第2話

 紙コップに口をつけたまま、気づかれないようにと思いつつちらっとお兄さんを覗き見る。

 お兄さんはまたペットボトルに直接口をつけてゴクゴクと喉を鳴らしている。

 ……自分で差し入れたものを一緒に飲んでるってこれどうなんだ。

 状況に対する脳内処理が追い付かなくなってきて、一人で紙コップ抱えてぐるぐるしていると、不意にお兄さんが気軽な感じで話しかけてきた。

「奏介は今何年生なの」

「えっ、あっ、えっと、二年です」

「へえー、じゃあ今が一番楽しい頃だなあ、青春真っ只中かよ」

「いやあそんな、全然そんな感じじゃないですよ、」

 うわああああああああああ喋ってる!!

 何てことない感じで普通に喋ってるうううううううう!!

 これはあれか、なんか話題出さなきゃ!!

 どうしようなんて言えばいいんだどどどどうしよどうしよ

「あ、あの、お兄さんは、おいくつなんですか」

「お兄さん?お兄さんって!俺は長谷川だよ、長谷川拓海。開拓の拓に海で拓海な。22歳です宜しくね」

「あっはいあの、狭山奏介です、17歳です」

「うん知ってる」

 笑ったああああああああ!!!!

 お茶目な感じで自己紹介をされてしまったああああああああ!!

 お名前を聞いてしまったしかも歳まで聞いてしまった!!!!

 しかも僕は名乗る必要なかった!!!!

 昨日学生証見られてたんだったああああああああ!!!!

 どどどどどどどうしようどうしよう取り敢えず!!

「あのっ!ご馳走さまでした!それじゃあの、お邪魔しました!」

 僕は紙コップを握りしめたまま頭を下げた。

「おー、こっちこそご馳走さま。また遊びに来な」

 えっ。

「……あ、そびに来ても、いいんですか」

「別にいいよ。奏介がここ通るの、いつも仕事終わる時間に近いからな。忙しいときは構ってやれないけど」

「わ……、ありがとうございます、じゃあ、また今度」

「おー、またな」

 お兄さん、じゃない、長谷川さんは、僕が小さく頭を下げて帰るときに手を振ってくれた。


 そのままてくてく歩いて、うっかり紙コップを持ったまま歩いていることに気づいた。

 昨日の学生証よろしく今日も紙コップを眺めつつ歩いて帰る。

 長谷川さん、かあ。

 長谷川さん。

 長谷川さんだって。

 しかも下の名前まで教えてもらってしまった。

 長谷川拓海さん。

 長谷川さん。

 ……た、拓海さん……?

 いやいや長谷川さんだろ。

 下の名前で呼ぶなんて馴れ馴れしすぎる。

 22歳かあ。

 大人だ。

 格好良かったなあ。

 爽やか。

 目元がなんか、印象的だった。

 サイダーを飲んでるときの喉仏が、なんていうか、ちょっと、……色っぽかった。

 大人の色気ってやつか。

 凄い。

 この紙コップは部屋に飾っておこう。


 夜になってもまだそわそわしたままで、ご飯を食べながら親の前でにやつくのが嫌で、ずっと難しい顔をしていた。

 暗くした部屋の中で布団に潜り込んで、飾り棚にそっと置いた紙コップを眺める。

 並々いっぱいに注いでくれたサイダーの味は、今まで口にしたどんなものよりも特別だった。

 眠りに落ちる瞬間、早く明日にならないかな、明日会えたらなんて言おう。

 また話ができたらいいな。

 そんなふうに思った。




 朝起きて、気合いを入れて通学路を歩く。

 鉄工所の前には、シャッターを開けて仕事の準備をしている長谷川さんがいた。

 僕に気づいた長谷川さんは、作業の手は止めないままに

「おう奏介、おはよ、しっかり勉強してこいよ」

と、気安く笑ってくれた。

「はいっ、おはようございます、行ってきます」

 なんか、他人行儀な雰囲気がまるでなくなった。

 僕も喋るのにちょっと慣れたし、長谷川さんは凄く、兄貴っぽい人だな。

 顔見知り、が、知り合い、に昇格した。

 軽い挨拶をして通り過ぎて、長谷川さんに背中を向けたところで、両手で自分のほっぺを押し上げる。

 駄目だ、完全ににやついてしまっている。

 こんな顔は友達に見せるわけにはいかない。

 でもしっかり勉強してこいって言われた。

 頑張らなくては。




「狭山ー、今日機嫌良いじゃん。なんか良いことあったん?」

 同じクラスの山崎が顔を覗き込んでくる。

 山崎は最近ちょっと髪の毛が長いから切ったほうが良いと思う。

 僕は自分の机に昼ごはんの弁当を広げながら、やばい全然隠せてなかったか、と慌てて気を引き締める。

「うん、内緒」

「何だよ気になるなあ」

 山崎が僕の前の席に座って、購買で買ってきた焼きそばパンを食べようとしている。

「僕そんなに分かりやすいかな」

「分かりやすいよ、顔の筋肉緩みまくってるもん」

 なんてこった。

「なに、どんな良いことがあったの。おれにも教えてくれてもいいじゃん」

 山崎が物凄く興味津々を絵に描いたみたいに詮索してこようとする。

「別に、全然大したことじゃないよ」

「狭山まさか、彼女が出来たとかじゃ……」

「違うってば、しかもそれは完全に大したことじゃん」

 山崎は気になるなあとかぼやきながら焼きそばパンを頬張っている。

「まあいいや、それより狭山さ、今日暇?おれ今日部活休みになったから、学校終わったら遊びに行かない?」

「うーん……」

 遊びにかあ、どうしよう。

 山崎とは仲良しだし、遊びには行きたい、けど、そしたら長谷川さんには会えそうにないなあ。

 僕が答えを渋っていると、山崎はあからさまにむくれた。

「なんだよ、付き合い悪いの?おれより大事な用があるならちゃんと言えよな」

 山崎に言われて、僕は慌ててごめんごめんと謝った。

 長谷川さんには会いたいけど、でもそればっかりになって友達を蔑ろにしていいなんてことは、全然思ってない。

 あの鉄工所は毎日通るから、長谷川さんには明日でも明後日でも会える。

「行くよ、たまにしかないもんな、山崎の休み」

「よっしゃ、じゃあどっか美味いもんでも食いに行こうぜ」


 放課後になって、僕は母さんに寄り道することを連絡してから、山崎と遊びに出た。

 街をふらふらして適当に近くの店に入ってみたり、本屋で漫画を立ち読みしたり、ラーメン食べたり、変なメガネを見つけて掛けてみたりした。

 山崎はいい奴だから、僕が退屈しないようにいろんな話を振ってくれたり、大袈裟におどけてみたりしてくれた。

 おかげですっかり時間を忘れてしまって、気づけば八時を過ぎてしまった。

 辺りが夕焼けを過ぎようとしていて、僕たちは慌てたように「また明日な」と手を振って別れた。


 事前に連絡をしたとはいえ、流石に怒られるかな、と心配しながら急いで家路に着く。

 鉄工所は既にシャッターが降りていて、人の気配もなく静まり返っていた。

 あーあ帰って小言を言われるの嫌だなあって思いながら歩いていると、脇道から

「奏介!?」

と驚いたみたいな大きな声で名前を呼ばれて、こっちが驚いて振り向くと、長谷川さんが、目を見開いて僕を見ていた。

「あ、長谷川さん、こんばんは」

 嘘お!!

 会えた!!

 奇跡!!

 嬉しくなっちゃって、ついつい顔が緩んでしまった。

 長谷川さんは、作業着じゃなくて、カーキ色したTシャツを着てジーパンを履いていた。

 ふふふふ普段着だあああああああああ!!!!

 格好良い!!!!

 腕が筋肉凄い!!!!

 と僕が内心で盛り上がっていると、長谷川さんは心底驚いたみたいな顔して、小走りで僕のところまでやって来た。

「なにお前、今帰りなの?今日いつもの時間に帰って来ないから心配してたんだぞ」

「えっ」

 今度は僕のほうが心底驚いた。

「心配……してくれたんですか」

「あったり前だろ、いっつも同じ時間に帰ってくる奴がいつもの時間に帰って来ないんだから。なんだ、居残りかなんかだったのか?」

「いやちょっと、友達と遊んでて……」

「お前ちゃんと親には連絡してるんだろうな」

「あ、はい、ちゃんと言ってます」

「なら良いけど、あんま心配かけんなよ」

 心配……してくれていたのか。

 長谷川さんが、僕を。

「なんか、すみません」

 嬉しいとか、申し訳ないとか、照れ臭いとか、いろんな気持ちがない交ぜになって、どんな顔していいのか分かんなくって、取り敢えず謝らなきゃと思ったら、長谷川さんは僕の頭をくしゃっと撫でた。

「いやいいけどさ。……俺自分がお前くらいの時、あんま真面目じゃなかったからさ。お前は親に心配させるようなこと、あんますんなよ」

 わしわし。

 頭を撫でられて、う、わあああああああああ……ってなった。

 長谷川さんに、頭を撫でてもらっている。

 嬉しい。

 恥ずかしい。

 格好良い。

 手が、逞しい……!!

「じゃあな、気をつけて帰れよ」

 長谷川さんの手が僕の頭から離れて、長谷川さんはそのままどこかへ行こうとしている。

 僕は、それを咄嗟に嫌だと思ってしまった。

 まだ一緒にいたい。

「あのっ、」

「? どうした」

「長谷川さんは、どこか行かれるんですか」

「ああ俺?」

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