極東の火病庫

時系列は一年ほど遡る。

8月も暮れに差し掛かり、1904年バルバロッサ作戦の開始からひと月が経った頃。


史実、日露戦争を内閣総理大臣の立場として率いた桂太郎は、使者として大韓の地に派遣されていた……、まではいいのだが。


「大韓帝国が参戦すれば貴様らは大きく助かるだろう。強大なる我が大韓陸海軍が散々に白き蛮族を打ち破り、貴様らに代わって戦場の主役になるのだ。」


うんざりとしながら膝を折って頭を下げて、その先に彼を見下ろすのは大韓皇帝・高宗その人である。


「畏れ多くも国王陛下――」

「貴様ッ!陛下であせられるぞ!貴様ら列島民族の薄汚い日王などと一緒にするではない!!」

「っ…申し訳有りません、では皇帝陛下。」


侍従の罵倒を堪えて、彼は言葉を継ぐ。


「正直なところを申しますと、貴国の軍隊では露軍と交戦したときにうるわしい戦果が出るとは言い難く、ですから皇國は―――」

「強がるでない、東夷の朝貢使節よ。」


スーツ姿の桂を朝貢の使いと呼んで高宗は笑う。


「古くは白村江、元の日本征伐、豊臣の倭乱。1300年前から貴様らの軍を散々に蹂躙してきた大韓民族の戦士だ、そんな貴様らが余裕で勝利できる露軍など鎧袖一触…、いや見ただけで逃げ出すに違いない。」


くつくつと口元を歪めて彼は続ける。


「本当は、精強なる文明国・大韓の参戦を待ち望んでやまない…けれども、列島民族の器量の小ささ故か?大韓に跪いて助け乞うにはプライドが許さないのだろう。」

「……随分な言われようですね、我が国は。」

「くく、蛮族にはよくある話だ。

 なに…。朝貢国には恩恵をやらねばならぬ、参戦はしてやろう」


そうは言いながらも、皇帝は参戦する気満々であった。


「そこで、だ。戦後処理には、参戦の然るべき対価を求めよう。」


彼は侍従に地図を寄越すよう伝える。

すぐに目当てのものが運ばれてきたようで皇帝はそれを広げてみせた。


「さて、我ら大韓の要求は以下である。」


そこに記されていた文字の羅列に桂は絶句した。


戦後処理にあたり、日本は大韓帝国に以下のことを約束すること。

・大韓帝国はその広大なる版図に沿海州、樺太、カムチャッカ、シベリアを含む東経115度以東の全ロシア領域を加える。

・ロシア皇帝は大韓に刃向かったことを頭を地に擦りつけて大韓皇帝の前で詫び、以後年5回は大韓帝国へ自ら朝貢に向かい、大韓帝国の従属国となること。

・大韓皇帝は日本国王に、日本の大韓従属国ロシアの対する賠償請求権を許す。

・今次戦役の大韓帝国領域内の日本軍の自由通行許可を、戦後に日本は大韓帝国に多大な感謝をし、その謝礼として日本は大韓帝国への朝貢を再開し、大韓帝国の従属国になる。


「……はは、何かの冗談ですか?これは。」


高宗は満足そうな笑みで桂を見据える。


「くくく…。朕の寛大さに大層驚いただろう。だがな、それだけじゃない。我が大韓の参戦の代わりに貴様らが大韓に差し出すべきものも譲歩してやるのだ。」


大韓帝国の対露参戦条件

日王天皇は大韓民族に対するこれまでの蛮行を大韓皇帝の前で詫び、三跪九叩頭の礼で大韓皇帝の許しと参戦を請うこと。

・日王は大韓帝国の参戦を心底から喜び祝い、以後毎年総人口の5%の日本人を奴婢・白丁として大韓帝国に差し出すこと。

・日本は代償として大韓民国に建設した公使館や鉄道、電信、学校などの全ての資産を大韓帝国に献上し、不法占拠している対馬島、独島、隠岐諸島ならびに五島列島を大韓帝国に返還すること。


「どうだ、歓喜の余りで声も出ないか?…ふふふ、そうだろう。東夷の倭奴に中華の大韓がここまで慈悲ある恵みを与えるのだ。文明の光に打ち震えるが良い……!」

「………。」


一通りその要求の羅列に目を通した桂は、拳を震わせて立ち上がった。

高宗は首を傾げて彼に問う。


「どうした、感謝の念を伝えず去ろうとは非礼であるぞ。貴様ら蛮族に文明を授ける光、大韓皇帝に対する三跪九叩頭はどうした。跪き、手を地面につけ、額を地面に打ち付けて全身で歓喜を朕に―――」

「話にならん、帰らせて頂く。」


彼はそう吐き捨てて皇帝に背を向けた。

瞬間、彼に侍従の槍の切っ先が突きつけられる。


「き、貴様!倭奴の分際でなんたる無礼ッ!!」

「どちらが無礼だ、この要求は!!」


その慈悲などと謳ってみせた要求書を突き返した。


「なんだ?貴様、宗主国に縋り付くのだからこのくらいは当然――」

「そもそも皇國は大韓帝国の参戦など端から望んでなどいないッ!」


唖然とした空気がここにそろう両班たちに走る。


「……倭夷どもは、使節にすら低能しかいないのか?先が思いやられるな」


高宗の言葉に彼は立ったままこう返した。


「皇國には貴国と違って、国際関係というものがある。」

「…はぁ?」

「日英同盟には自動参戦要項というものがあり、今次戦乱に第三国が介入すれば大英帝国は参戦せざるを得なくなるのだ。すると露仏同盟に従い今度はフランスがロシア側で参戦する。」

「それがどうしたというのだ」

「貴国の介入で人類は未だ経験したことのない『世界大戦』が発生するのだ。そんなこと、誰もが望んでいない!」


高宗は嘲笑を以て彼の言葉を否定した。


「世界大戦など、大韓の威光ですぐ平定できるだろう」

「それが出来たら苦労はしない!!」

「…いい加減にしたらどうだ、偉大なる大韓帝国が従属国の倭奴にわざわざ手を貸してやると言っておるのだぞ。黙って代償を献上すればいいものを!」


ここに来てついに桂の堪忍袋の尾は切れた。


「皇國は一度も貴様らに朝貢などしたこともなければ従属国などでもない!そのようなくだらない妄想話に突き合わせるなら、金輪際皇國と交渉などするなッ!!」

「貴様ァッ、陛下になんたる態度!!」

「突き殺すなら殺してみろ!露軍を殲滅して余裕のある我が皇國陸軍が即座に反転、半島全域を制圧する!」

「ッなにが『皇國』だ!こちらは帝国、そもそもの格が違うのだ列島人種め!」

「なら…世界が相手だったらどうだ…!勝手に参戦でもしてみろ、世界大戦など起こしたくない日露英仏の連合軍がこの半島に雪崩込む。そうならないように精々貴様らは引きこもっていろ!」

「もうよいッ!」


高宗の一声で場は静まり返った。


「蛮族め、絶好の機会を捨てるのなら勝手に捨てろ。精々その程度の思考力でな」

「それで十分だ、皇國はいかなる第三国の戦争介入を希望しない…!」

「……これだから文明のない野蛮な列島人は好かんのだ」


その言葉に振り向くことなく彼はこう返す。


「文明のない?…戯言を。ここの城下を見下ろしてみればどうだ、少なくとも我が帝都にはそこらに糞尿や死体までもが転がっているという光景は見られない」


足を止めることなく桂太郎は謁見の間を後にした。


交渉決裂である。



去りゆく彼の背中を、忌むように見つめながらも。

高宗は心底不思議がるように呟く。


「そこらに糞尿や死体?当然だろう??…穢らわしい家畜でしかない民などが、いくら苦しもうが…、どうでもいい些細なことじゃないか。」

「礼も弁えられない倭賤の妄言です、お気になさらず。」


李朝末期。支配層の『両班』と呼ばれる貴族以外は名実ともに人間と認められなかった暗黒期。半島全土で暴力と困窮が渦巻き、体制に人々は喘ぎ続けている。にも関わらず両班はなお現実にそぐわない行政を続けており、どうやらそれは彼らの外交にも露骨に現れたようだった。


非現実的な参戦要求はこの後大英の圧力もあって撥ね退けられるも、久々に思い通りに物事が行かなかった両班たちの中には、鬱憤がただ積もっていく。




それが世界を巻き込み暴発することとなるとは、この時誰が予想できただろうか。

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