第68話



 そうして、陽陵ひりょう様が自ら妃の位を返上した夜。

 沙耶は新しいみやで、寝台に寝転んでいた。


 女官のいない底辺妃だ。そばに寄ってきた一縷の毛並みを撫でながら、一人、明かり取りの窓からのぞく、高く上がった月をぼんやりと眺めていた。


「……思えば、寝場所が変わったのって、ここに来て以来はじめてだなー……」


 最初に陛下に出会って後宮のみやを与えられてから、5年間ずっとその天井を眺めていたのだ。改めて考えると、ずいぶん感傷的な気分になる。


「なんか……変な感じ」


 この5年、色々あった。その上で今の自分がいる。

 戻りたい、という当たり前の希望すらいつの間にか消え去り、今の沙耶にとってはこの世界こそが現実だ。


 戸部の中で必要とされ、必要とされる場所に貢献したい。……なのに。


「いつまで謹慎なんだよー。陛下のばかやろー……」

「――誰が馬鹿だって?」


(は…………?)


 突然聞こえた声に、一瞬幻聴を疑った。……のだが、


「暇そうだな。踏青とうせいはそろそろ目の下にクマが出来てるぞ」


 ガタリ、と奥の棚の背面が動いたかと思えば、薄い板がひょいと外れ、中から黒髪の美丈夫が姿を現したのだ。

 寝台の上で身を起こしたまま、唖然と口を開く沙耶に、陛下は悪戯っ子のように笑った。


「はははっ、さすがのお前も驚いたか」

「……お、驚いたってもんじゃないですよっ、何してんですか貴方はっ!!」

「あぁ、ちゃんと獣も一緒か。良いことだ」


 勝手にずかずかと入り込んで来た陛下は、寝台に歩み寄ると、気負うことなく一縷の背を撫でた。


「綺麗な毛並みだ」


 そう言って、信頼感がないと出来ないだろう、ガシガシとした手つきで一縷とのコミュニケーションを取る陛下。

 当の一縷も、常であれば誰かが現れればすぐに察して身を固くする筈なのに、リラックスして寝台に寝たままだ。


「……なんだ、何を驚いている?」

「いえ……一縷を撫でた人は、陛下が初めてです……」


 そう、誰もが恐れ戦いて逃げる魔獣なのだ。しかもこの人は、大型犬じゃなく確かに魔獣だと知っていて、こんな態度を取っているのである。その剛胆ぶりに呆れ返る。


「お前に懐いているんだ、大丈夫だろう?」

「それは……そうですけど。…………そんな危機意識でこの国、大丈夫なんですか?」

「…………お前にはもう少し反省しておいてもらおうかな……?」

「あああああああ嘘です嘘です、一縷も喜んでますー。早くここから出してーーー」


 一気にいつものテンションに戻った掛け合いに、冗談交じりに笑いながら寝台の端に座る。すると陛下も隣に座り、その後ろに一縷が身体を横たえた。

 一応ここ、女の子の寝台なんですけど……なんて機微を求めても無駄だろう。後宮という敷地は全て、この男ひとりの為に整えられているのだから。


 案の定、座り心地を確かめるように何度か寝台を軋ませた陛下は、それから子供のようにニヤリと笑った。


「そんなに出たいなら仕方ない。……後宮の方も、ケリがついたようだしな」


 後半のスルーし難い発言に、少しの間を置いて合点がいった沙耶。この男は、陽陵ひりょう様の対処に苦慮して沙耶任せにしていたのだ。

 なんて奴だ、と我慢することなくため息を漏らす。


「……ご自分で采配すればすぐだったでしょうに……」

「俺はここには関わらないと決めている」


 しれっと言い放った男に、一瞬殺意を覚えたのは言うまでもない。

 妃の処遇なんぞ自分でやれ、自分で! と叫びたいのを堪えて、ぽっかりと穴が空いた先に空洞の見える、部屋の片隅を指差した。もう終わったことはいいのだ。問題はあの大きな穴の方なのである。


「関わらないと言いながらも、この部屋の、あの抜け道は何なんですか? 夜這い用ですか?」

「っ、よば……っ、ち、違うぞ! 俺はお前が今後、出仕しやすいように、だなぁ……!」

「え! この道、尚書省に繋がってるんですか!?」


 陛下の言葉に、鬱屈した心境も吹き飛んで空洞に駆け寄った。地下に続いていく道の先は暗くて見えない。


「いや、この先は官舎の近くの空き部屋だ。何かあった時に使われる、抜け道のうちの一つだが……」


 隣に歩み寄って来た陛下が、穏やかな眼差しで沙耶を見つめた。


「お前は大事な……臣下だからな。踏青とうせいの信頼も篤い」


 途中一箇所、言い難そうに言葉を詰めた陛下の切ないような表情に、何故か胸を締め付けられた気がしたが、なんとなく、しっかりと向き合っちゃいけない感情な気がして、沙耶は小さく続きを促した。


「…………では?」

「明日から、この道で出仕すればいい。……くがの娘の自白で、あの抜け道は極秘裏に塞がれる予定だからな」

「……っぁ、ありがとうございますっ」


 陛下からの出仕許可に、素直に笑顔がこぼれた。

 謹慎処分なのかもしれない、やはり女だと分かって除名処分になるかもしれない、と不安だったのだ。


「……現金なやつだ。そんなに戸部が好きなのか……?」

「やっぱりやりがいのある仕事って良いですよ! 明日から張り切って出仕しますので、よろしくお願いしますっ」




***



 ……という。長いながーい経緯があって、沙耶は今日、ようやく出仕できたのだ。


 戸部の戸を開けば死屍累々。笑顔で限界突破している絶対零度の戸部尚書によって、ゾンビ化した官吏たちが悲壮な顔で書類に向かっていたのだから、沙耶だって鬼気迫る勢いで書類を捌いて詫びるしかない。


 そして、こんなクソ忙しいタイミングで、陛下がいつものように、ひと休憩として顔を出して来たのだから、邪険に扱うぐらいは許してほしいというものだ。


「戸部侍郎、吏部と折衝してまいりますので、離席します」

「はい、頑張って」

「中書省の定例で3人出ます」

「はい、変な法令を策定させないよう」

「戸部侍郎、工部侍郎がお見えです……」

「わかりました。今から貴方は仮眠に行ってください。うたた寝していたのでしょう、顔じゅう墨だらけですよ」


 なるべく早く戸部を正常化させる為にも、無理そうな人間はさっさと休ませるに限る。ホッとしたような彼が眠そうに自席へと戻る姿を確認してから扉を見れば、


「やぁ、戸部侍郎。今日も綺麗だね」




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る