年末に向けて
山間に櫻ノ宮は平地よりも冷え込む時期は早くやってくる。
十月が過ぎ、十一月も半ばを越すと朝夕は立派な冬の寒さに似た温度になることも珍しくない。それでも、山々の木々が鮮やかに秋の色に染まる姿は美しく――自分たちはエアコンという文明の利器に守られた生徒たちにとって――この季節は春と同じくらい彩りに満ち、好ましい季節であるらしかった。
始業前。栞は自販機のそばの壁に寄りかかって一人ホットの缶コーヒーを飲んでいた。寮の点呼を終え、始業前に昨日やり残した仕事を片づけようと早めに学校にきたのだが、思った以上にすんなりと仕事が終わってしまい、時間を余してしまったのだった。
「これはまた珍しい時間に会うものね」
御門だった。挨拶を交わすと、彼女は自販機ではなく灰皿に用があったようで、細煙草を取り出すと火をつけた。まだ始業まで時間があるのにきっちりと白衣を身にまとっている。
「燕城寺の検査結果、どうでした?」
栞が缶を両手で包むようにしながら聞いた。定期的にやっている健診のことだ。顔を合わせると挨拶のように聞いている。
「良好よ。全体的に高止まりしてるのは変わらないけれど、どれも正常値の範囲内。この三ヶ月、発作も起こしてないし、いつぶっ倒れるのかわからないと心配してた半年前が嘘のようよ」
「何よりですね」
「これも全部、貴女の存在があってこそね。仕事を減らしてもらってありがたい限りだわ」
笑いながら御門が指で煙草を弄ぶ。栞はずずと缶コーヒーをすすってから息を吐いた。それは少しだけ白く濁って、すぐに空気の中に霧散した。もうあと一ヶ月もすれば年の瀬だ。
「それで、そっちの方は?」
今度は御門が栞に向けて問う。
「こっちも変わらないですよ、何も」
栞は少し苦そうに言った。
「って言うことは、相変わらず孤高のお姫さまをやっていると?」
「有体に言えば。私といる時の感じを少しでも出してくれれば良いのに、学校にいる時の彼女は相変わらず別人です。笑わない、しゃべらない、関心も持たない」
「それでクラスの一員として扱ってくれという方が難しいわよね」
「彼女も望んでないし、学友も、ですかね。最初は彼女に関心のあった子も、流石に二年も経てば飽きるみたいで」
「そんな彼女を落としたんだから、貴女は相当なてだれね」
「偶然馬が合っただけですよ」
それに御門は「どうだか」と煙草の煙を吐いて答えた。
栞と董子がやっている血のやり取り以外の『コト』はもちろんしゃべってはいなかったが、彼女はとっくに気がついていただろう。すっとぼけたところがあるが、長く董子の主治医をやってきただけあって勘は相当に良いように見えた。もしかしたら最初に栞が血をあげたその日の内に二人が『そういう』関係になっていたと薄々感じ取ったかもしれない。
「そう言えば、年末はどうするつもり?」
何を思ったのか、御門は今度はそんな話題をふってきた。
「特には何も。年末年始も櫻ノ宮は動くって聞いてるんで」
「まぁね。三十一日は食堂で大きなエビ天が二本乗った年越し蕎麦が出て、三箇日は簡単なおせちまで出してくれるわよ」
「ありがたい話です。部屋で一人、紅白を見ながらカップの年越し蕎麦を食べて、年明けにコンビニのお雑煮を食べるなんて年末年始にならなくて済みそうで」
「と言うか、加賀美先生は実家には帰らなくて良いの? 夏休みも一日も帰ってないみたいだけど。寮監だからって休みがないわけじゃないんだし」
「それは御門先生もお互いさまじゃないんですか?」
「三十五が見えてきた独り身の女が実家に帰って嬉しい話があると思う?」
御門の口調は少しうんざりとした様子だった。彼女の実家がどのようなものなのかはわからないけれど、女性は一定の年には結婚して家庭を持って、なんて考えが当たり前の家だったら確かに苦労する話だろう。ましてや医者の一族なんてことであれば、後継ぎがどうのこうのという話までされるのかもしれない。
その点、栞ははるかに自由な身分だった。両親は「栞の人生は栞のものだ」と高校生になる頃には言ってくれていたし、ゆくゆくは父の会社を継ぐというのだって栞の考えで、両親からその是非を言われたことは一度もない。
そのことを話すと御門は「なんとも羨ましい話だわ」と一本目の煙草を灰皿に押しつけ、二本目を口にくわえた。
人生についてもそうだったが、栞の両親はその他のことに対しても寛容だった。
大学生の時に一度、付き合っているのが女性であると知れてしまったことがあるが――元々、母は栞が同性愛者であると薄々勘付いている様子はあったけれど――その時だって苦い言葉を一つも口にはしなかった。代わりに言われたのは「同性同士だと何かと難しいこともあるだろうけれど、行政も変わってきているところがあるから、頑張って」なんていう大真面目の言葉だった。どうやら栞がそこまでの遊び人であるとは知らなかったようで、その時の相手と真剣な交際をしていると思ったらしい。
「それじゃあ、年末年始に何かやりますか?」
「何かやるって?」
二本目をふかしながら御門が聞いてくる。
「赤薔薇白薔薇の両寮合同で年越しをして、街の神社にみんなで初詣……みたいなものですかね。年末年始、何人くらい寮に残るかわかりますか?」
「中等部と高等部合わせて……五人くらいかしらね、例年通りなら」
「それだったらワンボックス一台で出られますし、御門先生と私の監督で学園側の許可も下りませんか?」
「下りるとは思うけど……自分から仕事増やしたいの? ワーカーホリック?」
先にあれこれ言ったのは御門先生じゃないですか、と栞は苦笑した。
「それとも、そういった行事であの子を小さな集団から徐々に馴染ませる腹積もりとか?」
「そんな考えはまったく。そんなことで簡単にいくならもうとっくに馴染んでると思いますよ、彼女は。むしろ、そういう行事をやるってなったら嫌がって逆に寮に残りそうな気さえしますし」
「あり得るわ」
と御門は笑って二本目を灰皿へと押しつける。
栞も御門もそういう意味では本当に董子を集団の中へ溶け込ませようという考えは持っていなかったと言って良いだろう。みんなお手手つないで仲良しこよし、が通用するのはせいぜい幼稚園まで。小学生ともなれば相性の良し悪しが出てくるし、多感な中学生ともなればなおさらだ。それがわからないわけはない。
「まぁ、来月の話はおいおい話しましょう。半分は来年の話になるし、今話をつめても鬼が半笑いになるわ」
なんて意味のわからないことを言って御門はその場を後にした。
冷めた缶コーヒーをすすりながら栞は再び息を吐いた。その場で適当に御門に言ったことだったが、考えてみるとそう悪いようなものにも思えない。
栞ももう新任教師というイメージを持たれなくなって、生徒たちは――董子は別の意味になってしまうが――随分フランクに懐いてくれている。おかしな意味合いではなく、慕って寄ってきてくれる子は純粋に可愛いと思う。それも、何らかの事情があって年末年始も実家に帰ることの出来ない子たちとなれば、彼女たちもいくらかの楽しみがあっても良いじゃないかと思えた。
残ったコーヒーを一気に飲み干して寄りかかっていた壁から離れた。ゴミ箱に空き缶を放り込む。カランカランと、それは思った以上に甲高い音を立てて中に入っていった。
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