第1話



「――で、この髪はどうしたんだ?」


 そう言って沙耶の湿った金髪をひと房掴んだのは、黒髪を高く結い上げた20代中頃の美丈夫だった。


 端正な顔立ちの切れ長の瞳は、思慮深い黒色をし、黒に金で縁取りされた官服は、光の反射でわかる程度の緻密な刺繍が縫い込められている。ふんわりと香る品の良い香は、服に薫きしめられたものだろう。……一目でわかる、身分の高い装いだ。

 しかしそんな高貴な雰囲気をまるで見せないこの男は、沙耶の隣に気軽に椅子を寄せ、尊大に長い足を組んでいた。


「……あぁ、まぁ……ちょっとしたハプニングで……」


 山のように積まれた未読書類を端から整理していた沙耶は、勝手に椅子を持ってきて、勝手に隣を陣取った男をチラリと見つめ、すぐに手元へと視線を戻した。


 ここは何個もの長机が並んだ、戸部こぶの執務室だ。

 官服に身を包んだ沙耶は、長官である戸部尚書しょうしょの隣席を許された次官席で、戸部侍郎じろうとしての官職をたまわっていた。たった5年で抜擢されるなんて異例中の異例らしいが、そもそも高校は商業高校で、簿記も計算も書類関係の処理も得意だったから、今の所とても快適に仕事をさせてもらっている。


 現在、執務時間中ということで、沙耶を含め数人の官吏が、机の上に広げた書類と格闘していた。


 尚書省の中でも、戸部は慢性的に人手が足りず、常に効率との戦いを余儀なくされている部署である。忙しいので無駄話をする気は無い、と言外に匂わせたつもりだったのだが、男はそれを汲み取ることなく、深い色をした瞳で怪訝そうに沙耶を覗き込んだ。


「ふーん……朝から行水でもしてきたのか? まだ濡れてるぞ……にしては苔臭いな……」

「っ人の髪の匂いを嗅がないでください」


 胸元に垂れた金髪に鼻を寄せる男に、慌てて身体を仰け反らせる。


(ちょ……危ない危ないっ、あんまり近づかれると、バレる……)


 冷静に、怒ったふりをしながら、官服の胸元を正す。

 サラシできつく押しつぶしているとはいえ、万が一にも、胸の膨らみに気付かれたら終わりなのだ。


 そう。

 沙耶は今、この部屋にいる。


 胸は押しつぶし、声は低く、表情はあまり変えないように……。官服のゆったりしたデザインのおかげもあってか、この5年、女だとバレずに過ごせているのは、ひとえに努力の賜物だ。


 官吏に就けるのは男子のみ、という絶対の原則がある世界で、侍郎の位にまで上り詰めたのだ。今更、その地位を捨てるつもりなんて毛頭無かった。


(……というか、そもそも後宮に籍があるんですよね……)


 女だとバレても、後宮を抜け出していることがバレても、どちらも非常にまずい事態になるのは明白。

 誰かからの無用な接近は、全力で避けるに限る。


 用心には用心を重ねるくらいがちょうど良いのだ。


(……ってかそれよりも、髪の毛を引っ張られなくて良かったよ……)


 胡乱な目つきで男から距離を取りつつ、濡れたままの金髪を手ぐしで整えた。脱色して傷んでるから、キシキシとひたすらに手触りが悪い。


 実は、頭に被った官帽の中には、地毛の黒髪部分を隠していた。丁寧に編み込んで頭頂部で丸め、残った金髪を垂らして、後ろ髪に見えるよう、工夫に工夫を重ねたヘアスタイルだ。上から官帽を目深に被れば、大勢の金髪の官吏と同じ見た目に出来上がる、スグレモノ。


 一応崩れないようにしっかり固定しているとはいえ、強く引っ張られるとどうなるか分からなかった。


 ――男装よりも何よりも、地毛の黒髪が見つかることの方がマズい。


 何故ならば、金髪碧眼が主流のこの国において、黒髪黒目は『瑞兆』の証……なんだそうです。



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