はあった。
「電話すればいいじゃないか。」
たまにこんなことを言ってくる人がいるが僕はあいにくインターネットという機械を使いこなせるような人間ではないことがとうの昔に判明している。常に当たって砕けろ精神で遊びに誘う僕を面倒だと思う人間もいるらしく全員に好かれることはまずない。会った方が何かと手っ取り早いのではないだろうかと僕は思うしその方が顔を見て話すことが出来るから僕は好きだ。
しかし今日は田村と遊ぶために来たんじゃない。もっと人生において大事な用だ。
*ピンポーン
田村は玄関のドアを重そうに押し開ける。
顔は八割方寝起きの顔をしている。
「おはよう。田村。」
「お前、土曜の朝はねーだろ。朝は…」
「すまないと思っている。でも田村。今日は遊びじゃないんだ。」
「そうか。なんかあったのか。」
家の事情を知っている田村はいつも僕を心配そうな目で見守って僕の心を支えてくれる。田村と友達になれてよかったと今でも思う。中学三年生から一年ちょっと、僕たちは急激に仲良くなった。振り返るとどれもいい思い出ばかりだ。
「この間、カラオケに行った時にいた女子。覚えてるか?」
僕は何度も考えたんだ。田村はカラオケに女子を誘うことがそんなに何度もあっただろうか?と
「ほら、昨日の昼休み俺らのクラスに来てた子だよ。名前知らない?それより住所知らない?」
「あー。あいつね。そうか、連絡先交換してなかったもんな。名前は「えむあいか」だけど。」
「どういう字だ。」
「笑夢藍華。笑う夢に藍色と草冠の華でえむあいかだ。でも何で急に興味持ったんだよ?カラオケじゃあいつのこと全く興味なさそうにしてただろお前。」
「それは初めて会ったし。ほら。今、急に、興味が、湧いたんだよ。」
「昼休みに告白でもされたのか?ヒューヒュー!」
「んなわけ。何、言ってんだよ田村。」
「てか、待て。女子の家だからな、そう簡単に住所は教えらんねーんだよ。それに引っ越したらしいしな。」
「嘘だろ。いつだよそれ?」
「確か一ヶ月ちょい前くらいかな。ちょうど、そん時からだもん、あいつと会って話始めたの。あいつに言われるまで気づかなかったけどな。」
「意外と最近じゃないか。前の住所のところ行けば何かわかるかも。行こうぜ。田村。」
「まて、俺を見ろ。パジャマだ。」
「すまん。前の住所だけでも教えてくれ。後で好きなもん奢るから。」
「おい待て、そう焦るなって。今あいつに聞いてやっから。」
田村は部屋へ四角い長方形の物体を取りに行った。玄関にすぐ戻ってきた田村が初めて見る奇妙な顔で’’それ’’を見せてくれた。
「これって・・・。」
「どういうことだよ。」
*〜笑夢藍華 えむあいか 四〜*
タイヤが浮くほどペダルを回して回して回しまくった。事故にあってもいい、早く彼女の元に行くのが先だ。
確かめなければならないことが多すぎる。
僕らは会わなければならない。
そっとやちょっとで離れてはいけない関係。
僕たちはいつから出会っていたのだろう。
それとも偶然出会ってしまったのか。
何でもいいどれもこれも全て彼女に聞くとしよう。
田村の家から信号を青、青、青、黄と進んだ。僕が止めるべき駐輪場が見当たらない。放り投げる勢いで父に買ってもらった自転車を降りる。
アパート一番左、階段を駆け上がる僕の足は震えていた。足に温度はなく豆腐のように脆く思えた。感覚は戻らない。
取り外された表札。
一つ目カメラと目が合い、呼吸を一つ食べる。
*ピンポーン
「はーーいー」
女性の上品でセクシーな声が聞こえるがそれは彼女の声ではない。藍華の声はもっと甘ったるく落ち着きのない声をしていて、簡潔にいうと五月蝿い。
「朝早いのにすみません。僕、藍華さんのクラスメイトの田村です。ちょっとお話ししたいことがあるので下の公園で待っていると伝えて頂いてもよろしいでしょうか?」
僕は田村のような爽やかな声を出し冷静に藍華を部屋から呼び出す作戦に出た。
「わかったわ。これからも藍華と仲良くしてあげてね。」
「はい。もちろんです。よろしくお願いします。」
「…」
公園にある木の下のベンチに腰を掛ける。
これは緊張なのだろうか。
この複雑な感情は一体なんだ。
この心のドキドキは僕と彼女が会ってはいけない関係であることを警告しているのだろうか。
僕は彼女に会わなければならない理由がある。そしていつか彼女の「母」と『父』にも。
「田村くんじゃ、ないじゃん。」
顔が確認できるくらいの距離に来た彼女はそう言って立ち止まった。申し訳ないが当たり前だ。
え、何。と言った彼女の表情は少し強張っているようにも見える。
「言ってなくてごめん。俺が田村に頼んだんだ。」
「そういうこと…。でもその前に。ここじゃ嫌。堤防行こうか。」
「そうだね。俺もそう言おうと思っていたんだ。」
投げ捨てられた僕の自転車はもう僕のものではない。歩き出す彼女のあとを流れるようについて歩き堤防に向かった。
「ねぇ、単刀直入に聞くけど。どういう用で会いに来たの。内容によっては私・・・」
俯く彼女。耳が立ち、まるで動物のようだ。
「わかってる。でも、俺からでいいのか?」
「そうだね、君からがいいな。」
僕は両足を揃えて止まる。そして彼女もまた、横に並び立ち止まった。僕は必死で彼女と目を合わせるも彼女とは目が合っている気がしない。
「何で目を合わせないの?確か君の得意技だったよね。」
カラオケでの会話だ。薄っすらと記憶の中にある彼女のセリフを思い出す。
「いや、それはお母さんに教えてもらって使ってるのものだから。それに時と場合で使い分けてるのよ。」
彼氏が所持する玩具を見た彼女みたいな笑顔でゆっくりと顔をあげる。
「何でもいいや。」
僕はもう、このドキドキを抑えることが出来ないと感じた。もう吐き出したい。この気持ちをぶちまけたい。そして確かめたい。君の口から聞きたいんだ。
「笑夢藍華。いつから俺を知っていた?」
「笑夢藍華。お前は誰だ?」
「笑夢藍華。お前の父親は?」
「笑夢藍華。お前の今の名前は?」
「笑夢藍華。最後に、田村を利用したろ。」
「笑夢藍華。俺は確かめたいだけなんだ。」
「笑夢藍華。俺は優しい、答えてくれ。」
「笑夢藍華。殺されるって何だよ。」
・
・
・
どれくらい質問しただろう。
どうして僕は茜色の空を見ているんだ。
額が痛い。こんなのは初めてだ。
彼女の生温い手から出る液体が眉間を流れてくる。
「…」
彼女は僕の額に拳をぶつけてきたようだった。彼女もまた、拳を握りしめ苦い顔をしていた。僕が気持ち悪い虫にでも見えたのだろうか。僕は自分ことよりも彼女の思っていることがこの時、気になっていた。
「ねぇ、落ち着いてよ。私何でも話してあげるからさ。」
「は、はい。」
正座している僕を自転車のおじさんが籠の中のクーラーボックスを抑えながら見てくる。目があったおじさんは何かを察したのだろう。視線をクーラーボックスへと向けた。
「説明するけど聞き逃したら次は頭潰すから。」
「もちろんです。」
息を飲み込む。
「一。私とあんたは血が繋がってるの。クソ親父の血だけど。これは変えられないものだから」
「二。あんたのことは一ヶ月前に知った。クソ親父の部屋漁ってたらさアルバムなんてもんとってあんだもん。まじ笑ったわ。どんだけクソなんだよって感じだよね。そしたら写真のあんたが同じ学校にいるしでほんとあん時笑いこらえられなかったもん。あんたのせいで大変だったんだよ?」
「三。私に今の名前とかないからずっと笑夢藍華。あの親父と同じ名前なんて吐き気がする。だから私はずっとこの名前で生きてやるからそこんとこ安心して。」
「四。あんたんとこの家庭を壊すつもりはない。多分あんたのとこはあいつがクソ親父ってこと知らないでのうのうと生きてきたんでしょ。あ。でも、もう君知っちゃったか。お母さんとおばあちゃんだけでも守る?ん?」
「五。田村は利用したけど幼稚園一緒なのは嘘じゃないよ。そこの繋がりあったのは本当助かったわ。田村いなきゃこんな早く関われなかったからね。そんで田村いなきゃこんな早くバレなかったのに…。」
「六。これで最後ね。『殺されるの』あの親父に。こればっかりは見てもらわないとわからないんだけど。」
僕は頭が混乱している。「俺の父」は二日前に会った「田村の友達」の「藍華」の「父親」でもあってしかも「同級生」。そして父親は’’不倫’’をしていたことになる。三秒の沈黙が僕らに終わりと始まりを予感させる。
「俺は君のあの一言が忘れられなくて、田村に協力してもらってここまで来たんだ。田村がお前の住所を見せるまで、僕の日常は平和だったんだ。お前と出会って。何もかも壊れちまったじゃないか…。」
「ちょっと、それは間違ってるから訂正してくんない?悪いのは私じゃなくてあんたのパパ。そんで私のクソ親父。だから。何勘違いしてんのか知らないけど私があんたの前に現れていてもいなくてもこの関係であることは変わらないの。わかる?あんたは嘘偽りの世界から救い出された被害者ってわけ。何をそんなに嘆いてんのよ。」
僕はもうどうでもよくなっていた。いつもの日常に帰りたかった。あれ、おばあちゃんの家が日常なのか、はたまた三人で住んでいたアパートが日常なのか。でもそれは僕にとっちゃ嘘で塗り固められた世界だったわけだし。どういうことかわかんなかった。頭は回らない。こんな話があってたまるか。僕の平穏な日常に傷を付けたのは誰だ。「笑夢藍華」か「僕の父?」なのか?
人間、暗い谷底に突き落とされた時、きっと落とし入れた人を恨みたくなってしまう。なんて悲観的な生き物なのだろう。
一。傷をつけたのが「笑夢藍華」なら何としてでも平穏を取り戻す。どんな形でもいい。藍華に出会う前の今、藍華が住んでいるあの部屋に戻りたい。父と一緒に昔と変わらない幸せな日常を取り戻すんだ。
しかし僕はもう「父」の真実を知ってしまった。「母」に隠すことは難しくないだろう。しかし僕の中に生まれた蟠りを「父」に隠すことはもう出来ないと確信していた。
二。傷つけた元凶が「僕の父」ならば、僕は。きっと。父を「父」と呼べないだろう。しかし「僕の母」と「藍華の母」同時に不倫だなんてどうやって成立させたのだろうか。頭の中に沢山のハテナが浮いては頭の中のてっぺんで留まり続ける。それはヘリウムガスの風船のように空中に浮かぶ。
そうかあいつは俺らの前じゃ夜勤の設定だったっけ。いや待て、どっちの家族があいつにとっての本当なんだ。普通は残業するサラリーマンが多い社会だ。それに二つの家族との両立にかかる費用は二倍。一体あいつはどうやって俺たちを育てたんだ。
わからないことが多すぎる。
真実は一体どこにあるのだろうか。しかし、もう気力がない。
そうだ、インターフォンに出たあの女性はきっと彼女の母親だったんだ。けれど僕の顔を見て何の反応も示さなかった。つまり彼女の母親は不倫を知っていたとしても僕たちの顔までは知らなかったのかもしれない。
「ねぇ。もういい?大体話したけど整理出来た?」
「ごめん。今はあいつのことで頭がいっぱいだ。」
「ふぁははは。そうだよね。それよりあんた気づいてる?もうあのクソ親父のことあいつとか言ってんの。切り替え早いね〜嫌いじゃないよ。」
「…。それで、その真実を知って’’藍華、さん’’はどうしたの。」
「質問はもう終わりだって言ったのに。仕方ないなぁ。」
「あんたの写真が入ったアルバムを見たのが全ての始まり。今まではね私とお母さんは田村の家からわりかし近い場所に住んでたの。ほら、幼稚園も一緒じゃん?簡単にいうと『今、私が住んでる家』または『君が前に住んでいた家』から一キロ圏内に住んでたの。で、あんたたちがおばちゃんの何だっけ。なんかで引っ越してからあのクソ親父が「私たちが住んでた部屋がボロボロだから移住しよう」って。そんなこんなであの家に住むことになったの。そりゃ当時は不倫だって知らないし家も確かにボロボロだったからラッキーぐらいの感覚だったわ。でも違ったのね。アルバムを見つけた翌日、クソ親父の仕事部屋を荒らしまくってやったの。その後は綺麗に不倫の証拠を机に並べてやったわ。そしたら母さんだけが倒れたわ。」
「そうか。あの人、僕を知っていたんだ。」
「何のこと?まぁ、そんな感じ。わかった?」
「消化はできてないけど、胃に入れることはできたかも。わかんない。」
「例えがわかんないし、はっきりしないの好きじゃないんだけど。」
そうだ。はっきりしていないことがもう一つある。それは「殺されるの」の真相だ。彼女は見ればわかるとか何とか言っていたけれど、僕はこれ以上足を踏み込んでいいものかと考えていた。推理ドラマなら二話目で刺されている頃だろうしこれから何かを見たとしてもその記憶を消すために殺される危険性だってあるわけだ。ましてや彼女自身が「殺される」と言っているぐらいだ。危険性は尚更高い。相当やばい何かがあるのだろう。しかし僕はもう沼底に片足を入れてしまっているので決心を決めることにした。
「それで、『見ないとわからない』って何だ。『殺されるの』の真実だよ。」
唇を尖らせて必死に平静を装う。
「正直に言う。助けて欲しかったの。」
「おう。」
「だから。救って欲しいの。こんなに早く真実に辿り着いてしまったのは想定外だったけど。殺されてしまうかもしれないってのは本当だから。」
「助けられるかはわからないけど、その『何か』を見ることはできる。その覚悟はもうしたぞ。来い。笑夢藍華。」
「何だか安心した。ちょうど明日、お母さんとクソ親父の両方が家に居ない時間があるの。午後二時から午後五時よ。家に来て。絶対よ。鍵は変わってないからそのまま入ってくれて構わないわ。」
「わかった。日曜か。家に行くよ。というより元の家に一旦帰ることにするよ。アルバムも持って帰って燃やしたいしね。」
「へー。結構大胆なことするんだねあんたって。」
首を上にあげ、僕はやっとこの心臓の荒波とバランスを取ることが出来た。空がもう白い。
この日は沢山のことがありすぎて疲れてしまった。もう何も考えたくない。脳の中の目が閉じ視界が黒くなっていくなか、おばあちゃんの怒鳴り声が段々小さくなっていく。
夏の声に起こされ僕は急いで目が覚めた。
約束の時間は午後二時。今の時刻は、午前八時だ。昔住んでいた家に帰るまであと六時間。僕はいつも通りの時間に起きていた。
昨日晩御飯を食べなかったせいか、やけに空腹感を感じる。
朝食の用意はいつも流れ作業だ。六枚切りの食パンに霧吹きで満遍なく水をかける。それから百三十度で十分、二百度で八分焼くのがこの家の。僕と母のファミリールールだ。
*ポーン
焼きあがったパンを木で出来た滑らかなまな板の上に乗せ、その上に蜂蜜をサラッとかけたら完成。
食パンを四つ角、残りの耳、白い部分の順番に食べ進めながら残りの時間の過ごし方について考えた。ふと目にした電話に見慣れない留守電の光が点いている。
…もしこれが『父』だとしたら『不倫相手の女の人』だとしたら『不倫相手の子』である『藍華』だとしたら…
良くない想像が物凄いスピードで混乱の渦を作る。しかし一直線に進む両親の元生まれた僕だ。手に埃が張り付く。
*留守番電話が。一件…ピー
それは不安視した甘ったるいあいつのものではなかった。また、生まれた頃から聞いていた声の持ち主でもなかった。一安心だ。そしてその留守電は僕が出会った中で一番声の綺麗な持ち主だった。
昨日のことがあったまま放置されていた田村は僕のことを大変心配していたらしく、自分の家に来るよう留守番電話にメッセージを残してくれていたのだった。
*留守番電話がありません。
‘’向こうの家族’’の誰かが「電話」を「住所」を「銀行の番号」を知っていたとしたら大変なことになっていただろう。そんな状況、ニュースに発展してもおかしくはない。僕はよくよく考えた。そして深く考えてみれば向こうの家族もそれなりに危険性は感じているのかもしれないということに気づいた。なぜなら僕と母が’’向こうの家の鍵を持っている’’という点ではどちらも下手な一歩を踏み出せないからである。実に簡単なことであった。殺害も容易だろう。しかし僕はそれをしない。それは僕自身の家庭も壊れてしまうことに他ならないからである。
すでに壊れている気もするが今はおいておこう。
もちろん今の所そんなことをする予定が僕にはない。しかし結婚相手の真実を知った僕の母はきっとヒステリックタイムに突入することになるだろう。いいや、それ以上かもしれない。「ヒステリック時期」「ヒステリック人生」で終わってしまう可能性すらある。
ここ数週間は尚更危険だ。介護と仕事の両方でイライラ貯めている僕の母はストレス発散できるものを探しては僕の頭から髪をちぎり取る。おばあちゃんのいない二階が僕の心をまた強くする。その中でも感心することがある。それは物を壊さない自制心だけはあることだ。「上司ストレス便」「ご近所ストレス便」そういうものを僕の喉に押し込み、飲ませてくる。それが僕の飼育者であり最近の母だ。
*〜笑夢藍華 えむあいか 五〜*
*ピンポーン
「昼ごはん食べに行こうぜ。田村。」
鋼が跳ね返る音と共に田村のサンダルが扉から顔を出す。しばらく僕の方を見つめて田村は言った。
「お前、それは。どっちだ?」
嫌なことがあると隈がよくできる体質の僕はいつも田村に心配をかけてしまう。田村の右の口角は下がっていて不自然な笑顔が出来上がっていた。
「すまんが俺はあまり頭が良くない。」
「知ってるよ。それが田村だからね。」
「名探偵になれたらいいのにな。」
「そんなの必要ないよ。僕が話せば済むからね。いつもの飲食店Mでいいか?」
「おう。」
いい返事と田村の目に浮かべられた大きなアクアマリンの輝きを目にした僕はまるで海底にある音楽のない空間にテレポーテーションしたような一瞬を一秒過ごした。
僕らはまばらに空いた席を確保することもなくレジへ向かう。化学の匂いに僕らは鼻を鳴らしながらタダで売られているスマイルに背を向けて座った。
いつもの僕らならきっと五分で食べ終えてゲームセンターにでも行ったのだろう。しかし時計の針は重りがあるらしく僕らが来てから一切動かない。
口は少しの酸素を含み二倍の二酸化炭素を吐き出しながら僕に言葉を投げかけてくる。
「昨日はなんで笑夢の住所なんか聞いたんだ。まぁ、俺んとこに来た理由はなんとなく分かってるんだけどな。」
「うん。それは僕の癖だね。その方が早いと思ったし。」
「お前な。電話でもいいんだぞ。それと最近じゃ住所とか教えるのはプライバシー違反とか何とかに引っかかるかも知んねーから気をつけろよ。」
田村の言い方はいつも優しくて僕はとても好きだし居心地がいい。心を大きく揺らがせることのない存在。田村が死ぬ瞬間まで僕と田村の間でベトベトした綿あめが行き交うことも汚い綿あめが生まれることもないだろう。
「俺は田村っていう人物がいたから生きれていたんだと思う。強いていうなら俺にとって田村は食料でいつも田村自身を消費させてばかりだ。だから俺は田村の肥料という存在になれているのか心配でならない。むしろ肥料を汚しているのは僕自身ではないのだろうかと考えてしまう。それでもだ。田村、俺はこれから先もお前の隣にいたい、お前を汚してしまうとしてもちゃんとした肥料になるから見捨てないでいてほしい。」
遠回しでくどいが僕が言いたかったことは粗方伝わっただろう。
「お前と生きてきた数十年並みの数年、その期間は何だったんだよ。それくらいで土と食料と肥料の関係なんて変わらないだろ。それに俺が土になっていることもあるし。そんなのお互い様。迷惑かけて生きていこうぜ。」
「あり、がとう。」
喉に詰まる母音を探して引っ張り出し、空気に触れさせて音を鳴らした。
「本題だ。お前の反応を見るからに俺がこれから聞くことは相当やばい話なのか?」
「どうだろう。人によるのかも知れない。俺が一種の諦めを持っていたのなら、なんてことのない問題なのだろうな。」
「なるほど。じゃあ順を追って聞くぞ。」
それから田村によって出されたいくつかの質問を全て答えた。笑夢に利用されたことを知った田村は妬む気持ちを表情筋を使って僕に訴えてきた。
商品の下に置かれた紙に水滴は染み込んでいく。
「ということはだ。その『何か』をこの後お前は見に行くのか。俺も付いていけるぞ。」
「いや、一人で来いって感じの圧力だったし笑夢自身は田村がこのことを知らないと思っているに違いない。そこでだ、お願いがある。」
「なんでもいいぞ。」
「あいつと会った後、田村の家に行こうと思っているのだがそれは問題ないか?」
「もちろん。明日はフリーだ。」
「あいつと会うのは午後二時から二時間くらいにしようと思っている。そこで、午後五時までに田村の家のチャイムが鳴らなかったらここにあるスペアキーを使って’’笑夢藍華が住む家’’と’’俺の前の家’’に来てくれ。」
「危険があるのか。お前は何もしないよな?」
「しないよ。ただ、その『何か』によって状況が一変する場合がある。」
「頼むから汚れないでくれよ。俺はそういうのを受け付けない。出来るだけ綺麗なままで会いに来てくれ。」
「わかってるよ。ありがとう。田村。」
「よし。俺と二時からの話をするのは今日はお預けだ。残りの四時間は楽しもうぜ。」
えびうま。相変わらず田村はいいやつだ。
それからの話は月曜にやっているドラマの主人公がどれだけ綺麗だとか僕たちが大好きな映画監督が久しぶりに出す新作映画の話で盛り上がった。千年に一度の美少女の話題ももちろん外せない。僕と田村はアイドルヲタクでもなければファンでもなかったがその美貌を持つ、たった一人のアイドルの噂は僕たちの話題を全て掻っ攫っていった。
会話の中、僕の意志は固まっていた。プランはこうだ。僕の自転車はまだ『笑夢藍華の家の下』にあるのでそれを取りに行くついでに『自分の家』に寄ってアルバムを持ち帰る。その流れで笑夢と話をするだけだ。
「頑張れよ。」
「行ってくる。」
あっという間に過ぎる時間は僕に生きた心地を与えてくれない。
何度も自分に暗示をかけながら震える足を温める。あいつに聞くことはあるし家に入って笑夢の母親がいる可能性だってある。あいつは嘘が得意だ。次第に僕の空想は大きく膨らんでいく。
パターン一。玄関の扉を開けると同時に包丁で串刺しにされ殺される。
パターン二。話し合いの間にハサミで腹部を刺されて病院送りにされる。
どちらも嬉しくはない。
空想をしている間、現実世界で何が起こっているかわからないまま全てが終わってしまうことはないだろうか。車が来ていたとしても無意識に僕は車を待ち、安全を確保してから右足を踏み出す。空想をしている間もなんらいつもと変わりない行動をとっていることに後々驚く。自転車があればなおさらだ。避ける技術が真に試される。
そろそろ僕は終わらせないといけない。
自転車を確認するといつもの場所に戻ってあった。隣には笑夢藍華の自転車らしきものもある。
その足で薄汚れた階段へと足を踏み入れる。相変わらず窓から見える風景は大きなドブ色の川と昨日、僕が殴られた堤防しか見えない。
心の野獣を手懐けた僕は慣れた手つきで鍵を回そうにも右に回すべきか左に回すべきかわからなくなってしまった。焦りが出たのだ。しまいには引きドアであったのにも関わらず押してしまう始末でドアは開かずしばらくテンパってしまった。
「いらっしゃい。何してんの。ご飯は?食べてきたよね?」
「あ。ごめん。うん。あの角の店で。」
変な誤解をされて気分を害されても仕方がないので田村のことは言わないでおくことにした。
「よし、適当にあがって。」
散乱した靴の中にはテレビで見たことのある値がつくであろう品が沢山あった。どれも他の靴と比べて状態が良く異臭には似合わない気品さがそこにはあった。
「お茶がいい?水でいい?」
「どちらでも構わないよ。」
「ごめん、お茶切らしてたわ。水用意するから待ってて。」
「わかった。」
僕が廊下に描いた歪んだ両親の絵は無くなっていて新しい壁紙で貼られたような線があった。これを隠すことも厭わない父に僕は「興味」が「関心」が「多くの問い」が段々と無くなっていることにこの時、気づいた。
使い慣れたダイニングテーブルの椅子にはそれぞれチラシ、米びつ、誰のものかわからないバッグに年季の入った見慣れたアルバムが置かれていた。僕はアルバムの置かれている椅子の横に荷物を降ろしアルバムを手にとって座る。
僕の荷物の中には焼却処分予定の品が一品追加された。
水の流れる音が聞こえる。
「はい。どーぞ。」
「ありがとう?」
正直このアパートの水はあまり美味しくない。蛇口を捻った水でさえそう思う。しかし彼女がコップを持って出てきたのは汚物を排泄する場所だった。
考えるのはよそう。彼女なりのジョークだったのかもしれないのだから。しかしその後、この部屋を出るまで僕は一滴も水分を吸収することはなかった。
「早速だけど、もう話しちゃおうか。」
「どうぞ、俺は構わない。笑夢のペースで頼む。」
「じゃあ、待ってて。」
父の部屋から出てきた彼女が手に持っていたのは一枚の『何か』だった。
*〜笑夢藍華 えむあいか 六〜*
ここにいる全員、机に置かれたその『何か』を見ているようで見ていなかった。液体は静かに揺れた。
僕は『何か』にどんな反応をしていいのかわからないまま口を開いた。それはどんな言葉よりも軽く重いものだった。
「…。ほんとあんたって幸せもんだわ。ずるいよ。私…。」
「ごめん。そんなつもりじゃ。ティッシュどこ。」
慌てる僕。箱状の物体はなかなか見つからない。エメラルドが2つの蛇口から漏れ出す。捻る部分が見つからない。僕はこんなにも固い蛇口を回してしまったというのに。
今までに感じたことのない空気の中、彼女は「ありがとう」と言った。僕は「おめでとう」と今度は彼女に向かって言葉を発する。
「落ち着いた?」
僕は時計の針が下に来たタイミングで彼女の背中から手を離した。
「うん、大丈夫。今日の予定全部狂っちゃった。」
はにかむ彼女の人間臭い息が喉にあたる。
机に置かれた一枚を見つめる。
「これ、四週目のエコー写真なんだけど。あんたがこれが何かわかるとは思わなかった。」
「俺がお腹の中にいる時の写真を母さんから見せてもらっていたから。ただそれだけだよ。それに今テレビで産婦人科のドラマやってるからね。」
「そんなの知らないわよ。」
「ほら、あれだよ。鳥の名前みたいな題名でマンガもある有名なやつだよ。」
「どうどう」
彼女は手のひらを僕に向ける。
「誰もいないココに来てもらったのはそんな話をしたいからじゃないの。」
「というと?」
それは時の流れを感じることの出来ない間だった。張り詰めた空気を彼女から感じる。部屋全体に冷気が行き渡り、三人を凍らせてしまうような予感がしていた。
「あんたの親父の子よ。この子。」
「言い換えるなら。私の父親との子。」
もうこの頃から僕は受け入れることしか出来なくなっていた。
「そうか。そいうことか。助けるって’’この子’’をなのか。」
「これで私の知っていることは全部話したわ。ありがとう。」
その後も彼女は中絶するにはギリギリの時期だと歯を削らせながら教えてくれた。
彼女の目に見えるカーペットは波立って見えるのだろうか。少なくとも僕はそう見えて仕方がない。波頭に呑まれないだけましなのかもしれないが。
僕は少しの沈黙を活用して頭を回転させた。
「つまり君は’’この子’’を産みたいってことだよね。」
「’’この子’’に罪はないし恨むこともないの。ただただ嬉しくて、お腹の中に命があるって考えるだけで心が満たされるの。『生きてきた意味あったんだ』って自分に教えることだって出来る。クソ親父は一生許さないけど’’この子’’のことは一生私が守っていくわ。大人になってもこの子に本当の親は伝えないつもりなの。」
「そうか。でも親父は反対している。と。」
「お母さんには話さなかったの。他にも家族がいるって知ってからおかしくなっちゃって。その上、こんなの言われてみなよ。すぐ死んじゃうでしょ。だから親父にだけ言ったの…。
その時の不安をぶつけた彼女に返ってきたのは「おろせばいい。金は出す。」だったそうだ。
幼い頃から実の父親に性教育という名の暴力をふるわされていたという話も僕はこの時、初めて聞いた。
「自分の父親がどんな人だったのかわからなくなるよ。」
「私は知ってる。あのクソ親父、仮面被りすぎなんだよ。でも、男って性欲の前だと何の仮面も被れないもんだよ。全部投げ捨てて性欲をぶつけてくる。あんたも結局はクソ親父と一緒なんだよ、きっと。だからあんたは自分を見ればいいんじゃない?人間なんて’’この子’’以外みんなクソなんだから。」
「僕は違うよ。」
僕たちが選ぶ未来はいつも間違っている。それでいて僕らの正解という列車を走らせるんだ。列車はどんな形であってもそれぞれに熱狂的なファンが確実に存在する。
人間は歩く列車だ。
二人が出会ったきっかけは衝撃的なものだったけれど二人にとってはこれが’’普通’’でただ敷かれたレールの上を走っていただけだったのかもしれない。
‘’あの子’’が生まれる為の道具でしかないように思えてしまう僕らのからだはこれから先も動き続けることだろう。だからここで終わってはいけない。きっと僕らにはまだやるべきことがあって教えなければいけないことがあるのだろう。
たとえ同じ父親から生まれた三人の子供だとしても僕らは生まれ、生きていく。
*〜 家族 一 〜*
「わかった。今日だったよね。パーっとしに出かけますか!」
腕を組まれながら僕は、僕らは学校を出る。
「高校、いいのか。」
「うん。どうせバレちゃうじゃん。お腹もこの顔もさ。」
初めて空を見たときの感情を思い出すとするならばこんな感じだろうか。
「新しい日常を探そう。」
*〜 家族 二 〜*
「お父さん、ごめんなさい。私、間違えちゃった。」
「行こうか。」
オロカ 仮 名前 @karinamae
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