シオリ

 残っていた事務処理を終えて栞が寮に戻ると、放課後に会った副監督生と、高等部の生徒の管轄をしている六年生……高校三年の監督生が今日の分の日誌を渡してくれた。

 寮では中学一年から高校三年までの少女たちが生活しており、部屋割も含めて中等部と高等部でざっくりと分かれている。中等部であった出来事をまとめるのが副監督生であり、高等部であったことをまとめるのが監督生だった。よほどのことがなければ副監督生と監督生は月単位で交代となる。

 部屋に戻って二つの日誌を確認する。今日も後々にまで響くような特記事項はなし。体調を崩していた明石も大分具合が良くなったらしく、夕食はみんなと一緒に食堂でとったとのことだった。

 基本的に寮にいる教員は寮監だけだった。それこそ戦前はここは正に陸の孤島と呼ぶに相応しく、教員たちが住む寮も別途にあったそうだが、戦後、高度経済成長の時に近くの街が開発され、新しい道路が造られた結果、交通の便は大幅に良くなった。その結果、寮に住む教員はいなくなり、寮監という制度も形骸化したそうだ。実際、栞が白薔薇寮の寮監になるまでは御門が兼任という形で二つの寮を見ていたらしい。それでこれといった問題が起こらなかったことを考えると、櫻ノ宮の生徒の質の高さがわかるというものだろう。

 自室に戻ってからひと風呂浴びる。大浴場も使ったことが数回あるものの、栞は自室のバスルームを使うことが多かった。

 生徒たちにとっては大浴場は彼女たちの数少ない遊び場に近いものがある。本来なら楽しくくつろげるはずの時間を教師に見られているというのもどことなく居心地が悪いだろう。それに、自室の浴槽でも足が十分伸ばせるくらいの大きさがあるのだ。庶民の栞にとっては十分過ぎるものだった。お嬢さまたちにはそれでも狭く思えるのかもしれない。

 風呂から上がり、冷蔵庫からミネラルウォーターのビンを取り出してベッドに腰を下ろす。今はまだ大丈夫だが、もうすぐするとクーラーをつけなければやってられない気候になるのだろう。櫻ノ宮で過ごす初めての夏がどのようなものになるのか未だ見当もつかなかった。おそらく今までに経験したことのないものであるのは間違いないように栞には思えた。

 ビンに口をつけると、忘れたようにお腹が空腹を訴えてきた。買い置きしてある即席めんでも作ろうかと思いながら時計を見やる。思ったより時間は早く、まだ食堂の夕食には間に合う時間だった。

 結局、少し考えてから栞は食堂へと赴いた。

 櫻ノ宮の食堂は、食堂と言うよりかはどちらかと言えば大学の学食と言った方が正しいかもしれない。が、もちろんただの学食ではない。天井は高く、こげ茶の太い梁がめぐらされている。床は濃い赤色の絨毯が引かれ、薄っすらと見えるアンティーク調の模様が気品を感じさせた。

 中学と高校の生徒が全く同じ時間に来ても大丈夫なように座席は確保されているものの、大抵はそこまで混むことはなく各々のグループが優雅にランチやディナーを楽しむのが大抵だった。加えて、今は夕食の時間ぎりぎりということもあって生徒の姿はほとんど見られない。三つある日替わりの夕食メニューから魚料理を選んで一番奥のカウンターに食券を差し出すと、調理師の中年の女性が声をかけてきた。ふくよかな身体に少ししわが目立ってきた顔。栞とも少し顔なじみになってきていた女性だった。


「今日はちゃんと食べに来たんだねぇ」

「ええ。ごちそうになります」

「加賀美先生は放っておくとすぐに自室に溜めこんだカップ麺とかで済ませちゃうんだから」


 メインの鱈のムニエルの皿を栞に渡しながらそうおちょくってくる。

 栞がまだ櫻ノ宮で気楽にやっていけているのは御門のような多少フランクな教師がいることもそうだったが、櫻ノ宮を管理している職員や食堂の従業員は全くの一般人であるということも大きいように思えた。もし従業員まで一流ホテルのボーイのようだったら栞はもうとっくに櫻ノ宮での生活に息を詰まらせ逃げ出していたかもしれない。


「忙しいとどうしても手近なもので済ませようとしてしまって……一応食生活も改善しようと心がけてはいるのですが」

「またまた心にもないことを。そんなこと言って、ただ面倒くさいだけでしょう?」

「わかりますか?」


 図星を突かれて小さく笑う。毎日こんな良い物が食べられるのにもったいない。そんな言葉に栞は曖昧な表情を浮かべた。生憎栞の舌には櫻ノ宮の料理は豪華すぎた。元々食事に楽しみを見い出すタイプではない。食事は、言うなれば一種の作業に近い感覚だった。あまりに豪華なものを出されてもどういう顔をしていいのかわからないのだ。


「そう言えば加賀美先生」


 席に向かおうとしたところで栞は思い出したような女性の声に呼び止められた。


「燕城寺ちゃん、最近具合があんまり好くないのかい?」

「燕城寺が? 何かありましたか?」

「ほら、彼女、身体が弱いでしょう? 夏にかけて体重が落ちてくるのは今までずっとそうだったみたいだけど、今年は特にひどいみたいでね。今日も食堂に来ることは来たんだけど、半分も食べられなかったみたいなのよ」


 董子が夏にかけて痩せるのは栞も承知のことだった。春先に初めて会った時も腕の細さなど驚くくらいだったが、今は病的なものを感じられる。


「わたしゃ医者じゃないから詳しいことは全然わからないけどさ、やっぱり食べるっていうのは生き物の基本みたいなもんでしょう? しっかり食べないと良くなるもんも良くならないよ。普通の食事がのどを通りにくいってんなら、それとは別に食べやすいのをこしらえてみるからさ」

「わかりました。今度、御門先生と話してみます」


 頼んだよ、と女性は調理場へと戻っていった。

 食堂の端に座って、学校の食堂で出されるものとはとても思えない豪華な夕食を胃に収めていく。

 食べるというのは生き物の基本。

 確かにその通りだろう。でも、だからこそ董子には縁遠いもののように感じてしまう。

 彼女の存在はあまりにも儚げだった。

 彼女自身に弱さはない。むしろ完璧なまでの振る舞いは、人によっては鼻持ちならないと感じることだろう。

 だが、それを含めた彼女の存在はおぼろげに思える時もある。ふっとした瞬間に消えてなくなってしまうような雰囲気を持っているのもまた事実だった。

 おまけに、彼女自身には「生」への執着がないようにすら思えた。死を受け入れていると言ったら少しニュアンスが違ってくるかもしれない。しかし、少なくとも死を怖れているようには見えなかった。


「シオリという名前のお姉さん、か……」


 今までも董子という少女の孤独について考えたことは何度かある。幼い頃に母を亡くし、父と姉も事故で喪ってしまった。燕城寺グループのこともあって、周囲には多くの大人たちが様々な思惑を胸に彼女に群がったに違いない。結局、父親が懇意にしていた弁護士が尽力して上手く収めたそうだが、その間に彼女が感じただろう孤独は計りしれるものじゃない。

 そんな中、栞は彼女の前に現れた、姉と同じ名前を持つ教師。そこに董子が何か特別な感情を覚えていたとしてもおかしな話ではないのかもしれない。

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