第18話 東源高校・尾長 重里高校・西岡 運命の前夜

 本選をかけた戦いの前日。尾長は、対重里高校用の練習を完璧に仕上げた。加奈子のインフルエンザという突然のアクシデントもあったが、俊介の奮闘によって代役の育成は間に合った。


 未柳は、絶好調だ。まるで座禅で悟りを開いた武道家のように、試合中は寒いオヤジギャグをいわなくなった。ただし反動でお菓子を食べまくるため、一週間前より一キロ太った。何事も等価交換なのかもしれない。


 とにかく部活動全体としても、やれる範囲内での練習を完了した。あとは明日に備えて体調を万全にするだけだ。


 いつもより早めに部活動を切り上げると、部員たちは自宅に帰った。


 尾長は電車で帰路についた。駅のホームへの昇降にエレベーターを利用していると、膝を怪我したときのことを思い出す。


『高校総体バスケットボール部門/全国大会準決勝/東京代表・東源高校VS神奈川代表・荒波学園』


 両校の実力は拮抗していた。お互いに点を取りあうゲームとなり、点差が開くことはなかった。試合終了五分前になっても、どちらが勝つかわからない状況だった。ベンチから応援する声も、観客席から応援する声も、まるで雷鳴のように弾けていた。


 そんな切迫した状況で、ゴール前のルーズボールを競って、敵味方ふくめた大人数が入り乱れた。


 尾長も無我夢中でルーズボールに飛び込んだ。あのボールを拾って、仲間の誰かがゴールを決めれば、逆転して勝てるはずだった。


 この戦いに勝てば決勝戦進出だ。決勝で勝てば全国制覇だ。理屈や理論ではなく勝利への渇望により尾長は飛んだ。


 だが尾長は体が細かったこともあり、他の選手たちに弾き飛ばされる形で、ゴールポストに激突した。


 左膝が真っ赤に腫れていた。あまりもの痛みで立つことすらできなかった。怪我をした直後は、この試合に負けたらどうしよう、ぐらいしか考えていなかった。


 だが救急車で病院に搬送されて、レントゲンやMRIを受けて、医師の診断が下ったとき、選手生命が絶たれたことを知った。


 ほんの一瞬の事故で、すべてが破綻した。


 尾長は、しばらくなにも考えられなかった。だが過酷な現実はすぐそこに迫っていた。なにかしらの部活動に所属しないかぎり、スポーツ特待生が解除されるという。


 そもそも尾長がバスケットボールを始めたのは、趣味が半分、実益が半分だ。実家が貧乏すぎて高校の学費すら払えなかったから、東源高校のスポーツ特待生制度を利用して学費免除を獲得したのである。


 尾長は秀才ゆえに、もし一般的な家庭に生まれていたら、それこそ黄泉比良坂みたいな都内有数の進学校に進学していたはずだ。


 だが子供は生まれる家を選べない。持っている手札で勝負するしかなかった。


 しかし持っている手札で勝負して、このまま成長を続ければプロのバスケットボール選手だって夢じゃないほど技術が蓄積したのに、ゴールポストに膝がぶつかった。


 当時の尾長は神を呪った。貧困家庭に産み落としたばかりか、その解決方法すら奪うのかと。


 爬虫類みたいな顔は憤怒と落胆で真っ青に歪んで、黒縁眼鏡に影が差した。


 だが救いの糸は一本だけ残っていた。その糸を発見したのも偶然だった。


 膝の治療がてら、なにげなくもう一つの趣味であるRTSの動画を見ていたら、高校生eスポーツ大会の広告がリンクに貼ってあったのだ。


 これだ、と尾長は思った。


 あとは同級生から上級生まで、eスポーツに興味を持ってくれた人をかきあつめて、eスポーツ部を立ち上げた。選んだゲームは【MRAF】だ。LM(ライトニングマーフォーク)の活躍により競技人口が激増していたからである。


 創部一年目は、とにかく弱かった。尾長を含めて競技シーン初心者ばかりだ。もし重里高校の西岡が助けてくれなかったら、あまりもの弱さに空中分解していたかもしれない。


 だが二年目、三年目と生き残った。


 部の立ち上げに協力してくれた生徒は、加奈子しか残っていない。お笑い生徒会長の未柳と、もう一人の部員は二年生になってからの入部組だし、当時の上級生たちはみんな卒業してしまったからだ。


 尾長は、上級生たちから、たくさんの思い出を受け取った。この青いフレームの眼鏡も、彼らが卒業するときに贈ってくれたものだ。なんでも『黒縁眼鏡ではイメージが悪すぎるから、もっと明るい色のフレームを使え』らしい。


 上級生たちの感想は正しかった。青いフレームの眼鏡に変えてから、友人が増えたのだ。


 だが友人が増えたことは、フレームの色が明るくなったことが直接の要因ではない。

 

 この青いフレームの眼鏡を贈ってくれた上級生との交流を通じて、膝を怪我したときの心理的な呪いが解けたことにより、尾長の表情が穏やかになったからだ。

 

 尾長は青いフレームの眼鏡に指先で触れた。卒業した上級生たちを安心させるためにも、明日の試合に勝利して本選に進みたかった。


 大事な試合の前日ということもあり、当時の思い出を語りたかったので、尾長は加奈子のSNSにメッセージを送った。


『加奈子くん、インフルエンザの調子はどうかな』


 加奈子の返信はすぐにきた。


『もう熱は引いてるんだけど、潜伏期間だから外出禁止だって』


『感染症だからね、インフルエンザは。他の人にうつしたらまずいわけだ』


『未柳はどう? 本人は完璧といってるけど、未柳だから信用できない』


 加奈子も代役の仕上がり具合を気にしていた。だが気にする意味も、親しい友人だからこその疑い深さだった。


 未柳はなんだって『だいじょーぶ!』と勢いで解決しようとするため、賢さや丁寧さを求められる分野では一切信用されていない。


 だが今回の未柳は、ダイエットを捨てることで丁寧さを手に入れた。


 このことを尾長はありのままの文章で伝えた。


『大丈夫だ。俊介くんがマンツーマンで指導したおかげで間に合った。具体的にいうと食欲でお笑い欲を上書きしたんだ。未柳くんは一キロ太って冷静さを手に入れた』


『……よ、よかったね、育成が間に合って』


 謎フレーズで有名な加奈子を困らせるほど、未柳の解決法は特殊であった。


『というわけだ。明日は必ず勝つよ』


『うん。絶対に勝ってね。わたし、まだ尾長くんと部活動、続けたいから』


『今年こそ、本選出場さ』


 尾長と加奈子は、一年生のときも、二年生のときも、予選で敗退して本選に進めなかった。


 部員一同、努力もしたし、研究も繰り返した。


 だが届かないものは届かなかった。あらゆる大会で負けまくった。すっかり弱小校のイメージがこびりついていた。


 だが今年は違った。


 kirishunこと桐岡俊介がいる。元LMの天才だ。世界中のプロチームが彼を虎視眈々と狙っている。バトルアーティストを完璧に使いこなせることは、それほどまでに貴重な才能だった。


 そんな千年に一人の天才の入部によって、東源高校eスポーツ部に化学変化が起きた。


 三年間積み重ねてきた練習が良質な肥料となり、満開の桜となって開花したのだ。


 本選出場どころか、全国大会進出だって夢ではない。


 尾長は、高校三年生にして、ついに運をつかんだ。


 桐岡俊介という幸運をだ。


『無理をしないでね尾長くん。膝を怪我したときを思い出すから』


 加奈子は心配そうなメッセージを送った。


『大丈夫。eスポーツのいいところは、膝がダメなやつでも全力で戦えるところさ』


 あとは細かな挨拶をかわして、加奈子とのやりとりは終わった。


 尾長は、もうすぐ自宅に到着する。だから気持ちを半分だけ閉じた。学校は楽しいが、自宅はあまり楽しくないからだ。


 ● ● ● ● ● ●


 尾長の自宅は、東京郊外の老朽化した団地である。都内ではあまり治安がよくないことで有名であり、お世辞にもいい街とはいえないが、慣れてしまうと細かいことは気にならなかった。


 尾長は、自宅で両親と会話しない。会話したら口論するのがわかっているからだ。学問もeスポーツも理解できない両親にとって、賢い息子は異物に感じるらしい。


 無学であることを誇りにする人物にとって、学問とは人でなしや世間知らずの象徴なのだ。だから『人格と社交性に優れた高学歴の人物』を想像できないし『泥臭い人付き合いや地道な交渉を難なくこなすお金持ちのおぼっちゃま』も架空の存在だと思っている。


 自分が有利になる判断基準を備えることで、傷ついた自尊心を守るわけだ。たとえ無学でブルーカラーだろうと、それらを補うように人情や世間話が得意なんだと。


 だが尾長の両親が優れた人格と社交性を持った人物なのかといわれたら、そうでもない。口を開けば他人の悪口とゴシップの話題ばかり。情報源はすべてテレビのワイドショーとスマホで見る文字が流れる動画だ。記事やデータなんて読まないというより難しくて読めなかった。


 そんな泥にまみれきった両親と、尾長は珍しく目があった。


「駆、足治ったか?」


 父親は、強張った顔でたずねた。これが父親の難しいところだった。他人の悪口とゴシップが好きでも、息子の将来を本気で心配していた。膝を怪我した日なんて感情を露わにして大泣きした。


 そう、彼は悪い人間ではないのだ。ただ息子が自分の望んだように育ってくれなかったことを嘆いているだけで。


「無理をしなければ、痛くならないさ」


 尾長も務めて平静に返した。一か月ぶりの会話だった。


「そうか、無理はするなよ。痛いのはつらいもんな。ところでお前、大学進学したいのか?」


 どうやら怪我の話題は前置きで、進路の話題が本当に聞きたかったことらしい。だが尾長と両親の間で、何度も繰り返した不毛な話題だった。論点や争点は移り変わっても、結論は毎回同じだった。


「そんなお金、うちにあったのかい?」


 尾長は乾いた瞳で返した。


 いつもなら、父親は目をそらすはずだった。しかし今回は、ちらっと横目で尾長を見つめ返した。


「……高校進学のときみたいに、特待生とか、そういうの使ってさ」


 父親の意外な意見に、尾長は驚いてしまった。お金が用意できるかどうかはともかく、今回の父親は大学進学そのものを否定しなかったからだ。


「いつのまに考え方が変わったんだ?」


「今まで大学進学に反対してたの、お金がないから無駄に希望を抱かせないためだったんだよ。うちみたいな貧乏まっしぐらじゃ、大学の学費なんて払えねぇ。だがもし金の問題がどうにかできるならよ、反対はしねぇんだ」


 そういう意味だったのか、と尾長は納得した。


 もし中途半端に希望を抱けば、夢が叶わなかったときの落胆が大きすぎる。前例はあるわけだ。尾長は膝を怪我したことによって、一度すべての希望を失った。そのときの落ち込みっぷりを、両親はすぐ近くで見ていたわけだ。


 つまり両親には両親の気遣いがあったわけだ。


 それを知った尾長は、まるで心に重苦しい泥が満ちた気分になった。ただの泥ではない、生活の泥だ。


 もしeスポーツと出会う前に、こんな足腰の動きを奪う泥に浸ってしまったら、きっと尾長は人生の道を踏み外したんだろう。


 だが尾長は、eスポーツに関わる第二の人生が決まっていた。


「実をいうと、もう就職先は決まってる」


「え? 本当か? どこだ?」


「株式会社ICG。eスポーツ関連の大会を運営する会社で、小生がいくつもの大会に出場するうちに社長さんと親しくなってね。そのまま就職が決まったのさ。もう休日にはアルバイトとして働いていて、高校卒業後、そのまま正社員になる」


 日本国内の大会運営では大手の会社だ。といっても日本のeスポーツ市場は規模が大きいわけではないので、一般的な中小企業への就職だと思えばいい。もちろん今後市場規模が巨大化すれば、大企業に成長する可能性はある。


 なんにせよ、現在の尾長にとって、夢、希望、能力、すべてに適した職業であった。


「なんてこった。部活動が仕事につながったか。お前たいしたもんだな」


 父親は、珍しく息子をべた褒めした。おそらく学歴による就職ではなく、人脈を伝った就職だからだろう。

 

 だから尾長は、素直に喜んでいいのかわからなかった。しかし親子の溝は少しでも狭まったみたいなので、いちいち文句はいわなかった。


 もうすぐ親子の会話が終わろうというとき、ずっと黙っていた母親が口を開いた。


「なぁ駆。わたしにも、とーちゃんにも、お前がなにをやってるのかまったく理解してやれない。ただ申し訳なかったとだけ思ってるよ。望んだものはなにも与えてやれなかったからね」


 どう答えたら正解なのか、尾長にはわからなかった。だから無難なことだけ伝えた。


「eスポーツに出会えたし、【MRAF】にも出会えた。それで膝を怪我してからの人生を切り開けたから、もう満足さ」


 父親も母親も、ほっとした顔になった。どうやら彼らは息子に罪悪感を感じていたらしい。だが息子の就職が決まったうえに、大学進学の費用を出せないことを恨まれていないと知って、安心したんだろ。


 尾長一家は、不器用な親子関係であった。同じ家で暮らしているはずなのに、まるで社会階層の違う人間たちが同居したかのように価値観が違っていた。


 その結果、親も子も気を使いすぎて、会話が減ってしまうのである。


 だがそれも今年で終わりだ。尾長は、就職後の住居について両親に伝えた。


「高校を卒業して就職したら、この家を出る」


 尾長は、すでに一人暮らしの可能なアパートを見つけていた。


「……なんだか寂しくなるな」


 父親は、ほっとしたような、悲しいような、複雑な顔をしていた。


「夏とお正月には帰るさ」


 尾長は遠回しに気持ちを伝えた。夏とお正月みたいな時節の変わり目になったら、実家に顔を出す。つまり両親を見放したわけではないという意味だった。


「ありがとう、悪かった、こんな親で本当に……」


 父親は、不器用な角度で頭を下げた。彼の瞳から、一滴だけ涙が垂れた。


 その隣で母親もハンカチで口元を抑えて、ずっと息子に謝っていた。


 尾長は、柄にもなくジーンとしてしまった。だが泣くつもりにはなれず、一言だけ返した。


「こちらこそ、育ててくれてありがとう」


 尾長は自分の部屋に戻ると、明日の重里高校戦に備えて、反省点のテキストメモを読み返すことにした。


 ● ● ● ● ● ●


 重里高校eスポーツ部も、東源高校対策をきちんと練習して、放課後を迎えた。


 重里の部長である西岡は、自分たちの完成度に満足していた。三年間一緒にがんばった仲間たちとの連携プレイは、以前の自分たちにはやれないほどの美しさがあった。


 あとは明日にすべてをぶつけるだけだ。親友である尾長が率いる東源高校を相手に。


 明日の試合が楽しみでありながら、それでいて緊張感もあるという複雑な気持ちを表したかのように、西岡が帰宅する足取りはタップダンスみたいだった。


 だが部活動のことだけではなく、進路の話だって大事だ。


 西岡は、自宅に帰るなり、田舎の祖父と電話した。


『鈴成、畑を継いでくれて、ありがとうな』


 祖父のしゃがれた声は、男児のようにはしゃいでいた。まさか孫が農家を継いでくれるとは思っていなかったからである。


「オレも土をいじるのが好きだから」


 西岡は、明るい太陽みたいに答えた。子供のころから、自宅より祖父宅のほうが好きだった。父親のことが嫌いなうえに、農作業が楽しくてしょうがなかったからだ。


『だがなぁ、大学いって、野球をもう一度やりたかったんじゃないのかい?』


「いや、もしやるならeスポーツさ。今は野球より、【MRAF】っていうゲームが好きなんだ」


『いーすぽーつかい。おじいちゃんには難しくてねぇ。野球ならわかるんだが』


 祖父は野球のテレビ中継をよく見ていた。


「もしかしたら、食わず嫌いかもしれないよ。野球だって本当はルールが難しいんだ。でも生活の一部になってるから自然と覚えただけで」


『この年になるとなぁ、新しいことを覚えるのが大変なんだよ。若いうちはいいよなぁ。なんだって頭の中に入ってくるから』


「そうかもしれない。うん、たぶんそういうことなんだと思う」


『ういうい。わかった。とにかく、農家に不満がないなら、部屋を一つ空けておくから。ゆっくり準備してから、こっちにきなさい』


「うん、それじゃあ、卒業したら、すぐにそっちに引っ越すから。また電話する」


 電話を終わらせると、西岡は自室に戻った。もうすでに引っ越しに備えた整理整頓を開始していた。まだ卒業は先の話だが、第二の人生を歩み始めるんだから、早めに手を付けておいたほうがいいだろう。


 がさごそと荷物を動かしていると、西岡の父親が顔を出した。


「鈴成、野球の道具、捨てるのか?」


 西岡の父親も野球部出身だった。ただし中学生までだ。高校生からは勉強ばかりしていて、運動部を心の底から見下していた。


 そんな父親が、西岡は嫌いだった。


「高校に入ってからは、使ってないからな」


 重里高校の野球部はあってないようなものだった。その原因は、西岡が入学する二年前に発生した不祥事だった。


 万引き、たばこ、他にもよくある悪事が積み重なって、一年間の公式大会出場禁止の処分が下された。


 とくに名門というわけでもない学校で出場停止なんて事態になれば、部員数は激減して、いつしか無人になった。しかもイメージが悪化したまま放置されたから、たとえ出場禁止処分から明けても、誰も入部しなかった。


 もし野球部なんて入ったら就職に響くからやめておけ。それが重里高校野球部の評判であった。


 だから西岡が入学したとき、野球部は存在しているものの、完全な無人の空き部屋になっていた。


 西岡にとって、生まれて初めての挫折である。それもよくわからない挫折だった。あれほど野球が好きだったのに、たった一つの曖昧な結末に遭遇したことにより、なぜか野球から遠ざかりたくなった。


 だから西岡と同じく『野球部に入るつもりだったのに、なぜか無人の空き部屋だった』に遭遇した仲間たちと一緒にeスポーツ部を立ち上げた。


 この判断は大正解だった。最高に楽しい三年間だった。


 自宅で父親と顔を合わせるとき以外は。


「鈴成、なんで田舎の農家なんて継ぐんだ?」


 父親は、息子が農家を継ぐことに反対だった。そのせいで一度ケンカしていた。なのにまだ諦めていないのである。


「いいところの学校を出た堅物の父さんにはわからないだろ。農作業のおもしろさは」


 西岡は、土汚れの染み付いた軍手を父親に投げつけた。


「なにがカタブツだ。農家を継ぐ発想のほうが硬くて古いだろ」


 父親は、土汚れの染み付いた軍手を、ゴミ箱に捨てようとした。


 だから西岡は、軍手を奪い返すと、引っ越し用の荷物の中にしまった。


「父さんは東京の傲慢に馴染みすぎたんだよ。誰もがスーツを着てサラリーマンをやると思ってる。農家みたいな生活に必要な第一産業なんて視界に入ってないんだ。オレ、父さんのそういうところ本当に嫌いだよ」


 西岡は、父親を部屋から追い出した。がちりと扉の鍵も閉める。音楽をかけて音もシャットアウトした。


 ふーっと息をつく。せっかく田舎の祖父と話して上機嫌になっていたのに、あんな東京が世界の中心だと勘違いしたバカと話したせいで気分が悪くなってしまった。


 だから西岡は、親友と話してリラックスすることにした。スマートフォンを取り出すと、SNSで尾長にメッセージを打った。


『明日、楽しみだな』


 尾長はまだ起きているらしく、すぐ返事がきた。


『ああ。実はちょっと緊張しているんだ』


 友達のなにげない返信が、西岡のささくれ立った心を癒した。


『オレもだ。落ち着いたほうがいいってわかってるんだが、どうにもな』


『中学高校あわせて六年間、あっという間だった。光陰矢の如しだ』


 難しい言葉を聞いたら、西岡は父親の顔を思い出してしまった。おそらく難しい言葉=高学歴みたいな先入観があるんだろう。だが尾長に罪はないから、なにか気の利いた言い回しで返事をしようと思った。


 その前に尾長が追加でメッセージを送った。


『イヤなことでもあったか、西岡くん』


 尾長は賢いだけではなく鋭い男である。だからバスケ部時代は全国の準決勝まで進んだし、桐岡俊介を綺麗に育成した。


 そんな男の前では、西岡の苦悩なんて丸裸であった。


『いや、いいんだ。尾長に比べたら、オレなんて幸せ者なんだよ。良い暮らしはしてるし、就職先は田舎のじーちゃん家だ』


『小生は、前に進むだけだ。自分のやれる仕事で【MRAF】を盛り上げていく』


 尾長の就職先が【MRAF】の大会を運営する会社であることを、西岡は知っていた。とても彼らしい就職先だと思っていた。


 東源高校は、趣味や志を基準にして就職先を選ぶことが多い。尾長の友人であるドムこと土間宗男も模型を通じてガンプラの会社に就職していた。


 とてもすばらしいことであった。


『がんばろうぜ、明日の試合も、将来の仕事も』


 西岡は、自分自身を奮い立たせるためにも、尾長を応援した。


『ああ、おやすみ、西岡くん』


『おやすみ、尾長』


 西岡は、電気を消すと、さっさと布団に入った。まだ春先の冷たい空気が残っているため夜間は冷える。しかし尾長のおかげで心の中は温かくなっていた。

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