動機
瑚ノ葉
動機
誰もいない図書室を出て、夕焼けが光る廊下を、早足で歩く。一度外に出て、本校舎から少し離れた、古びたコンクリートの旧校舎に入る。
壁の塗装が剥がれて欠片になったものが、ところどころに落ちている。それを何となく避けながら、埃がひらひらと舞う階段を登り、二階にある教室の扉を開けた。
ガラガラガラ。
立て付けの悪い引き戸は人気のない廊下に音をよく響かせる。
そんな音に振り向くこともなく、悠はスケッチブックに絵を描いていた。
「悠、美術室にいたのか。お前がいつのまにか図書室からいなくなってたから焦ったぞ」
悠は返事をせず、鉛筆を動かしている。
「おーい? 悠? 何描いてるの?」
…………。
絵を描いて、今日も元気に、完全無視(フルシカト)!
思わず一句できる程華麗な無視だぜ。
相変わらず、集中したら止まらない奴だな。
教室は悠とおれ以外誰もいなかった。
久しぶりに絵を描いている悠を見た気がする。もちろんおれが見ていないだけで、おれが文芸部で小説を書いている時、悠は美術部で絵を描いていたに違いないのだが。最近はずっと隣で本を読んでいたし、あまり忙しくなかったみたいだな。
扉を閉めて、美術室を見渡した。
教室の棚、教室の後ろの方には石膏像や瓶、不思議な形をしたオブジェなどがある。おれはわくわくしながら、それをひとつひとつ見て回った。
「おぉ……すげぇ、瓶がたくさんある。ポーションとか入ってそうだな。おっ? こっちは? ロープ? なんで? あっ、これは色の見本か? へぇ、いろんな色があるんだな……。うわっ、なんだこれ! でか! 頭骨だ!」
「うるさい。でかいのはお前の声だ。静かに観賞できないのか」
悠が呆れたような声を上げた。
おれは悠の方に振り返って言った。
「おっ、悠、絵の調子はどうだ? 悠はもうちょっと他人からの干渉に柔軟になった方がいいぞ」
「ふん、お前は一人で感傷に浸ることなどなさそうだな」
「なんだとっ、失礼な! おれは未来の作家だぞ? 繊細な心を持ってるんだよ。感傷……それがあったか思い付かなかった……」
悠はふふんと鼻をならした。
そして先ほどおれがみつけた頭骨に目をやった。
「ちなみに、その骨は牛の頭だ。棚にあるものは全部デッサンに使うものだ」
「デッサンかぁ、なるほど……。確かにロープ描くの難しそうだな。端っこほどけてるし」
「まぁ、な」
悠は少し目を伏せた。
スケッチブックに向き直り、手を動かし始めた。
悠の後ろにまわって、そっとスケッチブックを覗き込んだ。
「うまっ……え? 上手くね? すげぇ……」
描かれていたのは今いる教室の窓辺だった。
光の入り具合から察するに、ちょうど今と同じ時間帯の、夕方の窓辺。
悠は手を止めて、息を吐き出した。
「そんなことない。これはメモみたいなものだ。練習すれば、この程度お前でも描ける」
「それは嘘だ。お前、おれの絵心のなさ知ってて言って……」
「無論知っている。絵には壊滅的なセンスしかないお前でも、一ヶ月もあればこのくらいは描ける、と思う……」
「いやそこはちゃんと言い切ってくれ。悲しくなるだろ! ていうか、おれはいいんだよ。小説書く方がいいから。悠はどうして絵を描いてるんだ?」
沈黙が流れる。
悠は、窓をみた。
つられておれも窓を眺めた。
まるで赤い水槽の中にいるかのようだ。窓ガラスから陽光が斜めに射して、教室の中を満たしている。夕陽に染まった世界に、おれと悠が立っている。その風景に、言い知れない感動が水の泡のように浮かび上がっていく。
「綺麗だな」
おれがそう言うと、悠は頷いた。
「お前なら、上手いこと、この景色と感動を伝えられるのか」
「どうだろう。自信はない。けどうまく伝えたいな、こんな素敵な景色は。悠は、これを伝えたいから絵を描くのか?」
「…………いや、というより」
「うん?」
「……描きたいから描いている」
……描きたいから?
普通の動機のはずなのに、何故か理解に時間がかかった。
「…………おれは、書くのが楽しいから小説を書いてる。書きたいと思う。悠も、同じか? 描きたいと思うから、描いている?」
「……たとえば、デッサンは、描かないといけないものだ。絵もたまに、描かなくてはいけないものがある。授業だったり、課題だったりすることがあるからだ。だから描くしかないんだ。本気を出せば誰でも描けるような絵でも。その上で、自分は絵を描きたいと思っている」
悠は窓を見つめて言った。
「この景色は、今この瞬間にしか見れないものだ。それを、描き止めておきたいと思う。描きたいと思う。昌とは少し違う」
悠は鉛筆を持ち直し、絵を描き出した。
おれは悠の後ろに座って、その姿を眺めていた。
日がとっぷり暮れて、空が暗くなった頃、悠は鉛筆を置いた。
そしてスケッチブックを鞄にしまった。
「悠は、描きたいと思うから描く。おれもそうだ。けど、おれとは少し違うのか」
悠がゆっくり振り向き、じっとおれをみつめた。そして重々しく口を開いた。
「……昌の小説は、ちゃんと伝わってくる。自分はそれが読みたいと思う。自分と昌は違う。けど、自分はそれでいいと思う。お前と同じになれはしない」
「悠も、描きたいものを描くんだろう?」
「あぁ、けど」
「おれも、悠の絵を見たいと思うよ。悠が描き止めておきたいと思った景色を。だからほら、同じだ」
悠の動きがぴたりと止まった。
目だけが、さっと横に流れる。
「……そうか」
「おう、そうだよ」
深いため息が、悠の口から漏れる。
「見たいなら、いつでも見に来い。しばらくは、ここにいる」
おれは思わずにっこりして言った。
「よっしゃ! じゃ、おれもしばらくここ来ようっと。なんか居心地いいし、執筆も進みそうだし」
「うるさかったら放り出すからな」
「うんうん、楽しみにしてる!」
悠はちょっと顔をしかめてから、少し笑った気がした。けれどすぐに背を向けてしまった。
「あれ? 悠? どしたの?」
「帰るぞ」
悠はさっと鞄を背負って歩き出した。
「あっ、ちょっと待てって、悠」
あわてて悠を追いかけた。
「昌」
教室の扉から出る時、突然悠が立ち止まった。おれはギリギリその背中にぶつかる手前で立ち止まれた。
「え、あ、うん?」
ちらり、と悠がおれを見る。
「……絵、上手いって言ってくれてありがとうな。それだけだ」
しばらく頭が動かなかった。
ありがとう? 悠、今、ありがとうって言ったか?
「……ぼーっとしてると置いて帰るぞ」
ふっ、と空気が動いて、悠がまた歩き出した。
おれは、喉の奥で笑いを堪えながら、悠を追いかけ、その肩におぶさった。
「どーいたしまして! おれの小説も誉めてくれていいんだぜ?」
「ふん、調子にのるな。後、重い」
「ね、照れてる?」
「うるさい」
「照れてるー!」
「あー、うるさいな、蝉の声か?」
「ひどいな! それ!」
おれたちはゆっくり階段を降りていった。
すっかり暗くなった空には、三日月と星が並んで光っていた。
それを二人で見上げて、同時に息を吐いた。
綺麗だな、と小さな呟きが聞こえた。
動機 瑚ノ葉 @kono8
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