七話
宗司のいた現代日本には魔法なんてものは存在しなかった。宗司にとって魔法なんてものは字面ですら創作の中か、バラエティの謳い文句でしか目にすることはなかった。
そんな架空の概念を、今更あると言われても到底信じられるわけがない。
だが、宗司は自分の目でそれを確認していた。
虚空から流れる水。瞬く間に修復された腕の切り傷。
物理的に生物的にあり得ないそれらの出来事は、まさに魔法のようだった。しかし、実際に見て体験したからと言って、魔法を認めたくない理由が宗司にはあった。
(魔法が
宗司のいたところに魔法はない。魔法があると認めてしまえば、ここが元居た世界ではないと認めることになる。
今までは宗司はここのことを、何かどこかの森の奥としか考えていなかった。最悪、富士の樹海だったらどうしようと思っていた。そして、森へのトラウマを克服すれば家に帰れると。それがまさか別の世界だとは、想像すらしていなかったのだ。
宗司は頭を抱えた。なんとかしてでもここが日本であるという理由を探そうとした。だが、いくら考えたところで魔法がよぎり、それが現実逃避の邪魔をした。そうして徐々に喪失感だけが宗司の頭の中を埋め尽くしていく。
宗司が微動だにしないことを不審に思ったリリアは声をかけた。
「おい、大丈夫か」
返答はない。しかし、顔はリリアの方を向いた。口が開いている。どうやら返事がうまく声にならなかったらしい。
宗司は怒涛のように押し寄せる事実に混乱していたが、昨日の様に取り乱してはいなかった。
目の焦点が合っていることを確認し、リリアはもう一度問いかけた。
「大丈夫か」
「……多分」
宗司の返事は心もとないものだった。まだこの状況を呑み込めていない。それでも多分と答えたのは、不思議と頭は落ち着いているからだ。
崩れ落ちそうな喪失感はずっと感じている。いつ頭を掻きむしって泣き叫んでもおかしくはない。だが、宗司の体は感情の発露を拒むかのように平静を保っていた。気持ち悪い感覚だったが、それはまだ確かめなければならないことがあると宗司が分かっていたからかもしれない。
そのこととは、すべて宗司の勘違いだった可能性である。
例えば、さっきは視界の外から流れ落ちていた水を虚空から流れたと思い込んだ可能性がある。傷の再生も、取り乱したことによる記憶障害の方がよほど説明がつく。その可能性があるうちは異世界だなんて信じるわけにはいかなかった。
しかし、それは希望というには脆すぎる。先ほどリリアは魔法だと説明した。つまり彼女に何か使える魔法を見せてもらえば一発で希望は潰える。そうでなくても、もう一度水を流してもらえば真実ははっきりする。
宗司は知りたくないという気持ちを封じ込んだ。
「……リリア」
「なんじゃ?」
「……魔法を使ってくれませんか? 何でもいいです。リリアが使える魔法を何か一つ……確かめてみたいんです」
「ふむ。構わんが、妾はあまり魔法は得意ではない。それでも良いか?」
「はい。……是非に」
いきなりの頼みに若干困惑しているが、それでもリリアは魔法を見せてくれるようだ。当たり前のように魔法を使うというリリアを見て、既に宗司は天を仰ぎたい気持ちだった。
リリアは席を立ち、テーブルから十分に距離を取る。
「いくぞ」
その合図とともに、何の脈絡もなく槍が現れた。刃まで黒く、全く飾り気がない黒槍だ。いつの間にかそれをリリアが握っていた。
何が起きたのかわからず、宗司は目を見開いた。
「え?」
「呆けるには早いぞ。これからじゃ」
リリアが力を籠めるように強く握る。
途端、真っ黒だった槍に真紅の亀裂が走った。リリアの手元から伸びているその亀裂は、脈打つように蠢き、黒槍を侵食していく。徐々に大きくなった亀裂が黒槍を覆いつくしたとき、赤い光が白へと色を変える。その光が収まると、シンプルな黒槍はいつのまにか白銀に輝く槍へと変わっていた。
リリアは手にしたその槍を得意げに振るった。
「とまあこれが妾が使える魔法の一つ、『セレイネ・ヴェロス』じゃ」
「……そうですか」
適当に相槌を打ち、宗司は先ほどの光景を繰り返し思い返していた。
一瞬で現れた黒槍。侵食するように脈打つ光と、全く別物へと変化していた白銀の槍。一連の流れの間、宗司は視線を外すどころか瞬きすらしていない。むしろ瞬きの間の出来事だ。それに槍はリリアの背丈を超えており、すり替えたとも隠し持っていたとも思えない。
リリアの魔法を見せられ、もう宗司は認めざるを得なかった。
ここはまごうことなく異世界であると。
森への恐怖を克服しても家には帰れない。森から出たところで知らない世界に着くだけだ。
(そうか……帰れないのか)
ジワリと胸が痛む。
寝て、起きて、食事をして、学校へ行き、授業を受け、友達ととりとめもない話をして、家に帰る。普通に暮らしていた日々には、おそらく、もう二度と戻れない。
かつて友達と将来のことで話し合ったことが今頃になって思い返された。
(そりゃ一人暮らししたいとは言ったけどさ……)
特に不満があったわけではない。ただ単に、早く独立したかっただけだ。何も世界を超えて離れたかったわけではない。
不意に浮かんだ思い出が、堰を切ったように脳裏を駆け巡る。
どれもこれも、普通で、平凡な、そして最高の記憶だった。
「……リリア」
宗司の声は少し震えていた。
「……なんじゃ」
「昨日の、今度取り乱したら外に捨てるって言ってたの、今も本気ですか?」
「もちろんじゃ。いちいち泣き喚いたりする奴を手元に置きたくはない」
「……そうですか」
つまり、この気持ちは堪えるしかない。宗司は大きく息を吸った。
(ベッドは堅い。飯も堅い。親はいない。学校はない。友達もいない。本もゲームも……)
叫ぶ代わりに、長く、ゆっくりと息を吐く。
未練はある。喪失感は今も苛んでいる。
すべて自分から追い出すように、宗司は大きく大きく息を吐いた。
「おい、本当に、」
「もう大丈夫。落ち着きましたから」
リリアの問いかけに対して、普通に宗司は返事をした。その様子に、本当に元に戻ったとリリアは察して渋々引き下がる。
不満そうにしている彼女を見て、何も説明していなかったことに思い至り、宗司は慌てながら付け加えた。
「本当にもう大丈夫です。ご迷惑おかけしました」
「……妾は、貴様に何が起きて何を知って何をもって大丈夫になったかも知らんが」
「えっと……、あの、なんていうか、その
「まあよい。言いづらい事を無理に言わせる気はない。……それに今は貴様が無駄にした時間をどう取り返すかが先じゃろうからの」
「すみません」
「うむ」
謝る宗司をあっさりと許して、リリアは持っていた槍を消す。
言わずに済んでホッとしつつ、宗司はあることを考えていた。
(もし、こんなことになった原因があるのなら―――)
(むかつくだけか)
割とどうでもいい事を考えていた。
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