二十四時間の焦燥

月波結

第1話 恋だと思っていた(葉月)

「陸、卒業したら東京に行くの?」


 思い切って一息に言ってみる。こういうことは、思い切りがなければとても口に出せない。

 隣を歩く陸が、ちらっとわたしの顔をのぞく気配がした。

「誰から聞いた?」

「佐々木」

「あー、あいつ、何でもしゃべるよな」

 否定とも肯定とも、取れる答えに続きがあるのか耳を澄ませる。

 陸が手で押す自転車のスポークが回るカラカラという音だけが、近くに聞こえた。

 オシャレのためだけに真夏になってもまだ着続けている紺のニットベストが、リュックを背負う背中に必要以上の汗をかかせる。遮蔽物のない通学路は、容赦なくわたしたちを照りつけた。


 わたしたちの高校は小高い丘の上にあって、裏門から細い道を下って線路をまたぐと、あとは駅まで一直線に田んぼの中の農道を歩くことになる。

 夏はただただ暑くて、冬は吹き抜ける風が肌にしみる、そんな通学路だ。

 いつからか、本当にきっかけもわからないくらい自然に、ある日たまたま一人で歩いていたわたしを追い抜いた自転車が、ブレーキをかけて止まった。

 まったく目の前に危ない自転車だな、と少し頭にきているとその自転車から降りたのは陸で、陸はわたしを振り返った。

「……葉月、一人なの?」

「うん、そういう日もあるよ」

 普段、一緒に帰る友だちは部活だったり、委員会だったり、他の友だちと約束してたり、そういう日がないわけではなかった。だからと言って、それをわざわざ聞いてくるのはちょっと失礼じゃないかと思った。自転車を止めてまで。

 わたしはそれ以上、何も無いという顔をして歩き出した。

 すると何故か、陸も自転車を引いて歩き始めた。

 わたしたちは並んで歩くことになった。

 ――なんでこんなことになったのかな?

 よくわからなかった。一緒に帰ってるってことに分類されるのかもしれない。

「まぁ、そういう日もあるよな」

と今さらのタイミングで陸が言うから、調子が狂う。「あるよ」と呟く。


 陸とは二年生の時、委員会が一緒で何回か話したことがあった。とは言え、それは仕事について話しただけで、その時わっと盛り上がったわけでもなかったし、個人的なことについて話したりはしなかった。

 静かに話す人だな、という印象で、近くにいると少し意識するようにはなった。

 三年生になるとクラス替えがあって、本当に偶然、同じクラスになった。

 席が近くて、わたしの隣の席の佐々木と仲がよく、休み時間になると佐々木とちょくちょく話をしていた。そのうち、おしゃべりな佐々木はわたしに絡むようになり、二人の話の中に巻き込まれるようになった。

 わたしたちはそういう仲だ。


 その、「あるよな」の日から度々、一人で歩いていると背後から自転車の走ってくる音がすーっとして、キッと小さい音をたてて自転車が止まると陸は、わたしと並んで歩くようになった。

「よう」でも「おい」でもなく、何も言わずに自転車を引く彼の方が顔を下向きにして歩き始めるから、何を言っていいかわからなくなる。

 リュックの持ち手を両手で引いて、気まずさを紛らわせるために言葉を選ぶ。


「今日の佐々木、おかしかったよねー?」

「いつもだけどな」

 次に繋ぐ言葉に困る。共通の話題、共通の話題……。

「週末の漢字テスト、プリントもうやった?」

「少し」

 陸はやっぱり言葉少なげで、いわゆる言葉のキャッチボールが難しかった。そのうちなんだかそのままでもいい気がしてきて、無理に話題を作るのはやめた。

 そうしてその頃になると、帰りに誘ってくる女友だちはいなくなった。


「行くの? 東京」

 それはわたしにとって、ひどく大切な問題のように思えた。陸が東京に行ったって、行かなくたって、卒業してしまえばこの道を一緒に歩くことはどのみちなくなる。なのにどうしても、本人の口から聞きたかった。

「……うん。前から行きたいとこ、あって」

「あー、そうなんだ。四年制?」

「うん」

 おかしなことにやらなくていいことをやっちゃった感じがして、気まずさに足元を見る。親にねだって買ってもらった本革のローファーがアスファルトを蹴る。

「陸はできるもんね。評定良さそう。わたしとは違うもん」

 そんなことないよ、とか、そういう謙遜もなく彼は彼らしく黙った。ああ、もう駅まで半分のところを過ぎた。そんな変な褒め言葉を言いたかったわけじゃない。


「卒業したら、バラバラだね」

「……」

 ハンドルを握ってうつむきがちだった彼はふっと顔を上げた。鼓動が激しくなってくる。何を聞きたいんだ、わたしは?

「そうだな」

 そうだな、つまりみんなバラバラになるってことだ。つまりわたしと陸も離れ離れになるってことだ。わたしたちの繋がりはあるように見えて、実はそれはわたしの自惚れだったんだ。

 ……そうだ。一人で帰っているわたしを、ただ不憫に思っただけなんだ。

 東京に行くなんて知らなかった。毎日のようにこの道を二人で並んで歩いたのに、ほとんど話らしい話もしなかった。それはつまりそういうことだ。これはなんの意味もない、特別なことではなかったんだ。

「バラバラだな」

 陸の目を見る。隣を歩く彼の目を真っ直ぐに見つめることができない。真意がわからない。

 後ろを歩く、女の子たちのグループが何かが面白くてケタケタ笑った。

 わたしたちの間には自転車の引かれるカラカラという音しかなくて、その音が壁のように彼とわたしを隔たっているような気がした。

 触れられない壁がある。

 わたしはどうやってもそれを越えられそうになかった。


 単線のローカル路線の電車には、うちの高校の子しか乗っていない。始発駅で停車していた電車に乗り込む。

 たまたま席がほどよく埋まっていて、家までの二駅、立っていることにする。

 銀色の、閉じたままの扉に寄りかかってスマホを開く。頭の中はさっきの会話でいっぱいだ。

 卒業したら陸は東京に行って、みんなバラバラになる。

 それはきっと、当たり前のように会える生活は終わってしまうということを意味しているんだろう。つまり、エンドマーク。

『終わり』だ。

 わたしたちは卒業するまで、まだ何度もあの道を一緒に歩くんだろう。でも歩いた道の先には何も無くて、そこでわたしたちも終わる。それとも終わるまでの過程が重要なんだろうか? いわゆる、思い出作りってやつ?

 高校生らしい、甘酸っぱい感じの。


 列車はゆっくり走り出す。

 途中、いつもと同じところでガタンと大きく揺れる。銀色のバーにつかまって、転ばないようにつま先に力を入れる。

 見つめていたスマホのディスプレイに涙が落ちた。

 恋だと思っていた気持ちが、木っ端微塵に打ち砕かれた。

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