純白の激情

「加賀美先生!」


 十二月に入って数日が過ぎた日の放課後。いつものように国語科準備室に向かおうとしていた栞は一人の生徒に呼び止められた。


「どうした、竹束たけつか


 普段あまり話すことのない生徒が軽く息を切らせていた。赤薔薇寮であるため白薔薇寮の生徒より顔を合わせる機会も少なく、今まで積極的に会話をしたこともない。

 大人しい生徒であるということもあったが、彼女がこの櫻ノ宮でも珍しい『事情のある』生徒であったことが大きいかもしれない。家は全国的な展開を見せている大企業のトップなのだが、彼女の母親は妾であり、そのことが引き金となった事件で罪科に処されていた。もちろんそんな母親を持つ子供に実家での居場所があるわけもない。かと言って捨て置くわけにもいかないし、下手に外で自由にされても困る。結果としてこの櫻ノ宮に入れられたようで、長期の休みでも寮に残ることの多い生徒だった。


「あの話は本当ですか?」

「あの話?」

「年末年始に行われる行事のことです」


 そう言われて思い当たるのは一つしかない。御門と前に話した年末年始に寮に残る生徒と初詣にでも行こうか、というやつだ。

 それにしたって生徒たちの情報ネットワークというのも甘く見てはいけないものだと思わされる。栞と御門の二人の寮監からという形で教員たちに提案されたのがついこの間。実際にそれが認められたのは今朝の職員会議でのことだった。

 一部、教師と生徒の馴れ合いを嫌う桑田のような教師から反対の声が上がったが、多くの教師は「良い考えだと思う」と好意的に受け止めてくれた。たぶん年末年始にすら実家に居場所のない生徒たちのことを思うと、という気持ちがあったのではないかと思う。

 なんにせよまだ生徒たちには告知もしていないのだが、蛇の道は蛇というものがあるのかもしれない。


「早耳だな。今のところは仮の話だが、このままならやることになるだろう」


 言うと竹束はその表情を明るくした。普段はもっと日陰にいるような表情をしているのだが、明るくした表情はなかなかに悪くない。


「私、とても楽しみにしています!」

「そうはしゃぐな。公式には明後日にでも掲示板で告知する。それに、そんな大したもんじゃないぞ? 一緒に蕎麦を食べて、日付が変わるまで時間を潰して、街の神社に年またぎで初詣に行くだけだ。何もどっかのテーマパークに行って年越しのパーティーをするわけじゃない」

「私にとってはどっちも似たようなものです」


 テーマパークでの年越しパーティーと単なる初詣じゃ似ても似つかないと思ったが、竹束は本当に嬉しそうに笑っていた。


「私、ああ、また今年も一人でこの櫻ノ宮の寮で年越しするんだな、って思ってましたから」

「それは大して変わらないじゃないか。年越しをする場所が少し違うだけで、他は全部この櫻ノ宮の寮でやることだ。それに、他にも寮に残るやつはいるだろう?」


 そう栞が言うと彼女はかぶりを振った。


「先生は知らないかもしれないですけど、寮にいつも残る生徒でも、そんなに仲が良いわけじゃないんです。高等部の先輩とは話しづらいですし……中等部の人ともお互いに……なんて言うんだろう? 脛に傷がある者同士という感じなので……必要以上に話さないことが多くて」

「そうなのか? だとしたら今回の企画はあまり良くなかったか?」

「いいえ。でも、先生がいてくださると別なんです。この春に加賀美先生がお見えになってから櫻ノ宮はなんだか少し変わりました。先生がいてくだされば、自然とみんな笑えるんです」

「大げさだな。そんなに一般庶民の教師が珍しいか?」


 そう軽くおどけてみせる。栞自身そんな大した……と言うより何一つとして――唯一、董子という存在はのぞいてだが――変わったことをしていないつもりであったから、その言葉は意外なものであったけれど、逆に言えばその適当さが彼女たちにとって良い緩衝材になっているのかもしれない。櫻ノ宮の教師たちはみな栞とは比べ物にならないくらいに上品で優秀なのだが、それはどこか堅苦しさを伴うものだった。


「とにかく、私、楽しみにしてますから」


 それだけを伝えたかったのか、お辞儀をしてその場を去っていく。単なる暇潰し程度になればと思っての『ちょっとした行事』のつもりだっただけに、彼女のような反応をされるとどこかむずがゆく思えた。



 しかし、その『ちょっとした行事』は生徒たちに大いに受けた。企画を掲示をしてからというもの、中には実家に帰らずにそちらに参加したいと希望する生徒が出るくらいだった。もっとも、一般的な家の子女ならまだしも、お金持ちの家の子女にとっては年末年始というのは忙しいもののようで、実際にその希望が叶えられる生徒はある意味幸いにもいないようだった。

 企画を掲示した二日後。国語科準備室を董子が訪ねてきた。

 何か飲むか? という栞の言葉に首を横に振ると、


「あの企画は、先生の発案なのですか?」単刀直入に聞いてきた。


「あの企画?」

「ええ。年末年始のものです」

「ああ。私と御門先生で考えてな。年末年始、何もしないで寮にいるっていうのも退屈だろう?」

「………………」


 その言葉に董子は少しだけ表情を曇らせた。それに栞が応える。


「書いてあったと思うが、もちろん自由参加だ。別に寮に残っている生徒は強制参加というわけじゃない。嫌だったら寮に残ってても構わないんだぞ?」


 董子を慮った言葉だったが、今の彼女はそんなことを考えているわけではなかったらしい。いつもならそんな甲高い音が立たないはずの足音をさせて栞に詰め寄ると、睨んでいるのではないかと思えるほど鋭い視線で栞を見やる。


「先生。年末年始は私の家に来て下さいませんか?」

「お前の家?」

「ええ。不動産のほとんどは父が死んだ時に処分してしまいましたが、都心に小さな家を残してもらっているんです。この二年間は帰っておりませんが、定期的に手入れはしてもらっています。明日に帰ったって不自由なく使えるはずです」


 そう言う董子の意図が栞には掴めなかった。椅子に座って彼女と向き合う。


「一体どうしたんだ、突然? 企画は自由参加だと言っただろう? 別に参加しなくたって良いんだ。それに、今更だ。参加しなかったからと言って他の連中に何か言われることもない。無理に家に帰ろうなんて考えなくたって良い」

「そうではありません」


 きっぱりと董子は言った。


「この年末年始、先生には私の家に来ていただこうと前々から考えていたんです」

「そうなのか?」

「はい。先生はもはや私にとってかけがえのない人です。この櫻ノ宮だけでなく、外の世界でも共にいられるのだということをこの身で覚えておきたかったんです」

「燕城寺……」


 そんなことをいう彼女に栞は苦笑した。彼女の言い方は、まるでこの櫻ノ宮から出てしまったら二人の関係が消えてしまう……いいや、栞の存在が途端にかき消えてしまうかのような言い方だった。

 彼女にしては随分と子供らしい……いや、育ってきた環境をみれば当たり前の反応かもしれない。そんなことを栞が思った矢先だった。


「先生。先生は私を抱きたくはありませんか?」

「は?」


 何を言われたのか咄嗟にわからなかった。董子が言葉を続ける。


「別に私は身体に自信があるわけではありません。けれど、唇を交えている間に感じることがあるんです。先生の身体が私を欲している、と。同じ女性だからでしょうか? わかるんです。先生の胎が私を望んでいることに」

「あのなぁ……」

「違いますか? 違うと言い切れますか?」


 視線は変わらず鋭かった。まるで自身のはるか底まで覗きこもうとしているかのようなそれに栞は軽く恐怖した。キスをしている時に感じることのある肉欲そのものを掴みとられ、目の前に突きつけられているような感覚だった。


「どうか、年末年始に私の家に来てください。そして私を抱いてください。この身体に先生の痕を残してください。私は先生の妹だと……先生は私の姉だと刻みこんでください」

「ダメだ」


 咄嗟の言葉が栞の口から出た。


「燕城寺、そんなことは間違っても口にすべきことじゃない」


 栞の身体には相反する気持ちがあった。彼女を欲している肉欲と、それに呑まれたが最期、彼女の持つ永遠の輝きを失ってしまうという恐怖。だが、今はまだ恐怖の方が勝っていた。


「ご褒美だとしてもダメですか?」

「………………」

「先生、前にしてくださった約束を覚えてくださっていますよね? もし部活動発表会を一人で回ったらご褒美をくださる、と。そのご褒美をください。年末年始、ご褒美として先生の時間をください」

「それは無理な注文だ」


 一度栞は大きく息を吸った。自分の中にある恐怖。しかし、それ以上に今の董子には何かの焦りがあるように感じられた。


「一体今日はどうしたんだ、お前らしくもない」


 冷静に董子に問うてみる。

 少しの沈黙が闇の中から生み出されてその場に降ってくる。しんしんと積もるかのような雪のようなそれはあっという間に二人を包み込む。

 ややあってから、ポツリと董子は言葉をもらした。


「……今でも、私は先生にとって何者でもないのです」

「どういうことだ?」

「先生は、自分のことを姉だと思いたければ思えばいいとおっしゃいましたよね? ですが、先生にとっては妹のことより教師としての本分の方が大切なんです。年末年始の休みにでさえ、生徒たちのことを考えてしまうほどに」

「それとこれとは別だろう?」

「確かに、先生は私の願いを叶えられるかどうかはわからない。そうおっしゃっていました。だから、私がここで一人、このような言葉をぶつけるのは筋違いです。わかっています。十分にわかっています」


 そこにあったのは普段の董子からは考えられないくらいの子供染みた嫉妬だった。

 別にそこに特別な何かがあるわけじゃない。

 単純に彼女は、年末年始に寮に残る生徒と自分が同じに扱われていることに気持ちが収まっていないのだ。

 そうわかると栞には余裕が出来た。

 董子の腕を取る。咄嗟に何をされるのか悟った董子が顔をそむけて反抗しようとするが、栞はそれを許さない。空いた手で彼女のあごをとらえて口づける。食むように遊んでから解放すると、彼女は下唇を噛んで目をそむけて言った。


「……まやかしです」

「まやかし?」

「先生は、私のことを好いてくださっているのだと思っていました。好いてくださっているからこそ私に血を与え、こうしてキスをしてくださるのだと思っていました。けれど、それは違うのです」


 それだけを吐き捨て、失礼します、と部屋を出ていこうとした董子の手を栞は後ろから掴んだ。そのまま強引に引き寄せて後ろから抱きすくめる。細い腰に手を回して、もう一方の手で巻いた長い髪をすいてやる。今まで滅多なことでは駄々をこねたりわがままを言わなかった董子のこういう姿は珍しかった。年相応の不安定さと言っても良いかもしれない。


「好きでもなかったらこんなことするわけがないだろう? 私はこう見えても薄情な人間だからな。興味がない相手をここまで構ってやろうなんて風には思わない」

「本当ですか?」

「本当だとも」


 髪をかきわけ、董子の首筋に顔を寄せる。音を立てながらキスをふらせると、腰に回した栞の手に董子が手を重ねてきた。その手は小さく震えているように思えた。


「……不安なのです。今まで、こんなことは一度も……そう、たったの一度もなかったのに」

「………………」

「私を見てくれていないと嫌なのです。他の方と笑っている姿を見ると苦しくなるんです。私以外の方のために何かをしているのが、許せないのです」

「教師として、でもか?」

「先生にとってそんな線引きは無意味でしょう?」


 董子が振り返る。いつも孤高を誇るかのようにしていたその目は揺らいでいた。


「先生は魅力的ですから、みなさんが虜になってしまう。みなさん、先生に夢中になってしまう。その中で先生の御眼鏡に適う方がいたとしたら、私のことなんてすぐに忘れてしまうのではないかと、不安でたまらないんです」

「燕城寺……」

「以前の私はこんなに弱くありませんでした。けれど、先生に会って変わってしまった。私はすっかり弱くなってしまいました。先生に見放されるかもしれないと……惰性や憐憫から血をいただくだけの関係になってしまうのではないかと考えると、怖くて仕方がないんです」


 今の彼女は怯える小動物のようだった。

 別に今のような感情を訴えられるのが初めてだったわけじゃない。それなりの数の恋愛をしてきた栞にとっては馴染みのあるものとさえ言っても良いものだったかもしれない。だからこそ、その解消法だって知っていた。

 けれど、それをするだけの勇気が今の栞にはなかった。董子の持つ美しい世界を自分の手で穢すことが怖かった。俗物的な穢れを董子に植え付けてしまうような気がしてならなかった。


「少なくとも私はお前を好いているさ。夢中になっていると言っても良い」

「……本当ですか?」

「お前に血をすすられる時、堪らなくなる時があるよ。永遠にこの時間が続けば良いと思う時さえある」

「なら、そうなさってください」

「お前は私に時を止めろって言うのか?」


 顔を寄せてキスをする。つつき合っている中、先に舌を出してきたのは董子だった。それを優しく自分の口内へと導き、すでに熱くなっていた舌を絡ませる。董子の苦しそうな呼吸に、いかに彼女が必死になって自分を求めようとしているのか栞にも十二分に感じられた。出来ることなら溶け合ってしまいたいと思っているのかもしれない。

 五分もそうしていただろうか? 口の周りはお互いの唾液でベタベタに汚れ、董子の制服には滴ったそれが点々と染みを作っていた。

 そんな中、董子は何かを決めたかのようにひゅうと一つ大きく呼吸したかと思うと、スカーフを器用に片手で外した。そのままセーラーカラーの胸当ても外し、サイドのファスナーを引き上げる。大きくはだけた胸元から彼女の雪のように白い素肌が顔をのぞかせていた。

 唇を離し、一息に脱いでしまおうとする董子の手を栞は止めた。


「自分を安く売るような真似はするな」

「先生は、私を愛してはくださらないのですか?」

「ここは学校だぞ? 鍵だってかけてない。万一誰かに見られようものなら、私は二度とお前に会えなくなる」


 ついと董子が視線をそらす。

 栞の安っぽい嘘など見通しているような仕草だった。堪らなく惹かれているにもかかわらず、そのラインを超えることを恐れている。そうわかっているような表情だ。

 どうしようもない腑抜けだと栞は内心で自身を嘲笑った。自分より一回り以上も年下の子が覚悟を決めているというのに、自分にはその欠片もない。それをあえて見ないようにしていた。


「……すまない」


 小さな身体を抱きしめる。自分の手の中に落ちて来た天使。今更になって手放せるのかと問われたら、それは到底出来ないように思えた。

 夢中になっている。そう言ったが、おそらくそれ以上に溺れている。


「先生……」

「許してくれとは言わない。ただ、私はお前を穢したくはないんだ」

「私はとっくに先生への想いで穢れています」


 どこか笑うような口調だった。


「私はもうとうの昔に先生に穢されているんですよ?」

「それでも、お前は純白のままだ」


 抱いた身体に力を入れる。どうあっても離したくない。それでいて俗物にもしたくない。相反する気持ちだと栞自身わかっていたが、そうすることしか栞には出来なかった。


「信じて欲しい。……そんな言葉しか言えない私をお前は笑うだろうな」


 ゆっくりと口づける。

 彼女の瞳は揺れたままだった。

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