門番
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手紙
門番
わたくしの夜にあなたが越して来て、いったい誰が困るというのでしょう。あなたはやはり今更そんな悪い冗談を言うひとなのですが、わたしはいつでもあなたの為に門を開け、猫が忍び込まないよう新しい門番まで雇ったのですから、困る道理はとても無くて、むしろあなたが越してきてくださらないと誰の為の門番でしょうか。まあそうはいっても、あなたの猫を見たわたくしの門番は何度かわたくしのためを思ってわざと猫のあのしなやかな背中を見逃しているようなのです。ですからわたくしはたまに庭をそろりそろりと歩く彼らをみて、あっと声をあげ腰を抜かすこの頃なのですよ。いえしかしながら、あなたが越してこないからといって、このよくわからない門番に、明後日の夜にも来年の明後日の夜にも彼は越してこないのだから猫など入れるのではありません、と苛立ったりはしませんが、それはそのとき門番を雇ったことが無意味で残念に思うわたくしではないわけですから、あなたはわたくしの夜に越してきても構いませんし、越してこない時もわたくしは門番とわたくしの為の猫を撫でて暮らしますから、あなたは何もわたくしに申し訳ないと思うことなどないということは、どうぞ勘違いなされぬようお願いしたいのです。それでも門番はあなたの為の門番であることに変わりなく、わたくしの為の門番ではありません。それが今のわたくしの文字が語るわたくしです。そうはいっても、わたくしは門番のお節介な猫を見るたび、あなたが越してきたのではないかと脈が早まるのを感じるのです。それは一種の患いだとあなたが笑えばそうでしょうが、わたくしはほんとうにそうは思っていません。それは植木職人が木を植えるから植木職人なのではなく、植えた木に彼の熱が埋まっていることから植木職人と名付けたあの日のあなたの思考と似ているはずです、などと独り言を言うと、門番は小さな声でくすくすと笑います。あなたや好奇心旺盛なわたくしの郵便配達人兼門番がこの手紙を盗み見て、この意地悪な文章をそうとみなすかはわかりませんが、わたくしはどうしても特別な気持ちを伝えるつもりでこう記しています。文字がそう思っていなくても、わたくしがそうといったらそうなのです。それが文字というもので、そうでないと考えるひともいますが、その考えさえ文字によって語られてしまうのは、詰まるところわたくしたちは文字にそそのかされてこの文字を編んでいると考えることもでき、この思考は堂々巡りで、最後まで編むとしたらあなたへのこの便箋の残り枚数もいつまでも大きくなってゆく数でなければないことをわたくしはよくわかっていますし、わたくしはあなたのよく知る言葉であなたのよく知らないことを語っていることもよくわかっていますので、あなたはちんぷんかんぷんな思考でこの段落をよみ進めていることでしょうね。あなたはわからなくても、わかろうとしなくてもよく、なんならこの手紙を読まずに捨ててしまってもわたくしは全く構わないのですが、注意書きは初めの段落に書くものだとわたくしの中では決まっていて、それでもしかしこの言葉をずいぶんと初めではない正真正銘にひとつ目の段落に書くことは、わたくしの文字を嫌いながらも、許されるまでは意地でこの手紙を読み続けるであろうあなたへのちょっとした意地悪です。
わたくしがこの文字たちにわざと馬鹿のように振る舞わせているのは間違いですが、ある意味では間違いではありません。目的を纏った間違いは間違いではなく、あなたを思う気持ちが遠回りに呼鈴を鳴らしているだけなのです。いまのわたくしはあなたに気取った頭の良い女だと思われたくないという気持ちを認め始めています。わたくしが間違い続ける訳にあなたはいつまでも気付かないでしょうが、気付かないあなたのままでいてほしいいまのわたくしはあなたにそれを求めません。さてわたくしはそろそろあなたが読むのをやめたと思い、好き勝手に書くことにしました。
初めの方、わたくしはひどい勘違いをしていて、これを名目上のあなたへの手紙に書くのは気が引けるのですが、よし書いてしまおうと思うのは、この雪色の便箋はあなたのためにあって、残り少なく、全てをあなたの為に使って役目を終えさせたいと思っているからです。その恥ずかしいむかしのわたくしというのは、わたくしがあなたのようなひとになったときわたくしの夜をあなたが覗きにくるものだとばかり思っていましたが、わたくしがあなたに似ていくほど、あなたはわたくしの斜め後ろを見つめているように話すものですから、わたくしは不意に悲しくなって、門番にやつあたりをしてしまい、門番は門の鍵を一度閉めてみたらどうかなどと言いますから、それもそうだと思い、その通りにしてみたのですが、それは門番が職を失うことを意味するのですから、門番はきっとわたくしがもう一度鍵を開けたいとのたまうことをわかっていたのでしょうね。門を閉めた雨の間は、門番と友人のように暮らしてみましたが、門番が昔誘い込んだ猫が見えるたび、あなたへ続く風が手入れの怠った間抜けな植木を揺らすのが嫌でもわかるのでした。わたくしはむかしのひどく利己的なわたくしを追放しましたが、それはそんなつもりにわたくしが勝手になっているだけで、門番曰くたまにそのむかしのわたくしが尋ねてくるそうなのですが、そう言いつけていないのにも関わらず、門番はむかしのわたくしを追い返しているのだそうです。ひどく自分勝手な門番ですが、わたくしは今のこの門番を今までのどの門番よりも気に入っています。むかしのわたくしにすればなんと癪に障る門番でしょう。それが門番というものですよ、とわたくしは勝ち誇っています。
事が起きたのは1時過ぎでした。それはわたしがこの手紙を書いている原因のうち多くを占めていて、ごく最近のことでもあり、ごく昔のことでもありますが、わたくしはその夜中がどの夜だったのかは覚えていません。それが重要な意味を持たないからですが、それでは時間を覚えていることの言い訳はどうしましょうと考えても、適当な説明が思いつかないので考えるのをやめてしまいました。やはりむかしのわたくしのあなたを真似るくせがどうも引き継がれているように思います。さらにむかしのわたくしは全ての言い訳などを求めませんでしたし、考えようともしませんでしたから。
わたくしが今日の手続きをすべて終えて、さてそろそろ寝ようかと考えていた時、珍しく来訪を告げる知らせの電話がありました。むかしのわたくしと名乗るあなたがあとのわたくしと名乗るあなたを連れてきていますので、お通ししました、と門番は言うので、ふうんやはり勝手な門番だとわたくしは思ったのですが、お気に入りの門番ですから、そう、とだけいって電話を切りました。あとのわたくしはずいぶんと要領が悪く、話すのは骨が折れました。それはやはり、その後ろで申し訳なさそうにしているむかしのわたくしはよく知っていましたが、あとのわたくしのことはこれっぽちも知らないからです。その夜わたくしはあとのわたくしの必死の訴えを夜通し聞き続けました。何を言いたいのかは最後まで掴めませんでしたが、いまのわたくしよりは、ずいぶん明るい顔をして笑うわたくしなのでした。わたくしは随分と長い間考え続けました、いえ、短い時間だったのかは門番だけが知るのであって、門番は長かったと主張していますが、本当のところはよくわかりません。きっと長い間、わたくしは考え続けたのです。
わたくしは明日むかしのわたくしになることを決めました。門番にそう告げると、門番は初めて、わたくしのための門を開けるといいました。これは門番ができる最も大変なことなので、そうです、わたくしはそこで改めてとんでもない決断をしたことを理解しました。わたくしに残された時間はこの便箋と、次の便箋までです。わたくしはあなたから消え去るのがこわい。わたくしはそのことを伝えたいのか伝えたくないのか分からなかったので、あなたが読まないこの段落を最後にしたのです。わたくしは意気地無しですから、迷っています。わたくしはあなたにわたくしの気持ちの一切を押し付けない為に生まれてきたようなものなのに、最後にこんな我儘を言うとは、わたくしはやはり中途半端な人間であるということは、わたくしが一番よくわかっていますよ。しかしながらそんなわたくしがあなたを戸惑わせ、苦しめているであろうことには薄々気づいていたのでしたから、みらいのわたくしがあの夜尋ねてきたのです。それはわたくしの存在意義とやはり大きく矛盾していることをわたくしに意味したのでした。夜が来ます。仕方ないのです、もう、それでは、わたくしはここにいられません。わたくしにはもう余白がありません。わたくしがいた理由をあなたに伝えることはわたくしに許されていますか。許されてください。そんな傲慢なわたくしを許さないで。最後の最後に台無しにしてしまいますね。わたくしは中途半端な人間です。しかしわたくしの全てはわたくしが今まで送ってきた手紙に書きました。とはいえあなたには理解できない。あなたが許されますように、わたくしが許されますように。忘れないで。あなたがこの手紙をまさか最後まで読みませんように。もうわたくしにできることはありません。だから、許されますように。わたくしはもう何かを保てていない。それでもわたくしはわたくしの意味を文字にしたいのです。わたくしはまだ迷っています。でも、はわたくしの口癖でした。気付かなくてもいいよ。門番がわたくしを呼んでいます。わたくしはあなたをいつでも許しています。わたくしは行きます。気付いて。気付かないで。わたくしは迷っています。そうです。夜です。さようなら。さようなら。さようなら。空が澄んでいます
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