誰よりも優しくなれたはず。

空御津 邃

誰よりも優しくなれたはず。

 誰よりも優しくなれたはずでした。


平生へいぜい。僕は人生にいて何よりも礼節を重んじ、他人の顔を伺いながらひっそりと、されど善人として生きていた筈でした。


かといって特段、誰かに必要とされるような人間でもなく。誰かに強く惹かれていた訳でも、何かに強く執着して訳でもなかったのですが、僕はそれでも満足して生きていたのです。


然しながら、『やれ仕事だ、やれ結婚だ』などかされる日常に辟易へきえきしていたのも事実でして。


ほんの少しばかりですが。


僕は薄幸はっこうな上に不満が漸増ぜんぞうする人生に、飽きを感じていたのです。


『ならば何か改変を』とも思いましたが、安月給で万年平社員の僕にとっては、日常を過ごすのがやっとの事でして。


日々の貯金も微増するだけで、その後は老後の生活で使い果たすのが目に見えていました。


 そんな人生の中、一体何が生まれるのでしょう?


僕は繰り返される日常の中、次第に『僕』がうしなわれていくような。そんな気がしてならなかったのです。


その感覚に陥った時、誰かの『意味のない人生』、『不必要な人間』と謂う言葉が、僕の脳裏に擡頭たいとうしてきたのです。


その刹那に僕は、学のない頭を使い僕の人生に意味はあるのかと思索しました。


僕の人生は、其れこそ生産性が無いと謂れるようなもので、不自由はなく育ちましたが、自由と謂える程の自由が在った訳でもなく。何かが報われたことも、また無かったのです。


それは恐らく。この先もずっとであり、僕は其れに強い鬼胎きたいを抱いたのです。



 ですから僕は、せめて何かを遺せたらと思いました。



先ず、僕は仕事を辞めました。


然し、新しい仕事を探すつもりもありません。また平生に取り込まれると思えたのです。


僕は人生の半分以上をあの会社で空気のように過ごし、働いていました。


故に僕の人生は、すっかり型にまり。それを型から取り出したとて、戻す事は容易だと感じていたのです。



それが今、『鬼胎』として現れたのだと直感的にですが、そう思えたのです。



僕は金のかかるものは全て解約、売却、破棄しました。手元には貯金していた金と、売却した時に手に入った金がありました。


僕は其れ等を全て引き落とし、僕が昔から欲しかった物を買いに行きました。


あの小説やマンガ。ドラマや映画等で出てくる『アレ』が欲しかったのです。


『アレ』こそが、僕の『人生改変』のスイッチだと思えたからです。


それは一種の憧憬しょうけいの様なもので、この機会を設けられて初めて思いましたが、それは恐らく僕の内に、既に巣食っていたのだと思います。


 僕は、とあるネットでの調べに基づき中華街の、ある店に入りました。


そして、ゆっくりと席に腰を下ろした後に、事前に購入し配送されたチケットを、キッチンカウンターに居た白髪頭の店主の様な男性にひっそりと見せました。


チケットを見せると、店主が大声の中国語で誰かを呼ぶと、厨房奥から出て来た僕と同い年くらいの女性に、表からは見えない場所に在った二階へ上る階段に案内されました。


壁のように急な階段を上ると、一つの扉があり。その中には体躯の大きな男が数人、ソファに座る一人の男を囲う様にして立っていました。


ソファに座る男が、反対側のソファに座れと言わんばかりに手を向けて、僕を誘導しました。


男は流暢な日本語で「何に使うのか。」と訊いてきました。僕はただ「人生を変えるが欲しい。」とだけ言いました。


男は少し含んだ様な言い方で、「貴方は変わり者だ。この場に居る誰よりもおかしい。」と言い放ちました。



そんな事は、とうの昔に判り切っていました。でなければ、僕はもっと早くにおこなっていたでしょうから。



 僕は取引を終えると、近くの漫画喫茶で一夜を過ごしました。その時の高揚感は今でも鮮明に覚えています。あれは学生時代の、修学旅行の夜以上の昂りでした。


その後は御存知の通り。

僕はスイッチを押して全てを吹き飛ばし、見事に人生を変えました。


厳密に謂うと、その行為そのものは無意味でした。その行為は存外、呆気ないもので僕は不満でしたが、副産物がその不満を搔き消し、僕を充分に満足させてくれました。


歴史にも残り、知名度も高くなり、平生からは脱脚出来たのです。


それら副産物は、とても価値のあるものでした。


『コレでこそ人生ってものだ』と僕が感じられる程でした。


コレが事の顛末です。


理由と謂える程の理由ではないですが、きっと他の人も同じ様に思っているはずです。


後は『やる』か『やらない』かの小さな差異です。


そして、人生とは常に苦しいものです。

努力して、正義を貫き――馬鹿をみる。


報われるのは運が良い人だけです。大概は報われず、終わる。


「人生は一度きりなのに。」


だからこそ、僕は思ったのです。



――『人生、楽シンダ者勝ち。』


だから、人生を謳歌し終えた僕は今後どうなろうと良い訳でして。だからこそ、ここに来たのです。


ここまで意義のある人生を送れた僕は、幸せ者です。


貴方もそう思いませんか?


産まれた意味を見出せた僕は、幸せ者だと。


「私もそう生きれたら」と。


きっと誰しも思っている筈です。


きっと誰もが知っている筈です。



「人なんて、そんなもんだ。」



ねぇ……? 刑事さん?

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

誰よりも優しくなれたはず。 空御津 邃 @Kougousei3591

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ