十二話
神聖歴千二百年七月二十一日。
この日もまた曇天模様であった。
天の支配者たる太陽は厚雲に隠され、人族の〝王〟の象徴たる月もまたその姿を消している。
気温は夏ということもあってかそれなりに高く、王都に住まう民は魔導具によって快適な室内から外に出るなりげんなりとした表情を浮かべる羽目になっていた。
そんな王都パラディースの南――南門を抜けた先に広がる広大な平原では、季節とは関係のない奇妙な熱気に満ちていた。
大勢の人々――兵士が放つ熱気である。その中には緊張や高揚などが含まれており、クロイツ平原は戦前の独特な気配に包まれている。
「やっぱりこういった戦場特有の雰囲気は未だに慣れないわ。シンさんはどう?まだ二回目だから慣れない?」
「…………」
「シンさん?」
「……ん、あ、いえ!えっと……大丈夫ですよ?」
クロイツ平原の西側に展開した中央軍、その本陣でアンネ将軍が新に声をかけた。しかし新はぼうっとしていたのか反応が薄い。
昨夜、同じ勇者仲間である勇を連れ戻してからずっとこの調子である。連れ戻された勇も普段とは違う雰囲気を醸し出していたから何かあったに違いないとは思うのだが、二人とも話してくれなかった。
戦場において気を逸らしたままというのは危険だ。命の奪い合いをする場にあって注意散漫では死に直結しかねない。
そういった危惧から口を開こうとしたアンネを遮る形で新が言葉を発した。
「……確かに悩みはあります。けれど――今は目の前の戦いに集中しますよ。今回の相手は一筋縄ではいかないでしょうし」
「そうね……流石は東方軍、といったところかしら」
新の横顔に確かな意思を感じ取ったアンネはこれ以上の追及は無粋と思い止める。その代わりに新が出した話題に乗っかりながら彼と同じく正面を向いた。
二人の視線の先――クロイツ平原東側には大軍勢が展開していた。東方軍九万五千である。
「対してこちらは五万……まともにぶつかり合えば押しつぶされてしまうでしょうね」
「ええ、そうね。……あの情報さえなければ八万で挑めたのだけれど」
あの情報、というのは昨晩から南方軍と中央軍に広がった一つの噂のことである。
――曰く、王都には東方軍の味方がおり、そのせいでこちらと王都との連絡網が断絶しているのだとか。
噂はあくまで噂であるし、何よりその広がり方から敵方の間諜が入り込み流しているものだろうとアンネやモーリスたち首脳部は判断した。
けれども中々に信憑性のある噂であることから兵たちの間で不安が消えることはなく、幕僚たちからも懸念の声が上がった。
『本当に東方軍側の者が王都にいるのではないか。もし兵などを王都に隠しているのであれば戦いが始まった後に不意打ちを受ける可能性がある』
『王都には〝王の盾〟が指揮権を持つ〝銀嶺騎士団〟が駐留している。彼らが東方軍に属する新たな〝王の盾〟の命を受けることで王都から出撃するやもしれない』
彼らの意見は無視できないものであった。何せ絶対にない、とは言えないのだ。〝銀嶺騎士団〟が王都に駐留しているのは事実であるし、その王都との連絡が取れなくなっているのも事実である。故に確認しようがないため切って捨てることのできない懸念であるからだ。
そのため王都からの敵増援を防ぐため、また連絡網を復旧させるためにも兵力を割くことになった。
その兵力は中央軍八万の中から抽出された。数にして三万、指揮するのは中央軍副官である天喰陽和である。
「東方軍が王都に矛先を向けないようにする牽制、という意味合いもあるんでしたっけ」
「それもあるわ。といっても総兵力で劣っている上に堅牢な城壁で守られている王都を攻めるなんて真似はしないと思うけどね。そんな下策中の下策を選ぶほどユピター親子は間抜けじゃない」
「アンネさんがそこまで言うとなると……やはり先代と今代の〝王の剣〟は油断ならない相手なんですね」
と、新が正面に見える東方軍を睨みつければ、アンネもまた表情を険しくさせて頷いた。
「ええ……。先代であるテオドール・ド・ユピター公爵は四大貴族家当主の中で最も戦上手として知られているわ。これまでの戦歴――ここまで大規模な戦いはつい先日の北方軍とのものくらいだけれど、彼が現役だった頃の戦いでは連戦連勝を重ねている。何より恐ろしいのは彼が一度も負けたことがないという不敗神話の持ち主だという点ね。まあ、あくまで記録に残っている限りは――だけれど」
「……マジっすか」
エルミナ王国に属する武官が何故テオドールを畏れているのか、その理由は彼がこれまで一度たりとも戦において敗北していないからである。
不敗神話を持つ男と戦う――それがどれほどの心理的負担か、武官でない新は推し量ることすら難しい。
けれども戦慄を覚えたのか、新は頬を引きつらせた。
「ってことは、今回東方軍が選んだ陣形にも気を付ける必要がありますよね」
「そうね。単なる横陣だと油断はできないわ」
今回、対峙する東方軍が選択した陣形は横陣――部隊を横一列に並べた陣形の中で最も基本的な構えである。
横並ぶ第一陣の後ろに第二陣を配し、最後に本陣を置いている。
基本に忠実といえようが、この段階で既に奇妙な点が一つある。
それは――、
「東方軍は俺たち中央軍に対峙する向きをしていますけど……これだと南方軍に側面や背後を突かれてしまいますよね?」
東方軍は何故か平原南部に展開している南方軍七万に側面を晒してしまっていた。これでは横腹を食い破ってくださいと言っているようなものである。
一体どういうつもりなのか、怪訝を浮かべる新にアンネも同意だと眉根を顰めている。
「罠か、それともそう思わせることで南方軍の動きを鈍らせることが目的なのか……分からないわ。どちらにしても兵力で劣っている側が選ぶ策じゃない。危険すぎるもの」
罠だとしても力押しで食い破れるし、そうではなかったとしてもやはり数で押し切れる。しかもこちらには一騎当千の〝勇者〟が四人もいるのだ。いくら向こうに大将軍が二人いるとはいえどもたった二人で万の軍勢を押しとどめることなど出来はしないだろう。濁流に人の身で立ち向かうことなど出来ないように。
「……こればっかりは実際に戦ってみるしかないわね。戦力の分散はされてしまったけれど、それでもこちらの方が兵数は上だし……それに何も向こうにだけ策があるわけでもないわ」
強気なアンネの台詞に励まされた新は頷きを一つしてから、ふと思い出して口を開く。
「大将軍で思い出したんですが……エレノア大将軍の様子はどうなんです?最後に会った時は頑なな態度でしたけど」
「ああ、エレノアは……そうね、相変わらずよ」
西方征伐にて〝光姫〟天喰陽和に敗北して身柄を拘束されたエレノア・ド・ティエラ大将軍であるが、征伐後はアンネがその身柄を引き取っていた。
今も中央軍本陣にある天幕の一つにおり、二名の女性騎士の監視下にある。
「ずっと説得はしているんだけど……彼女がアレクシア第一王女に捧げていた忠誠はかなり厚いみたいで、第一王女を討ち取った私たちの軍門に下るつもりはない、の一点張りよ」
「そうですか……エレノア大将軍が味方になってくれれば頼もしいんですがね」
という新の言葉にアンネは首を横に振った。長い付き合いからエレノアの性格は理解している。一度忠誠を捧げた相手を殺したこちらに靡くことはないと確信していた。
(彼女がもう一度誰かに仕えるとしたら、それは国王陛下かシャルロット第三王女くらいなものでしょうね。少なくともこちらの陣営には絶対に参加しないはず)
彼女が忠誠を誓っていたアレクシア第一王女を討ち取ってしまったということもあるが、何よりオーギュスト第一王子をエレノアは毛嫌いしていた。
(真っ直ぐな性格のエレノアとあのオーギュスト殿下じゃ水と油みたいなものだし)
自らが仕える主に対して少々不敬なことを考えながらも、アンネは深々と嘆息するのだった。
*****
同時刻、クロイツ平原南部に展開していた南方軍本陣では、指揮官である勇が参謀長であるモーリス将軍にあることを願い出ていた。
「別動隊として敵本陣を攻撃したい、とユウ殿は仰られるわけですか?」
「はい、そうです」
勇の提案は、〝神剣〟所持者であり〝固有魔法〟をも持つ自分が別動隊を率いて敵本陣を背後から強襲する、というものであった。
東方軍は何故かこちらに側面を見せる形で展開しているため、背後に回り込むこともできなくはない。
それに勇は強大な〝力〟を有する者である。その武威は一騎当千、敵本陣への強襲を行っても帰還できるだけの実力はあるだろう。そこで最高司令官たる第三王女を捕らえることに成功すれば戦を最小限の犠牲だけで終わらせることができる。
しかし、その一方で危険も大きい。もし勇が捕らえられるか、討ち取られるかしてしまえばこちらの士気が下がるどころの話ではない。最悪統率が乱れて崩壊してしまうかもしれないのだ。
「ユウ殿はそういった危険を全て承知の上で申されているわけですな?」
「……危険なことは分かっています。僕が死んだり捕らえられたりしたら負けてしまうかもしれないってことも。でも――僕は行かなくちゃいけないんです!」
お願いします、と頭を下げる勇。
その後頭部を見下ろしながらモーリスは思考を巡らせる。
――危険だ、止めるべきだ。今は劣勢というわけでもないのだから無理をすべきではない。
否定する考えばかりが浮かぶ。肯定する考えはほとんどなかった。
それでも眼前の少年の必死な様子にモーリスは心を動かされていた。
(……若い頃を思い出す)
〝王の剣〟テオドール、〝征伐者〟クラウスと共に戦った過去の記憶が過る。どちらも向こう見ずで、勝手で、いつもモーリスを困らせていた。そんな二人の姿と勇が被って見えた。
……悩みぬいた末、モーリスは大きく息を吐いてから告げた。
「……分かりました。幕僚長として許可します。中央から一万を引き抜きますので、それを預けます。――ユウ殿、これだけは約束してください。無理はしないと」
「……っ!分かりました、ありがとうございます!」
頭を上げた勇は喜色を浮かべるともう一度頭を下げてから走り去っていった。
その背を見送るモーリスに、様子を窺っていた幕僚の一人が話しかける。
『よろしかったのでしょうか。ユウさまは我が軍の指揮官であり〝勇者〟筆頭でもあらせられます。万が一があればオーギュスト殿下とアルベール閣下からの叱責は免れませんが……』
「いや、これで良いのだ。そもそも飾りとはいえユウ殿は指揮官だ。本来なら我々に命令権などないし、彼に許可を出す立場でもないからな。それに今や〝勇者〟に心酔する兵は多い。その筆頭たるユウ殿の願いを拒否したとなれば士気にも影響するだろう」
先の西方征伐を経たことで兵たちの中で〝勇者〟への信仰にも似た憧憬が生まれたのは事実だ。
圧倒的な武力、隔絶した武威、膨大な魔力――武官ならば、武人ならば、憧れを抱いて当然なのだ。
そんな風に人気を得ている彼の申し出を拒絶したとなれば必ずや軋轢が生じる。今から戦いだというのにそれは避けたいところだった。
そう説明すれば幕僚は『確かにそうですね。かく言う私も実はユウさまに憧れておりまして……』と恥ずかし気に言ってくる。対してモーリスは苦笑を浮かべて『私もだ』と返した。
――その時、クロイツ平原全体に勇壮な角笛の音色が響き渡った。
開戦の合図、進軍開始を告げる笛の音である。
古今東西――時代が移りゆこうとも、場所が変わろうとも変わらない。武人の心を奮い立たせる音色である。
『伝令!敵軍が中央軍に向けて前進を開始しましたっ!』
「来たか……紋章旗を掲げよ、こちらも角笛を鳴らせ。中央軍と連携を取りつつ我らも前進する。中央の後方部隊一万は東側に移動し、ユウ指揮官の指示を仰ぐのだ!」
駆け寄ってきた伝令の言葉にモーリスは声を張り上げて周囲に指示を下した。
後の世でクロイツ平原の戦いと評される、王位継承戦争における決戦の火蓋が切って落とされた。
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