第一部 宵明けの帝都〈中〉
十一章 赫灼の裂光
序奏
東京裁判最終判決下る十日、初夏の丸ノ内に空はあくまでも蒼く深く澄んでいた。
午前九時半開廷。被告は開廷時と何ひとつ変わることない落ち着き払った表情で出廷した――。
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『旭日新聞』10日付一面より
カツ、カツ、と巣鴨の拘置所に足音が響く。
歩みを進める一人の士官は、ふと立ち止まって窓の外を見た。
どこまでも続く焦土にも、ポツポツとバラック小屋が立ち始めたこの頃。
先の破滅の傷は到底癒えずとも、ゆっくりとこの国が起き上がりつつある証拠でもあった。
「……あの人は、何を思って此処に至ったのだろうな」
ふぅ、と彼は息を吐き、ゆっくりとまた一歩踏み出す。
しばらくもしないうちに、目的の監獄へ至った。
「閣下。」
彼は、悲しみでも、喜びでもない淡々とした声で、鉄格子の内側へ呼びかける。
中からは、少し疲労感の混じった安堵の声音が返ってきた。
「…――あぁ、お前か。」
鉄格子の前に足を止め。
なんら前置きもすることもなく彼は問う。
「閣下は、一体何者だったのですか?」
単刀直入に、聞きたいことだけを切り出した。
「…随分と突然だな。」
「閣下の残り時間は少ないんです。それを私ごときに割いては勿体なさすぎましょう。それでも、結局閣下はどのような"答え"を見出したのか――それだけは、教えて欲しいのです」
「はは、お前らしい。」
中の男は、渇いた声で少し笑う。
だから聞かせてください、と士官は問う。
「閣下は――…『愛国奴』だったのですか?」
男は満足げに嘆息する。
多大な達成感に少々の寂しさを溶かしたような、そんな息だった。
「いいや、
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第一部『宵開けの帝都』・中
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明治38(1905)年1月25日 松花江ライン
指揮本部・連絡会議
「儂としては、この松花江ラインを死守。従来どおりに20万ずつ漸減していくつもり…と言いたいのだが。」
壇上を左右に歩きつつそう述べる児玉に、僕はすっと手を挙げる。
「なんだ、即応集団長。」
「それは些か難しいのではないでしょうか。なにせ、第一回目の撃退で積極的に行使、損害レート1:30という大戦果を挙げた下瀬焼夷弾が、この寒さのせいで着弾後に焼夷剤が瞬時に凍結してしまい、使いモノにならないのですから」
「……だろうな。儂も現実的ではないことは理解している。」
乃木や、以下士官たちの表情が暗くなる。
「それに――」
ドカァン!!
児玉の声を遮って、轟音が響き、指揮本部の部屋がガタガタと揺れる。
埃が舞い上がり、電灯が消えて真っ暗になる。
が、それも長く続くことはなく、一瞬安全遮断されていた電気が再供給され、電灯は再びピカリと灯る。
「……最近は、敵の砲撃も始まった。」
隣の鐵道管制室の区画からは、即座に始まったダメージコントロールによるものと思われる怒声や足音が響いてきて、緊迫した状況をこちらへ伝えてくる。
「最近は天候もすぐれず、ずっと吹雪か濃霧で満足に飛行船を離陸させることが出来ませんからね。爆撃や上空偵察が滞る隙を突いて、掩体壕を建設、重砲陣地を設営・強化していると見たほうが良いでしょう」
「だろうな。持続的な爆撃による牽制が出来ないのは痛い」
「それに、これから厳寒期の二月へ突入します。装甲部隊は当面投入出来ないでしょう」
「…拙いな。」
「ええ。状況は相当に厳しい」
児玉も僕も、ため息をつく。
どこまで言っても戦局を打開する方法が見当たらない。
「儂は、戦線を後退させるべきだと思っている。」
そう切り出した児玉にいくつかの将校がカッと目を向ける。
それを見て、すかさず僕は頷いた。
「本官も同意であります」
この敗北主義者め!なんて罵声は飛ばすだけ時間の無駄だ。
事態は切迫している以上、パッパッと話は詰めていかなければならない。
「長春付近…、第二防衛線が最適ではないでしょうか。ここまで退けば寒さも若干和らぎます。夜間は相変わらず氷点下20度に行きますが、昼間は氷点下10度を下回ることは基本ありません。装甲車と、焼夷弾を使うことが出来ます。」
「太陽の出ている間に限る、がな」
「……前回の一件で、夜襲は無効化されるということくらいは向こうさんとて悟ったでしょう。再びやすやす仕掛けてくる、なんてことはないかと。」
児玉は唸る。
「しかし…第二防衛線には、河がない」
「…ですね。今度ばかりは、塹壕や蛸壺を掘られ、こちら側の面制圧射撃をしばしば無効化してくるでしょう」
「突撃を阻む大河もないしな。」
「架橋や渡河作業を必要としませんものね。必然的に近距離戦になって、この松花江ラインでやり合うよりも多くの損害が皇國側に出るでしょう」
けれども、焼夷弾と装甲車が使えない中で、吹雪と凍傷に揉まれて氷相手に足掻き、消耗し続けるよりかは遥かにマシだ。
「履帯装着改装が済んだ装甲車から順に戦線へ投入、物量に任せた波状攻撃で迫るロシア軍を複数点から突破、後方に回り込んで挟撃しつつ攻撃陣形を瓦解させていく。この方法がやはり皇國陸軍の強みを最も活かした迎撃戦術になるでしょう」
「だろうな。それしかあるまい」
「しかしそれでもこれまで以上の損耗は避けられません。三週間…最悪では二週間ほどで、四平に構築の進む第三防衛線への撤退を余儀なくされるでしょう。」
まぁ四平まで退けば、気温的に焼夷弾や装甲車は昼夜問わず活動可能になる。
後退するにつれて本来の戦闘能力のリミッターが解除されていくのだ。
死物狂いで抵抗するにはもってこいだろう。
「児玉」
「なんでしょう、大山総司令」
総軍司令の大山巌が席上から児玉へ問いかける。
「撤退戦を敢行するにしても…撤退を妨害されないほどには、ここの松花江で敵軍を間引いておかなくてはならないのでは?」
「そうですね。この寒さでも相変わらず個人携行火器と機関銃は動きます。敵軍の松花江への架橋作業を爆撃、もしくは徹甲弾か榴弾での砲撃でピンポイントでぶち抜きつつ、渡河してきた敵部隊を前から順に片っ端からトーチカで処理していくことで、敵軍に損耗を強います。」
「…どれほど削れる?」
「1個歩兵師団分が全滅するまで粘れば…30万ほどは間引けるかと。」
2万人戦死で、30万の損害を与えることが出来る、か。
僕らの銃弾は歩兵銃から機関銃まで三二式実包、6.5mm弾だ。
生産性と輸送・補給の簡易性を重視して採用された本弾。貫通力は乏しいが、尖鋒形状のおかげで確実に負傷させることは出来る。
「30万のうち、継戦不能な負傷が8割ほどであれば良いんですけどね」
「敵とて殺すつもりはない、と?」
大山にそう言われて、少し笑いが漏れてしまう。
命までは奪わない。
なるほど、文面だけならいかにも『主人公』っぽい言い分だ。
「なにせ向こうさんはマトモな補給線がありません。列車を到着順に片っ端からスクラップしてくしか、ギリギリの兵員弾薬供給を維持することが出来ないんです。」
「だとすると、敵を生かすという判断になるのか?」
「だって、負傷者は死兵と違って医薬品と食糧と相応の療養施設を必要としますから。継戦不能の無駄飯喰らいならば、多ければ多いほどただでさえ貧弱な補給線を圧迫、破綻に追い込んでくれる。」
総軍司令はなるほど、と頷く。
なにせ真っ向からの打撃だけが攻める手段ではない。
敵を内側から弱らせていくのも、立派な戦術的一手だ。
「砲弾の代わりに食糧を運んでくれるんです、これほど歓迎すべきことはない」
「理解した。それでトーチカ防御か。」
「敵軍の対空陣地の配置も考慮しつつ、攻撃飛行船も投入してく予定です。先の防衛戦闘、空中からの機銃掃射は強力でしたので」
ふむ、と児玉が言った。
「これからは…敵軍にどれだけ負傷兵を強いるかが焦点というわけか。」
「ええ。正直、120万という敵軍の総兵力は数だけ見れば猛威ですが、シベリア鉄道の補給限界を大幅に超過しています。長く持たないのは、向こうも我々も同じ。」
一見優勢の敵軍とて、余裕はない。
「だから、存分にやるしかありません。」
「くくっ…。儂の『存分』を解っていってるのか、それは?」
「もう出し惜しみはできませんから」
「――ならば、やるぞ。」
児玉は獰猛な笑みを浮かべた。
「第二防衛線への撤退準備を開始。
手始めに、松花江から第二防衛線までの焦土化に取りかかれ。」
「……焦土作戦、ですか。」
伊地知が声を漏らす。
「ああ。重要施設は全て解体、もしくは至るところに対人地雷を設置。全部隊の撤収に合わせて、橋脚・構造物・道路を全て爆破し、現地徴発を不可能にするどころか進軍を大幅に遅らせる。」
なにせ100万の大部隊だ。ただでさえ手間のかかる移動で橋が全て破壊されていたら相応の遅延を喰うはずだ。
「初冠中佐」
「はッ」
児玉に名を呼ばれ、立ち上がる。
「中央即応集団はこれからどう使う予定だ?」
「……ウラジオストクへ転進させるつもりです。」
そう答えた瞬間、総軍の将校の中から罵声が上がる。
「っ、貴様!自分だけ安全地帯に逃げ帰るつもりか!」
「何が転進だ、実質的な敵前逃亡ではないか!」
「即応集団の総長と呼ばれてつけあがってるのか?恥を知れ!」
「戦力は集中させねばならない」
淡々と僕は述べる。
「120万を相手するんです。沿海州総軍の4個師団をウラジオストクで遊ばせておく余裕など、我々にはありません。」
「……どういうことだ?」
「ウラジオストクを放棄する。」
俄に将校たちがざわついた。
また罵声が上がる前に、僕は言葉を畳み掛ける。
「戦線を縮小します。元来、ウラジオストクの補給線は漢城からの咸鏡本線が単線でたどたどしく維持しているのみ。満州方面からも孤立しており、到底、戦術的に有利な防衛が出来る立地ではありません」
ウラジオストクは南下を進めるロシア人が築いた拠点だ。
南からの攻撃にはめっぽう強いが、北から降り注ぐ攻撃など、考慮されてすらいない。それこそ――昨年の電撃的陥落のようにいとも容易く北から崩される。
なにひとつ勝算のない戦線を抱える必要はない。放棄して然るべきだ。
「中央即応集団は沿海州総軍4個師団の撤退を援護、確実に満州へ回送させます。」
「なら…貴官は」
「明日には沿海州に向けて出発します。」
児玉は息をつく。
「わかった。」
「そ、総軍参謀長!」
「判断が早急すぎます!我らが血を流して得た土地をですよ!?」
「敵にみすみす譲り渡す行為です!到底看過出来るものでは――」
「120万を迎え撃つのに、20万と26万、どちらがいいか?」
彼の言葉に多くが黙ってしまう。
こんなこと、皆わかっているのだ。
前回の最終戦略目標を手放すことが、感情的に受け入れがたいだけで。
――かくいう僕も同じだ。
転進による絶対国防圏の縮小。
聞こえは最悪だが、この戦況だ。
やるほかなかろう。
「…総長殿宛です。」
ささっと伝令が僕の足元へ滑り込み、紙切れを渡す。
帝都からの緊急電報だ。
何事だろうと開いてみて、言葉を失う。
「――…ッ!」
そうか。
もはや、手遅れか。
殿下から届いたその内容は、一つの帰結を僕に与えていた。
なにか激励を飛ばしているような児玉の言葉も、耳に入らない。
くしゃりと電報を握りしめる。
訓示、そして一礼と解散。
直後に僕は児玉目掛けてつかつかと歩み出していた。
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