第3話
早朝。
簡素ながらも身支度を整え、自室を後にした紗耶の目的地は、中庭から渡り廊下を渡った奥にある、離れの小屋だった。
後宮を管理するための様々な用具が収納されている、いわば『倉庫』。
なぜそんな部屋に用があるのかというと、実は仕事場である各省の建屋に繋がる、抜け穴があるのだ。
自室でサラシを巻き、髪を整え、官服を着込んでから、女性用の上衣を羽織る。そして倉庫で上衣を脱ぎ官帽を整えてから、何食わぬ顔で抜け道を通る……。
それが、後宮を脱走する沙耶の、毎朝の一連の流れになっていた。
(さぁ、今日はどの仕事から進めようかな……門下省から出てきた新しい法案にも目を通したいし…………って、あれ?)
俯きがちに走っていた紗耶の視界に、渡り廊下を転がる小さな耳飾りが見えた。
美しく磨かれた乳白色の玉が、コロコロと床板を横切っていく……。
(あー……中庭の草むらに落ちちゃうな……)
深く考えずに、数歩追いかけ、拾い上げた。
落とし主の事なんて全く意識してなくて、ただ、拾ってあげようという善意……だったのだが、
「――無礼なっ!!!」
甲高い声音が耳をつんざいた。
驚きに肩を震わせ、慌てて顔を上げる。
「……
「っ断りもなく蘭月様の前を横切るなど、なんたる非礼……っ!」
「お前が拾ったものは、蘭月様のお耳飾り。庶民が軽々しく触れて良いものでは無くてよ!」
正面に立っていたのは、ひときわ豪奢な装いをした、紛れもなく美姫だった。
大きなヘイゼルの瞳と、長い睫毛、濃い焦げ茶色の髪は高く結い上げられ、複雑に編み込んだ中には何個もの宝石が散りばめられている。
その表情は澄ましたままで、真っ直ぐに紗耶に注がれていた。
一言も発していないのに、その存在感は雄弁で、後方から憤怒の声を上げている何人もの取り巻きとは、明らかに格が違う。
「何を惚けているのです! さっさとそれを渡して下がりなさいっ!」
「ぁ、申し訳ありません……」
荒々しく前に出てきた化粧の濃い女が、怒りのままに紗耶に手を突き出し、耳飾りを要求する。
その迫力に気圧された紗耶は、素直に従って手渡すと、頭を下げて脇に避けた。
謝ったうえで道をあけたのだから、そのまま通り過ぎて欲しいなぁ……なんて思ったのだが、
「娘。わざとじゃないにしても、次はありませんよ」
「蘭月様はお前などとは違い、いつ陛下の御渡りがあっても良いよう、御身を清めに行かれるのです」
「それを醜い嫉妬心で邪魔立てしようなんて――」
蘭月様の後ろに並ぶ女達が、口々に非難の声を上げる。
自分たちだって後宮の妃……つまりは、陛下の渡りがある可能性だってあるだろうに、まるで忠誠を誓った主人に対するような態度だ。
というのも、この後宮の事実上のトップが、目の前に立つ蘭月様なのだ。
特別な理由なく外に出ることの許されない『後宮』という閉鎖空間において、『四夫人』という、現状の妃の中の最上位に君臨し、その中でも家柄・美貌ともに文句ない美姫。……そりゃあ派閥にもなるわ。
諦めて再度深々と頭を下げる。
「他意なんて、滅相もございません。目の前に転がってきたのを拾っただけで……」
「拾ってどうするつもりだったのやら……ねぇ?」
「そもそも、そんな
ふふふっ、と嘲るように笑う女達の言葉に、胸元に垂れる自身の金髪にチラリと目をやった。
今の紗耶は、フード……というかターバンやヒジャブのごとく、頭に布を巻いているのだが、肩下からは緩く編んだ金髪を見せていた。
脱色し、傷んだまま伸ばし続けられている、本当に残念な髪……。
紗耶だって、切れるものなら切りたい。
けれど、黒髪が禁色のこの世界で、地毛を見せるなんて自殺行為だ。
「何たって陛下は、黒髪黒目という最上の貴色を纏っておられる『日輪の君』……。必ずや安寧なる治世を民に与えることでしょう」
「そんな陛下のお側に、お前みたいな色の薄い娘なんて……晒し者にも程がありますわねぇ」
「うふふっ、その点、わたくし達貴族は栗色。中でも蘭月様は、後宮内で最も濃い茶色なのです。御二人が並ばれれば、どれほど壮麗なことでしょう……」
うっとりと蘭月様の髪を眺める女達。
金髪碧眼が主流のこの世界では、何故か『髪と目の色は濃ければ濃いほど良い』とされている。
特に髪色は、身分と同等のステータスなのだ。
だから貴族女性の殆どは、肌だけではなく、髪が焼けてしまわないよう、外出時に日傘を欠かすことはない。紫外線という概念は無いが、日光によって僅かでも髪色が明るくなってしまうことを知っているのだ。
とはいえ、
(そんな栗毛で濃い色だって? こちとら地毛は真っ黒ですけどね)
だからこそ、都合よく脱色していたこの髪を、切ることは出来ないのだ。
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