獣害調査をはじめます

第11話


 その日の午後、沙耶は尚書省の大門前にいた。


「――戸部侍郎。本当にお一人で大丈夫ですか?」


 心配そうに見つめるのは、馬寮めりょうの武官の1人だ。

 警備用の槍を片手に、沙耶が頼んだ馬車の最終確認をしてくれている。


「はい、問題ありません。少し城下の問屋へ話を聞きに行くだけですから」

「しかしそんなご軽装では、何かあった時に……」

「いいえ、官吏の姿で話を聞きに行けば、周りに変な噂が立つかもしれません。店に迷惑がかかるといけませんから……」


 涼しい顔で返答する沙耶は、淡い色合いの衣に外套を羽織った、平均的な庶民男性の装いをしていた。

 勿論、黒髪は布で隠し、緩やかに編んだ一本の金髪だけを、片方の胸に垂らしている。


「はぁー……民衆の生活を考えてらっしゃるのですね。さすが戸部侍郎です」

「官吏ならば誰もがそうですよ。……で、もう乗っても良いのですか?」


 目の前には、立派な馬車が一台、御者が乗り込んでいて、もう出発を待つばかりになっていた。


 すぐに、馬具の調整をしていたもう1人の武官が寄ってきて敬礼する。


「はいっ、お待たせいたしました! ……おい御者っ、くれぐれも安全運転でな!」

「勿論でございやす」


 御者に言い含めながらも、エスコートするように扉を開いて待ってくれている武官。


 沙耶は、そんな武官に小さく頭を下げてから、馬車へと乗り込んだ。


 座席に深く腰を掛ける。

 厚いクッションの上に、皮がピンと張られているおかげで、とても座り心地が良い。内装も細かな装飾がされていて、一般的な馬車と比べ、だいぶ上等だ。


 陛下から聞いた話について、報告書を見るだけよりは、実際に出向いて確かめたいと思ったのだ……が、時間が無いからと、部下に馬車の手配を頼んでおいたら仰々しくなりすぎてしまったらしい。


(……歩いて行けば良かったかな……いや、でもさすがに夕暮れを過ぎるのは危ないし……)


 せっかく目立たない服に着替えたというのに、こんな馬車で乗り付けたら本末転倒だ……なんて考えていると、再び会話が聞こえてきた。


「御者、帰りまで必ず待機するんだぞ。半金は戻ってきた時に払うから」

「それは構いやせんが……長くかかるなら、この半金じゃあ足りやせんぜ……」

「なんだと? 城下の大通りまでを往復するということで、ちゃんと台帳に申し送りが――」


 台帳を片手に、ガリガリと頭を掻く武官と、不服そうに顔を顰める御者。


「あっしは文字なんて読めねぇっす。とにかく、待ち時間があるのならその分も頂きやせんと」

「いや、だから待ち時間は入れてあってだなぁ……確かこの数字がそれだから……」

「えぇぇっ、そんな……あれぽっちじゃあ、街で流しの客待ちをした方が儲かりやすよ……」

「そんなにか? ……ふぅむ、ちょっと待て」


 武官は、情けない声をあげた御者を制し、もう1人の武官と共に台帳を繰り始めた。眉間に皺を寄せ、唸りながら台帳を見つめているが、しかし、お互いが相手頼りにしていて、お手上げ状態というのが丸見えだった。


 というのも、この世界の識字率は、非常に低い。

 多くの人々は、農業や肉体労働によって生活しているため、文字を読む必要が無いのだ。

 物を売り買いするための簡単な計算さえ出来れば、十分に生きていけるし、辺境の田舎にもなると通貨など役に立たず、物々交換が主流だったりもするぐらいである。


 だから、こんな場合に困るのだ。


 文官が記入した台帳には、書面での契約内容が書いてあっても、御者には読めない。そして武官も、ある程度の数字は読めたところで、代金の暗算なんて出来ないのだ。


 成り行きを静観していた沙耶は、少し悩んだ末に、差し出がましいのを承知で手を上げた。


「――武官。私が見ましょう」


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る