変なヤツ
「俺にはほとんど感情がないからな」
常史江の突拍子もないセリフに千佳は目を丸くし、その数秒後吹き出した。
常史江はその様子を生気のない目でぼんやりと見ていた。
「何それアンタ、チューニビョーってやつ?」
千佳はゲラゲラと笑った。
「その病名は初耳だな。どういった症状の病気なんだ」
彼の大真面目な質問に千佳は面食らった。
「なんでもないよ。で、その感情が無いってのは生まれつきのものなのかい?」
常史江は腕組みをして返答した。
「いや、俺も昔はそこら辺の感受性豊かな子供だったよ。友達と校庭を走り回ったり、夏休みにカブト虫やクワガタを捕まえて大はしゃぎしたり、それだけで最高に楽しかったもんさ。朝起きる度に幸福な気持ちになったよ。オーバーな言い方だが世界が輝いて見えた」
そういうと常史江は小さくため息をした。
「ただ、あの日を境に全ては変わったんだ。俺はこの世界の真実に気付いてしまった」
千佳はまたも吹き出しそうになったがぐっと堪えた。
「何さ世界の真実って。私にも教えてよ」
千佳は常史江に詰め寄った。
「言ってもどうせ信じないと思うけどな。それに知るもんじゃないぜ。知らぬが仏だ。どうしてもというなら話すよ」
千佳はすぐに首を縦に振った。
常史江は饒舌に語りだした
「あの日の事は鮮明に覚えているよ、13の時だ。俺は夜、家で両親とテレビを眺めていたんだ。毒にも薬にもならない何かのバラエティー番組さ。そろそろ寝ようかな、と思って部屋を出ようとしたんだ。その時さ、俺は突然言いようのない感覚に襲われた。今まで味わったことのないものだった。目の前にある光景がひどく現実味のないものに見えた。傍にいた両親すらもまるでマネキンのように見えたよ。世界や自分そのものが作り物のように感じられた。俺はわけが分からなくなって逃げるようにベッドに潜り込んだよ。だが次の日になってもその感覚は消えなかった」
千佳はその話を聞いてどう反応していいものかわからなくなった。
常史江の表情から感情は読み取れなかったが冗談を言ってるようにも見えなかった。
千佳はふと、離人症という言葉を思い出した。たしかフランスの心理学者が提唱した精神病であり、その症状は先ほど常史江が述べた内容と酷似していた。
今、目の前にいるこの若者はまさにそれではないのか、と千佳は疑った。
「それから俺はあっという間に無気力になったよ。何をするにも億劫だった。あらゆることに関心を失ったよ。小さいころの大切だった記憶も下らないものに思えた。言葉で表すことは難しいが俺の中に実感としてあるんだよ。この世界がフィクションだという感覚が」
数秒間の沈黙が訪れた。
「へ、へえ」
千佳は何とか上手く返そうと思ったがでてきた言葉はそれだけだった。
「ほら、微妙な雰囲気になっただろう。だから信じないと言ったんだ」
「い、いや、あまりにも荒唐無稽な話だったからさ。でもさ、アンタが言う通りこの世界が作り物なら逆に一体何なのさ?誰かの夢?妄想?それとも漫画?小説?なんにせよつまらない内容だね。私はもっと楽しい刺激的な世界に生まれたかったよ」
「そこまでは俺にもわからん」
常史江はぶっきらぼうに言った。
妙なヤツだ。千佳はそう思った。
千佳は手の甲に冷たいものを感じた。どうやら雨が降り始めたようだ。
「雨か。つまらない話に付き合わせて悪かったな。戻るとするか」
そう言って常史江は立ち上がった。次いで千佳も立ち上がると二人は小走りで屋上を後にした。
階段を降り二階の廊下に戻った時だった。
廊下の最奥で小柄の生徒が金髪の生徒に蹴りを喰らわされているのを千佳は目撃した。
それは男子同士の馴れ合いのようなものではなく、いじめだと誰の目にも明らかだった。
金髪の方は野田といい、自分より格上の者には媚びへつらうが下と判断した者には一転して横柄な態度をとる典型的な小物だった。
小柄の見るからに気の弱そうな生徒は田畑といい小、中、高といじめられぬいた生粋の
いじめられっ子だった。二人の近くに数人の生徒がいたが、気にも留めていないようだった。
彼らにとってその光景は『いつもの事』だったし別段気を引く事でもなかったのだ。
常史江もその様子に気付いたのか、歩みを止め二人を凝視した。
「最悪だね、ああいうの」
千佳はそう呟いたが自分じゃあの状況をどうする事も出来ない事を知っていた。
以前教師に相談したことがあったがその教師は薄ら笑いを浮かべるばかりでろくに動いてくれなかった。
千佳は自分の無力さや田畑に対する罪悪感を感じた。
すると何を思ったのか常史江が二人に向かって歩みよった。
「ちょ、ちょっとどうする気なのさ?」
呼びかけに応じず常史江は二人の傍まで近づいた。野田が彼に鋭い眼光を向けた。
「んだよ転校生。俺達ただ遊んでるだけだよなあ?」
そう言って野田がまた田畑の太腿に蹴りを放った。
「う、うん」
田畑がぎこちない笑みを浮かべた。だが目が笑っていなかった。
常史江が腕組みをして言った。
「いや、素朴な疑問なんだが人を殴ったり蹴ったりするというのは楽しいのか?」
野田はポカンと口を開けた。
「なんだお前、お前も殴りたいのかよ。いいぜほらやれよ」
野田は田畑を指さした。
「どれ」
次の瞬間千佳は目を疑った。常史江が抱えていた辞書で野田の顔面を殴りつけたのである。
「ぎゃお」
ばんっという音とともに鼻血が宙を舞った。周囲の生徒達が一斉にどよめいた。
「そんなに楽しくないな」
「て、てめ覚えてろ」
捨て台詞を吐いて半泣きになった野田は鼻を抑えておぼつかない足取りで去っていった。
「悪いがどーでもいい事はすぐ忘れちまうんだな」
そう常史江は独りごちるとまた辞書を小脇に挟んだ。
彼が周囲に目をやると野次馬達はそそくさと立ち去った。
「ど、どうもありがとう…」
田畑が蚊の鳴くような声で言った。
「いや、気にしなくていい。それよりそろそろ授業の時間だぜ。戻った方がいいかもな」
田畑は何かぼそぼそと呟くと、常史江に頭を下げて走り去った。廊下には常史江と千佳の二人だけが残った。
「び、びっくりしたよ。でもなんかスカッとしたかも」
「そいつはどうも」
常史江は気だるそうに言った。
「でも後が怖いよ。アイツ根にもつタイプだからね」
「まあ、なるようになるだろ。教室に戻ろう」
彼は涼しい顔をして歩き出した。
やっぱり変な奴だ、と千佳は思った。
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