第5話:Seclusion






 短いながらも原動機が欲しくなるような急な上り坂を立ち漕ぎで登り切ると、今度は緩やかな下り坂が続く。12月の乾燥した冷気に露出した顔面を冷やされながら、斑鳩はペダルを漕ぐ足を止めて惰性で道を進んで行った。

 しばらく進んで行くと赤信号に引っかかり、ブレーキを握りしめてゆっくりと止まる。止まると余計に寒さを感じて思わず体を前屈みにして丸めるが、背中に背負った大きな鞄の中身が傾く感触を感じるとすぐに背筋を伸ばした。

 ハンドルに引っ付けたスマホの画面に目を落とすと、目的地までの経路を示す地図の画面が映されており、現在地の三角形が赤いピンに触れそうな位置に表示されている。この信号を抜けたすぐ先に目的のアパートがある。

 横の歩行者用信号が点滅し始めたのを視界の端に捉えると、ブレーキを握る手の力を徐々に弱めていく。車の脇をじりじりと前進しながら、頭の中で秒数をカウントし、ペダルに足を掛け直す。

 そして、青いランプが点灯した瞬間に漕ぎ出して勢いよく停止線を越えた。

 信号を抜けて左の脇道に入ると、すぐに目的地のアパートに到着する。エントランスはなく、建物の名前が書かれたプレートが付けられた壁のすぐ隣にポストが並んでおり、わざわざ中から開けて貰う必要はないようだ。

 スカスカの駐車スペースの端に自転車を停めると、斑鳩は階段を上がって3階まで行き、廊下を突き当たりまで進んでいく。

 "307"と書かれたドアの前に正対すると、斑鳩は肩紐から右腕を抜き、背負っていた鞄を体の前で抱えた。そして、インターホンに向かってゆっくりと右手を伸ばす。

 人差し指にグッと力を込めると、ボタンが沈んで、ピンポン。という呼び鈴の音が耳に届いた。それから程なくして、はい。と、少し高い男の声が同じスピカーから発せられる。

 「ウーバーでーす。お届けに来ました」斑鳩はそう言うと、鞄のチャックを開け、漏れ出るスパイスの香りに刺激される欲望を抑えながらカレーライスが入ったビニール袋をドアの横にそっと置いて、すぐに自転車の場所まで戻っていった。

 郊外でありながらも、新宿と横浜に1本で行けるハブ駅から徒歩でおよそ10分で、なおかつ家賃もそこまで高くない家具家電付きのアパート。そんなところに住んでおり、平日の昼過ぎに駅前の店のカレーをわざわざ割高の出前で注文するという怠惰を極めたような人物。

 斑鳩は自転車のサドルにまたがりながら上を見上げ、品物を受け取りに出てきた男の姿を凝視する。

 「また外れか」斑鳩は残念そうにそう呟くと、スマホの画面に指を触れ、次の配達依頼を探す。

 出てきた男の姿は、太った背の低い男という予想に反して、割と背の高い細身の男だった。客の姿を予想する遊びはこれで3連敗で、今日の通算は5戦1勝。住居の条件に注文した時間と品物は、身分の予想には十分だが、風貌の予想にはまったくもって当てにならない。

 配達を初めてから3日が経った。運んだ件数は今のカレーを含めて19件。報酬にして約9500円。安いと思っていたコンビニバイトを下回る割の合わなさを感じる。だが、宮津の指示である以上文句は言っていられない。

 初日と昨日は横浜と逗子の境を行ったり来たり。そして今日は座間周辺。妙に具体的な場所の指定だけで、そこで何かをしろと言ったわけではなかったが、場所の共通点を考えれば自ずと宮津の意図は読めてくる。

 アメリカ軍人の居住地の近くを嗅ぎ回り、不審な動きがないか探る。そのために怪しまれずに住宅地を動き回れる配達のバイトをしろということだろう。

 しかし、注意して周りを見ていたものの、不審な動きはおろか、アメリカ人と思しき人間の姿すらまともに見掛けていない。

 スーパーから病院、おまけに娯楽施設まで基地や居住地の中にあると聞いたことがあるが、どうやらそれは本当らしい。

 宮津は期限を指定しなかったが、このまま無闇に配達バイトを続ける意味はあるのだろうか。斑鳩の脳裏にそんな疑問が浮かぶ。

 いや、だからこそ"バイト"なのだろうか。何もなければこちらの判断で勝手に引き上げて違う場所に行っても文句を言われる筋合いはない。むしろ、その判断を委ねるという意味で宮津はそう言ったのではないだろうか。

 我ながら、コスパの悪いバイトを辞めるための都合のいい解釈だと思うが、宮津のことだ、それくらい想定してくれているだろう。

 斑鳩は設定しかけていた次の目的地を取り消すと、スマホを閉じ、さっき来た道を戻って駅を目指した。 苦労して上った急な坂を、今度はブレーキを握りながらスピードを抑えてゆっくりと下っていくと、タイミング悪く赤信号に足を止められる。今日はなんだか間が悪い気がする。頭の中でそうぼやきながら、ボーッと進行方向の先へ視線を延ばす。

 すると、信号の先で同じく足止めを食らっている対向車に無意識のうちに視線が吸い寄せられる。全体的に角張った黒のSUV。その鼻先に付いたエンブレムは、漢字の"田"を縦に引き延ばしたような見慣れないデザインをしている。エンブレムからそのまま上へ視線を上げると、運転席には人の姿がなく、助手席にサングラスを掛けた外国人らしき男が乗っている。

 すぐにそれが左ハンドルであることに気が付いたが、それよりも今更外国人を発見したことが今日の間の悪さを自覚するのに拍車を掛けた。そうこうしている内に信号が青へと変わり、斑鳩はペダルに足を掛けて一歩目を漕ぎ出した。その瞬間、勢いよく発進した対向車はあっという間にすれ違って視界から消えていった。

 最後列のシートの真ん中に深く身を預けながら何かに視線を落とす髭の男の姿。その刹那とも呼べる時間、確かに捉えたその光景が、不思議と斑鳩の脳裏に焼き付いて離れなかった。






 「何度見ても壮観だね」和泉はそう言いながら、フェンスにしがみつくように港に接岸する空母ロナルド・レーガンを見下ろした。すると、その背後に佇む軍服の男が口を開く。

 「I'll sad to say goodbay to you soon.(もうすぐ君とお別れかと思うと名残惜しいよ)」母国に帰るのが嬉しいのだろうか、言動とは裏腹にその表情は実に晴れやかだ。

 「Me too.(僕もだよ)」一方、和泉のこの言葉は本心から来るものだった。空母が入港してから2,3日経ったある日、残置物の処理のために横須賀の病院を訪れる際に出会ったのがこの男。

 たまたま怪我の処置をしてやったのが縁で、その後もここへ来るたびに顔を合わせていた。聞くところによると、空母の乗員だそうで数々の武勇伝を聞かせて貰ったが、結局最後までお互いに名前は名乗らずじまいだった。だが、それでも十分に友人と呼べる存在だ。

 「No warries. We'll be there in a heartbeat when Tomodachi are in danger.(心配すんな。危なくなったときにはすぐに駆けつけてやるさ)」

I hope the time never come.(そのときが来ないことを祈ってるよ)」すると、男はアメコミさながらに、hahahaと声を上げて笑った。それにつられるように、和泉もクスクスと笑う。

 宮津から横田での話を聞かされて一応警戒はしていたものの、怪しい素振りなど一度も見せることなく、何の収穫もなく終わってしまった。

 そう落胆する気持ちの一方で、同時にこれ以上この男を疑わなくて済むと安心する気持ちも抱いていた。このまま何事もなく月日が過ぎ、また再会するときが来ることを願うばかりだ。

 和泉が少ししんみりとした顔をしていると、男はひとしきり笑い終わって気が済んだ様子で和泉の肩をトントンと叩いた。

 「By the way, I've heard an interesting topic. I'll share it you.(そう言えば、面白い離し聞いたんでお前に教えといてやるよ)」囁くような声でそう言われ、和泉は聞き逃さぬように男の顔を注視して感覚を研ぎ澄ます。

 「There's rumor that there's a fuss about bacillus leak back home. It that it might be anthrax, which is in an Army lab. I wonder what they're doing.(今、本国の方じゃ細菌が流出したって大騒ぎらしい。それが陸軍の研究所の"anthrax"じゃないかって噂だ。ほんと、なにやってんだか)」しばらく生の英語を聞いていなかったが、意外とさらりと聞けるものだ。と、和泉は自分のことながらに関心した。しかし、一方であるワンフレーズだけが引っ掛かって上手く頭に入ってこなかった。その残されたワンフレーズを自身の知識と記憶を総動員して日本語に変換しようと試みる。

 "anthrax"確か疫学か何かの教科書で目にしたような気がするが……

 「You like that kind of thing, don't you?(お前、そういうの好きだろ?)」必死に考える和泉の顔を見て、男は満足そうな表情を浮かべる。そして、同時に発されたそのひと言に和泉は思わず思考を止め、息を呑んだ。

 何かを探ろうとしていたことに気づかれていたようだ。この男がただの陽気なアメリカ人ではなく、一般人とは比べものにならないほどの洞察力、危機察知能力を身につけた軍人であることを一瞬でも忘れるべきではなかった。

 「Next time I see you, I'll tell you the truth about the rumor. See you later.(次会ったら噂を真相を教えてやるよ)」男はそう言って手を振りながらこの場を後にした。

 どうやら、まだただの噂好きだと思ってくれているようだ。だが、今後はもっと自分の振るまいに気を付けなければならない。今度相対するのが陽気なアメリカ人であるとは限らないのだから。

 反省はひとまずそれくらいにしておいて、再び記憶を辿り始める。すると、1度別のことを考えたことがかえって功を奏したのか、言葉の意味と記憶がすぐに繋がった。

 "anthrax"とは細菌によって発症する感染症のこと。だが、それが流出したと言っているということは、恐らく細菌そのもののことを指しているのだろう。そして、宮津曰く、今日本にはアメリカ陸軍の感染症の研究者が滞在している。

 つまり、これが意味することとは……

「まさか、炭疽菌が日本に……?」





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