疫病神現る⑤
その後も裏山は受難続きだった。道を歩けばドブに足がハマり、電柱に顔から激突したり、急に腹を壊しトイレで用を足そうとしたら紙が切れており、しかたなく他のトイレに駆け込めば満室だったりと、地味だが嫌な不幸が絶え間なく次々と彼を襲って来た。元々神経質で鋭敏な彼にとっては、まさしく生き地獄といえる時間だった。いつ襲ってくるかも知れぬ不幸の連鎖。裏山は些細な物音や気配に過剰に震え上がったり、大声で怒鳴ったりした。本人は必死だが、はたから見ればお笑い草でしかなかった。喜劇も悲劇も紙一重である。そう、今彼はスプラスティックコメディの登場人物の気分だった。
水道を流す音とともに、公園にぽつんと設置してある薄汚い公衆便所から、腹を押さえながら死んだ顔の裏山が現れた。いつもよりもゲッソリしているように見える。目元は暗い影が覆っていた。彼が便所から外に出て、最初に目に飛び込んできたのは数人の子供達だった。皆、意地の悪そうな笑みを浮かべていた。一人の少年が言った。
「兄ちゃんすげえ音だったな。外からでもメチャクチャ聞こえたぜ」
「工事現場みてえな音してんな」
裏山はただ黙っていた。何か言い返す気力もなくなっていた。それ程までにメンタルをやられていたのである。
反応が無い彼に飽きた少年達がいなくなると、裏山は付近のレンガ花壇に腰かけ、魂が飛び出そうな程の大きい溜息をついた。
「トホホ…かれこれ2時間は歩き回ったが、成果なし、か。一体どうすりゃいいんだ…」
裏山が珍しく弱音を吐いていると、厄病神がおちょくるように言った。
「今日はもう諦めて帰ったらどうじゃ?外は危険がいっぱいじゃからのう」
「簡単に言ってくれるよな。どうせ家にいようがこの『負の連鎖』は続くんだろ?第一お前と一緒にベッドに寝るなんざ、想像するだけで吐き気がするね」
そう毒を吐いていると、どこからか迷い込んだのか雑種の野良犬が彼の足元へ歩み寄って来た。舌を出して尻尾を振りながら無垢な瞳で彼をじっと見据えている。裏山は思わずたじろいだ。こんな犬一匹に怯える程、疑心暗鬼に陥っていたのだ。
「何だワン公。俺様に噛みつきやがったらただじゃおかねえぞ」
野良犬はそんな哀れな彼の足元に、人懐こく縋り寄って来た。裏山はそれを見て、ほんの少し緊張が緩和した。
「お前慰めてるつもりか?優しいねえ。だけどワリいな。餌なら持ってねえぞ」
荒涼とした世界に現れた突然の癒しに感動し、裏山が破顔していると、妙な音と共に足首に生暖かい感覚を覚えた。
うっ!こ、こここれはっまさかっ!?
見ると、ご想像通り犬が片足を上げて彼の足に放尿していた。
「ギャアアきったねえ!この畜生!あっち行きやがれ!シッシッ!」
拳を振り上げて威嚇すると、野良犬は鳴き声を上げ、小便を垂れ流しながら走り去った。
「ホッホッホ!どうやら油断したようじゃな」
「……もう何も信じねえ…何も信じられねえ…」
裏山は涙目になりながら腰を上げると、その場を後にした。
彼はその後も懲りずに街を練り歩いていた。既に夕方に差し掛かっていたが、とにかく何としても今日中にこの疫病神を誰かに押し付けるつもりでいた。彼の決心はダイアモンドのように硬かった。閑静な住宅街をうろついていると、前方の『駐車禁止』の標識の傍に何やら物々しい雰囲気を醸し出している連中がいた。裏山は隅切りに隠れて様子を伺った。如何にもゴロツキといった風貌の二人の男が、塀を挟んで三人の少年達にガンを飛ばしている。よく見るとその少年達はさっき駅前の広場で会った裏山の隣人のガキ共であった。三人とも、蛇に睨まれたカエルの状態で竦みあがって涙目になっていた。ゴロツキの茶髪の方が言った。
「あ~いって~これ絶対全身骨折してるって~。お前ら治療代だせよ~おい~」
もう一人の背の小さい方が言った。
「おとなしく言う事聞いた方が身の為だぞ~?ノブ君前科ヤバいから。マジで前科ヤバいから」
少年達が言葉に詰まっていると、『ノブ君』とかいうゴロツキが真ん中の少年に対し、壁ドンした。少年はひっと声を漏らした。
「おい、出せっつったら出…」
「そこまでだこのド底辺共。小学生相手にカツアゲして箔つけた気になってんじゃねーぞ」
ノブ君は言葉を遮られ、声のした方に振り向いた。するとそこにいたのは勿論、裏山椎名。塀に片手を突いて妙に気取ったポーズを取っていた。少年達はまさかのヒーローの登場に、開いた口が塞がらない様子だった。小さい方が噴き出した。
「何だあいつ」
「おいガキ共、とっとと逃げな」
裏山が指で合図すると、少年達はゴロツキの隙を見て、すたこらさっさと逃げ出した。
「サンキュー!キモロン毛!」
「一言余計なんだよクソガキ…」
それはそれとしてだ。今、目の前にいる奴らならば、この疫病神を押し付けても心は痛まないだろう。幸い、ここなら誰の目にもつかねえ。どちらに押し付けるかは両方コテンパンに痛めつけてやった後、ゆっくり考えるとするか。
裏山は不敵な笑みを浮かべ彼らの方へ一歩踏み出した。
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