血流

サイダー直之


 小学五年生、十一歳ほどだろうか、私が眠るのは病室だった。ベッドは都合六つである。私と同程度の傷や疾患を負った子どもたちが、それの一つ一つに伏せていた。においの記憶は覚束ないけれども、それでいて、てんからそんな記憶などないようでもあった。廊下はおぼろな青白い灯りなのに、そこには音もないのだった。

 部屋へ入って左右の白壁と直角をつくって三台ずつベッドが並べてある、私は左手の最奥だった。けれどカーテンを閉めるのは私ではなかったし、窓まではまだ距離があった。カーテンは、そして看護婦は、私の右腕の骨が無様に断ち割られているのを知りながら、私の左手にも、その機会を与えてくれなかったのだ。

 右腕は、骨が折れて二本になったうちの一方がもう一方へ乗り上げる形になったのを、はじめに運ばれて行ったところの整形外科医の素手ではどうにもできず、メスか何かで(尤も、そのとき私は全身麻酔のためにまったく眠っていたのだが)切開したのちにこれを直し、二本の針金を突き立てて固定したのだった。針金の膨らみは皮膚の上からでも認められた。とはいえ痛いときは痛い、特別に夜などは、はな、身体に沿うて固定したはずの包帯巻きの腕が、ふと覚醒すると枕の横に投げてあったりした。ぼんやりした中でそれが分かると、私は言いようのない恐怖に襲われ、まるで自分でない、例えば路上なる猫の死骸を扱うような手つきの左手で、その右腕を、元の位置まで戻すのであった……


 それより何日か前のこと、私は友人たちに誘われ、ある公園――アスレチックと呼ぶのだろうか――に初めて来ていた。アスレチックといっても、内容はかなり簡単なもので、木造の、節々を麻縄でくくった遊具がだいたいで、金属の部分などは見られない、ずいぶん古めかしいところであった。しかも遊具は三つばかりだ。それでも私の住む神奈川県A市というのが、いったいから進んでいず、その大きな公園は市の子どもたちにとると珍しい楽しみの場所だった。そこへ赴くので、何かヒエラルキーすら築かれそうだと思ってもいた。

 加えてそこは、私の家からだと、自転車でほとんど一時間はかかるところにあったのだ。それだから、その日は小学五年生の私の、初めての遠出と言えた。連れ立つ友人たちの中にはもう慣れた者もいて、彼らは途中、いくつもの赤信号を通過した。はじめの一つ二つ、私はしかつめらしい意識で一人自転車を停め、青に変わるまで彼らを待たせたものだが、やがてそれも無意味だと悟ると、次からは夢中で足を動かすばかりだった。

 公園への入口は、地面が、コンクリートから柔らかい土に変わる。枯れ切って白くなった笹がポツポツ敷かれているが、ちょっと歩けば土は黒ずんでゆき、硬くもなる。公園を囲むのは山の急斜面で、その途上にも遊具の一端が乗り上げたりしていて、少年たちはこぞって、用がなくても斜面を駆けたがった。斜面に積もるのは枯葉だった。思い出してみると案外に狭いそこの、盆地を縁どるようにして、細い川が一条いびつに流れていた。無論のこと、子どもたちはその綺麗な川の水に素足で浸り、泥が何、ザリガニが何、などと言い合っては美しく戯れていたが、水はただ流れ、落葉を運ぶのが普通だった。私たちは皆、当然のように、その透明な水がどこから来、そうしてどこへ流れてゆくのか、全然知らないのであった。

 そこへ到着して自転車を停めてから、……私や私の友人は、荷物をどこへやったのか、私は覚えていない。そもそも背嚢や何かで物を持っていったのか……。しかし確かなことは、そのアスレチックにはそのとき一緒だった一人の友人の母親が働いており、

「まあ。由雄、由雄、……」

 私の母とは特に懇ろなのだった。けれども私のほうは、こ、こんにちは、とつかえながら応じるのがやっとで、その息子の健太郎くんと顔を合わせるともうそのほうへは向かず、あとは健太郎くんが自慢げに母親と話すのを、少し離れて聞いていた。先の駐輪場で以前、同じ小学校の生徒がタイヤを無差別に破損させたという事件について、物知り顔で話しているようだった。健太郎くんはその幼時、ほとんど常に、口の脇にてらてらと光らせた微量の涎をたくわえていたと、当時から今の時分まで、わが家ではよく話題になる、私が話したがる。

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