邂逅を触れて聞く
水飴
01. 宮城しの
思えば私は人に対して好きだとか嫌いだとかあまり考えたことがない。
周りが色恋沙汰に興味を持ち出して、付き合うだの別れただのという話を小耳に挟むようになって何年経つだろう。
私は今でも誰かを好きになったことは一度もないし、高2の冬を迎えても恋というものをまったく理解できないままでいた。
ある冬の日の放課後、私は図書室の片隅で目を覚ました。
書架の背にもたれかかって本を読んでいたらいつのまにか眠ってしまっていたらしい。
冬のどんよりとした西日が窓から差し込んでいる。
床に接地した足はひんやりと冷え切っていた。
「さむ…」
マフラーに顔を埋めて、乱れた制服を整えてのろのろと立ち上がる。
時間を確認すると、バイトの時間まであと1時間を切っていた。
この本借りてさっさとバイト行こう。
伸びをして受付に行こうとした時だった。
受付に2人の人影が見えた。
黒いショートカットの女の子と、ふんわりとした明るい髪をおさげにしている女の子。
2組の鍵山千春と大森ひなた、とわかった。仲良しと評判の2人組だ。
鍵山は図書委員でいつも受付に座っている子なのだが、なぜか今、その席に大森が座って、鍵山は大森の傍らに立っている。
2人は顔と顔を寄せ合っていた。鍵山が大森に屈みこむかたちで。
見てはいけないものを見てしまった、と思った。
鍵山が顔を上げる瞬間に目が合った気がして、反射的に書架の陰に身を潜めた。
そうだったのかっていうかこんなところでこんなことするってどういう神経してんだ。
目が合ったかもしれない。気付かれたか。
気付かれたかっていうかこんなところでこんなことするってどういう神経…と混乱していると、声が聞こえた。
「そろそろ帰ろうか」
「そうだね」
「私、ちょっとまだ片付けたいもの思い出したから、先に校門行っててくれる?」
「手伝おうか?」
「ううん、大丈夫」
「そう?じゃー待ってるね」
扉が開き、そして閉まる音がして、室内は静まり返った。
かすかな衣擦れの音、こちらに近づいてくる上履きの音。
こっちに来る。
「宮城しの」
冷たい声が私の名前を呼ぶ。
声の方を振り返るとこれまた冷たい目で鍵山がじっと私を見つめていた。射るような眼光だった。
「な、何か…?」
「見てたよね」
「い、いや、なんのこと…?」
思わず目を逸らしてしまった。
私のわかりやすい嘘をあざ笑うかのように、彼女はふっと小さく息をついた。
「まあいいや。あなた、言いふらす度胸も人脈もなさそうだし。言っておくけど、私達付き合ってるとかそういうのじゃないから」
「そ、そう…」
思い切り失礼なことを言われていることにも気付かず、ただただ鍵山の気迫に圧倒された。
本を借りる時に冷徹さは感じていたし、かなりの毒舌家という評判は聞いていたものの、実際面と向かうとめちゃくちゃ怖い。
付き合っているわけではない。そうなのか。
予想外のことが立て続けに起こりすぎて受け止めきることができず、ただただ鍵山の言うことを頭の中で反芻していた。
「あ、それ借りる?受付してあげるよ」
「あの」
「なに?」
「鍵山って、大森のこと」
鍵山は私の言葉を遮るようにこう言った。
「ひなたのことは好きよ。でもそこらの愛だの恋だのと一緒にしないで」
彼女はそれ以上の質問は受け付けないと言わんばかりに、手際よく受付を済ませて、そっけなく本を手渡してきた。
* * *
学校を出る頃には雪が降り出していた。
踏み固められた雪の上に更に雪が積もって、今にも滑って転んでしまいそうだ。
足元を見て注意深く歩きながら、今日あった出来事を思い返していた。
私は恋愛沙汰に興味がない。恋愛どころか、友情すら必要としない自分はどこか欠落しているようにも感じていた。
"そこらの愛だの恋だのと一緒にしないで"。
鍵山のあの言葉で、あの2人が一緒にいる理由をさまざま想像してどこか羨ましくなった。
バイト先のコンビニに到着し、レジに立っていた店長に軽く挨拶をして、支度のために休憩室へ向かった。
「あ、シノ君おつかれー」
休憩室に入ると、髪を白金に染めた不良のような女が行儀悪く椅子に座り漫画を読んでいた。
この女は鷲野歌子といって、バイト先の先輩だ。
初めて会った時から「キミ、男の子みたいだねえ」と言って私のことを"シノ君"と呼んでいる。
年の頃合いは大学生ぐらいだが大学には行っていないようだ。フリーターというやつだろう。
彼女個人に関して深く聞いたことはないので詳しい素性は知らないが。
「…うす」
「今日めちゃくちゃ暇だよ。もう帰っちゃおうかなー」
「帰れば」
「でも給料が減るの嫌だぁー」
知らんがな。
着替えようとロッカーから制服を取り出す。
このコンビニは古くて狭いため更衣室というものがない。私のように制服で来てそのままシフトに入る人はトイレで着替えたりする。
でも今日は歌子しかいないし、いいか。と思いそのまま休憩室で着替えていて、ふと歌子に問いを投げてみようかと思った。
「歌子さあ」
「うん?」
「彼氏とかいたことあるの?」
暫しの沈黙があって、背中越しに椅子がきしむ音がした。佇まいを改めてこちらに向き直っているのだろうと思った。
「どうしたの。恋愛とかもっとも興味なさそうなシノ君がそんなこと聞くなんて」
「…なんとなく」
「いたことあるけど、何?」
まあそうだろうな、と思った。
歌子はなかなか美人だし、頭の回転が早い。モテるだろう、とずっと思っていた。
「私にはわかんないなあと思ってさ」
「恋するってこと?」
「そう」
「ほんとどうしたの。なんかあった?」
「いや、今日学校で人がキスしてるとこ見ちゃってさあ…」
沈黙。ストーブの乾いた音だけが室内に響いていた。
「シノ君の通ってる学校って女子高じゃなかったっけ」
歌子にそう言われて、しまった、と思った。
お互い素性を詮索しない日々を送っていたからか、最初に女子高に通っていると話していたことを忘れていた。
「いや、まあ、女同士がどうこうとかじゃなくて、私には恋愛とかよくわかんないなって…」
「教えてあげようか」
背中越しに聞く歌子の声はいつもと雰囲気が違っていた。
振り返るといつものゆるく貼りつけた笑顔が神妙な顔に変わっていた。
「…なに言ってんの?」
「わたし達、付き合ってみようかって言ってるの」
歌子の突拍子のない提案に身を固めた。
いつもの冗談だろう。この人はいつも私をからかって遊ぶ。
「…はあ?ふざけないで…」
「シノ君。わたし、いつもふざけてるけど今は本気だよ」
声の調子や表情からして本気らしかった。
いやわからない。歌子は演技がうまいから。
返す言葉が見つからない。了承も拒絶も、今はどちらもできないと感じた。
私が戸惑っているのを悟ってか悟らずか、歌子は椅子から立ち上がりながら言った。
「わたし今日は8時上がりだから。車でシノ君の上がり待ってるから、よかったら来て」
そう言い終える頃には歌子の雰囲気はいつもの調子に戻っていて、鼻歌など口ずさみながら店内に戻っていった。
その日のバイトは歌子と会話を交わすこともなく、かといって仕事に身が入るわけでもなく、時間が流れるのがいつもの数倍遅く感じた。
* * *
私は歌子を嫌いなわけではない。話は面白いし仕事もできる。
彼女に対して女性としての憧れを抱いていた節もある。
かといって、付き合う付き合わないの話にそれを繋げるかといったらまた別だ。
9時10分、裏口に止まった車。
歌子の派手さとは対照的に小さめで没個性の軽自動車。
その中で歌子は煙草をふかしていた。
「…なんで来ちゃったんだろう」
誰ともなく呟いた。自分でもわけがわからなかった。結論よりも先に時間が訪れてしまった。
歌子は私に気付くなり顔を上げて、微笑みながら助手席を指さした。
ぼんやりした頭で歌子の言いなりに助手席の扉を開ける。
「来てくれたんだね。待ってたよ」
歌子の口調があまりにも軽すぎて勘ぐってしまう。
私はからかわれているのだろうか?
「…私はどうすればいいの」
「どうするもなにも。車に乗るのもそのまま帰るのも、シノ君の自由だよ」
ここまで来てそうした選択肢を出されることに苛立ちを覚えた。
一緒に働いていて思う。歌子はずる賢い。人を手のひらの上で転がすのが上手なのだ。
今だって私のことを試すように見上げている。その瞳の奥に何か暗いものが宿っているように思えてならなかった。
思い通りになんてなってやるものか。
「…そっちからふっかけといてなんでこっち任せなわけ?本気で言ってんなら引きずり込むくらいのことすれば!?」
怒りは白い吐息に変わって、風に流れて姿を消していった。
歌子は車のハンドルに肘をついて私を見つめていた。
ほくそ笑んで、私を見定めるような目をしていた。
ふと、瞼を伏せたかと思うと、腕を強く引かれた。
痛いと思う暇もなく車の中に招かれ、車の中に招かれたと思う暇もなく口で口を塞がれていた。
それは今日見た、あの2人が交わしていたもののような生易しいものではなかった。
ひとしきりが終わると歌子は「言ったね」と囁いて笑った。
この女は思った以上にヤバい奴なのかもしれない。
その後は歌子の車に乗せられて、歌子の家に行った。
結論から言うと何もなかった。
お茶を出されて、30分程度だけ他愛もない話をして、家まで送ってもらって終り。
"付き合う"ことが確定したことだけが明白だった。
私が牽制したばかりに本当に引きずり込まれてしまったようだった。
あの人は、歌子は、一体何が目的なのだろう。
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