フラワーウィッチクラフト

電光

プロローグ

プロローグ「コスモス:ビギニング」


 夏が終わった。

 厳しい猛暑は過ぎ去って、ちょっと蒸し暑く感じる残暑がやってきた。

 日が沈むのも早くなって、夜になると少し涼しく感じられた。

 ジメジメした空気なせいか、ちょっと運動するだけでも汗が出てしまう。

 まだまだ夏の残したモノは色濃いままだった。


「──っ、は……!」


 湿気が多いと、当然吐く息も余計に熱く感じられる。

 温い風に跳ね返されて自分の顔に吐息がかかる。蒸し暑さを感じるほどだったが、それはすぐに消え去った。

 全身から吹き出ている汗は、全部冷たかった。

 特に背中を滑り落ちている汗は、一筋垂れるだけで鳥肌を立たせてくれた。

 ……いや、ずっとだ。ずっと鳥肌が立っている。夏なのに、ずっとずっと寒く感じられるほど。

 

「ひっ……はぁっ……はっ……誰か……!」


 胸のあたりから喧しい音がする。血液を送り込むポンプがフル稼働して、本能が危険信号を送ってくる。

 全身の筋肉が躍動して、震えそうな体を動かしていた。

 前へ前へ前へ前へ前へ──足を一歩踏み出さなければ命はないぞと脅されているかのような足取り。

 ぼう、っと頭の中に浮かぶイメージ。シンボル。髑髏。死神。じゃあ何か、今自分を追っている“アレ”はそうだと言うのか。

 

 冗談じゃない。

 

 だって──

 だから、だからずっとこうして夜になるまで勉強しているんじゃないか。何者でもない自分を何者かにするために。

 は息を切らしても走っていた。夜、予備校からの帰りに襲ってきたヒトガタの怪物から逃げるために。

 

「嫌だ、嫌だ、嫌だ……!」


 言葉はふわふわと重みを持って緊張した空気の中に溶け込んでいった。

 発してもその程度の小ささなのに、発すると体は重くなっていく。

 口を開けば生温い空気が滑り込み、規則正しく整えられていた拍子リズムを壊していく。

 嘔吐く私の体はどんどん冷えていく。おかしい。走っているはずなのに、息を吐いているはずなのに。

 上がっていくはずの体温が下がっていく。流れ出る汗がすぐに冷たくなってぶるりと体を震わせていく。

 ここはどこだろう。考える頭はない。思考は電光のように過ぎていって、全てを置き去りにしていく。

 ここがどこかを問うている暇があったら逃げろ。そう叫んでいる肉体の危険信号を受けて、すでに疲れ果てている体を動かしていた。 

 それだけでも私にとっては異常だったのだ。文系の部活に所属している私は率先して体を動かすようなことはしていない。強いて言うならば朝の散歩くらいだけど、それだってその程度だ。こんなに劇的に体を走らせることができるわけじゃない。

 

 だけど、今は何故どうしてを言葉にしている暇はない。

 一瞬だけ、一瞬だけ見たのだ。

 真っ黒いヒトガタ。街灯の下に照らされたその姿は、まるで虫──トンボのような感じがした。

 背中の羽根が透き通って綺麗だな、なんて思ったことはない。涎のようなものを口から垂らして、それが一滴一滴地面に落ちるたびにフライパンに何かを押し付けたような音がする。

 足が動いたのはそれからだった。

 手が動いたのはそれからだった。

 頭は動かなかったが、体は動いてくれた。

 吐き気を催しながらもそれを抑えて──ただひたすらにこの体は闇夜に向かって駆け出したのだ。

 ……死神の鎌から、逃れるために。


「あ──」


 世界が引っくり返った。

 じわりと靴下が滲んだ気がした。生暖かい感触が広がって、ぐじゅぐじゅして気持ちが悪かった。ぬめりを感じさせるそれと、鉄のような臭いが正体を突きとめてくれた。

 一気に吐き出したかった。何も食べてないけど、畝りを見せるものを吐き出したかった。

 何よりもそれを押しとどめていたのが激しい刺激と痛みだった。足から脳まで一直線に走る電撃が、頭の中を掻き乱した。

 ぐちゃぐちゃに犯す衝撃の正体は、が全てを物語る。

 糸を引くようにして赤黒いものが見える。死神の鎌が足を貫いていたのだ。怪物の強靭な腕──いや、腕そのものである鋭利な棘が。

 異臭がさらにイメージを強くさせた。薄暗い街灯の中で照らされた自分の足が真っ赤に染まってて、目の前にはトンボみたいな、としか形容できないヒトガタの怪物がいた。

 

 目の前の怪物がぱっくりと口を開けて。

 醜悪な牙を見せつけながら異臭を吐き出し、不快な音を立てながらこちらを見て。

 そうして微笑んだ瞬間──私はただ、慟哭していたのだ。



 それから先は覚えていない。

 一つ、私は生きていた。

 一つ、気づけば花畑の中にいた。

 一つ、私の手の中にはコスモスが一輪、咲いていた──。

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