正義のミカタ【番外編】~痴漢撃退~

『正義のミカタ』メンバーを痴漢被害に遭わせてみた


創作診断より


《1、月下氷人の場合》


 電車の中は不快な蒸し暑さだった。

 天気は快晴、日差しが車内に容赦なく照りつけ、さらには人混みの生み出す湿気である。外はもちろん、この鉄の箱の中も相当な不快指数に違いない。

 そうして、その湿気と暑さのせいで思考回路が壊れてしまうのか(あるいは常習犯なのかもしれないが)、痴漢などというものが発生してしまうのである。

 ――というか、今、僕はその痴漢被害に遭っていた。

 強く主張するが、僕はれっきとした男である。月下(つきした)氷人(ひょうと)という四字熟語みたいな名前だが、女性の名前と思う者はいないだろう。

 安物の灰色のスーツも、短く切った白髪も、持ち主が男であることを、これでもかと主張している。

 にもかかわらず、僕は今、痴漢の被害者に仲間入りを果たしていた。

 あまり気分のいいものではないので詳しく描写したくないのだが、僕は吊革につかまって窓を向いて立っている。周囲は人がごった返して、後ろはおろか隣を向くこともできない。

 その状態で誰かが後ろから尻を撫でているのだが……ああ、考えているだけで気持ち悪い!

 人がひしめいている今の状態では身動き一つ取れないのだが、なんとか身をよじってみる。隣の小太りなサラリーマンが脂汗を垂らしながら、こちらをじろっと見た。不審に思っているのか、あるいは身じろぎしたときに押してしまったのかもしれない。しかし、こっちはそれどころじゃない。

 だが、抵抗したのが却って逆効果だったらしい。僕の尻を撫でていた手はとうとう揉みしだき始めた。悲鳴が出そうになるのをなんとかこらえる。嫌な汗が顔をつたった。

 ――いや、落ち着け。仮にも本庁の現職刑事がこんなことでどうする!

 大きく深呼吸をして、平静を取り戻す。

 とにかく、職業上、この痴漢を現行犯で逮捕しなければならない。尻を揉まれたくらいで怯えている場合ではないのだ。

 ふと、電車が速度を落とした。ゆっくり、しかし大きく、人の波が揺れる。

 電車が駅に止まるのだ。しめた、と僕は思った。

 電車が完全に停止する。ドアが開いて、黒い頭の集団が扉に押し寄せる。

 僕は尻を触っていた手を後ろ手につかみ、振り返らずにそのまま電車を飛び出した。

 電車のブザーが鳴って、ドアが閉まる。僕が連れ出した人のかかとがホームに着地すると同時に、列車は走りだした。

 「申し訳ありませんが、一緒に来てください――」

 そういって振り返ると、僕の良く知る人物がそこにいた。

 「――……お嬢……何してんの?」

 僕はお嬢――角柱寺(かくちゅうじ)六花(りか)の手首を掴んでいたのだった。

 「やあ、月下君」

 お嬢はふてぶてしく、ニコニコと笑っている。

 「え、……お嬢が痴漢?」

 「女の子の場合も痴『漢』って言うのかな?」

 「いや、知らないけど」

 何やってんだ、この子は!

 警視総監のご令嬢ともあろうものが、何やってんだ本当に!

 混乱とワケの分からない怒りで、僕の頭はいっぱいになった。

 「いやあ、最近この路線で痴漢が多いって聞いてね。『正義のミカタ』の活動の一環として、ここで痴漢退治をしてたんだよ」

 「ふーん……で、痴漢退治をするはずが、自分が痴漢になったっていうのかい?」

 『正義のミカタ』――この娘が学校にも通わず暇潰しに行っている悪人退治活動の名前である。

 そんな危ない真似を女子高生にさせるのはどうかと思うのだが……警視総監である父親が公認してしまっているので、この世の中どうかしている。

 おまけに、僕自身も警察で働く傍ら、『正義のミカタ』のもう一人のメンバー……つまりこの娘とコンビを組まされていると言う実情である。

 「痴漢がなかなか出ないなんて予想外だったよ。それで暇になっちゃってね」

 お嬢は腕を広げ、大袈裟に肩をすくめた。僕はアメリカンドラマを連想した。

 「そうしたら、月下君が同じ車両に乗ってるじゃないか! なんて偶然! いいや必然だね! ボクらは何処に行っても出会ってしまう運命なんだよ!」

 駅のホームのド真ん中だと言うのに、何故かお嬢は大声で熱弁を始めてしまった。

 僕は慌てて周りを見回す。幸いなことに人は少なかったが、ホームを歩いている人はいぶかしげに僕ら二人を見て、すぐに歩き去っていった。

 「お嬢、もう少し静かに……」

 「ああ、ボクとしたことが我を忘れてしまった。失敬。ここまでボクを狂わせる存在は君くらいの者だね。まったく侮れない男だよ、月下君は」

 「何わけの分かんないこと言ってんの。それより話の続きをしてくれよ」

 僕はすっかり呆れてしまった。今までの会話を見て戴いたとおり、この娘は相当の変人である。警視総監のご令嬢に気に入られて、同僚の中には出世コースに乗ったのではないかと羨む者も、エリートの中には嫉妬する者もいるが、僕は出世欲もないし、あまりこの子には関わりたくないと思っている。

 確かに、黙って普通にしていれば、かなりの美少女なのだが……。

 「ああ、そうだったね。どこまで話をしたかな……そうそう、電車の中で月下君を見かけて、月下君ならいいかなって思ったんだ」

 「……なにが?」

 「痴漢の生態、心理を知るためには、実際に痴漢行為をしてみるのが一番かと思ってね。月下君なら良いかと思って試してみた!」

 「馬鹿じゃないの!?」

 これだよ! こんな変なことしかしない女だから関わりたくないんだよ! 何考えてんだ!

 「……いいかい、お嬢。痴漢は犯罪行為です!」

 「わかってるよ、だから捕まえに来たんじゃないか」

 「知り合いでも痴漢はやっちゃいけません!」

 「そんな! ボクと月下君は『知り合い』なんて薄っぺらい関係じゃ――」

 「お黙んなさい!」

 僕の中での印象は知り合い以下だよ!

 「まったく……僕じゃなかったら本当に逮捕されてたな……」

 「当然だろう。月下君だからやったんだからねっ☆」

 「うわあ一ミリも嬉しくねえ。本当に気持ち悪いし気分悪いからもうやめてね」

 「それよりさ! 月下君も痴漢退治しようよ!」

 「はあ? 僕はこれから本庁に出勤――」

 「ふたりぼっちの『正義のミカタ』出動! 月下君がいれば敵なしだねっ☆」

 そう叫ぶと、お嬢は僕の手首を掴んでぐいぐい引っ張りだした。

 「痛い痛い……ちょっと待って、本庁に連絡するから」

 はあ、とため息をついて、僕は携帯電話を取り出した。

 どうやら今日は――いや今日『も』おかしな一日になりそうだ。そう思いながら。


 《2、角柱寺六花の場合》


 ボク、角柱寺六花は電車の座席に座っていた。

 中学以降、学校には通っていないし、警視庁に遊びに行く以外には外に出ることもほとんどない。おまけに外出は車が主だったから、電車に乗るのは初めてだった。

 きょろきょろと車内を見回すが、目の前はスーツ姿の男ばかりで向かいの座席さえ見えやしない。

――男ばかりなら、痴漢なんて出るわけもない。

退屈で視線を上げると髪の薄いおじさんが鬱陶しそうにじろっとボクを見て、顔をそらした。

 おじさんには興味がないので、さらにそのまま視線を上へ。これが宙吊り広告というやつだろうか、上のほうにチラシやポスターが沢山貼ってある。物珍しく左から右へ眺めていると、黒い頭たちの中に青白いものが目に入った。

 あの綺麗な白髪は見間違えはしない。

 ボクは席から立ち上がって、人混みの中に無理矢理に身体をねじ込んだ。

 ――やっぱり、この安っぽいスーツは月下君だ! 月下君月下君!

 月下君の背後から声をかけようとして、ボクの手は宙で止まった。

 「……」

 ボクは月下君の肩に伸ばそうとした手を、尻に当ててみた。

 「!?」

 ビクッと身体を震わせた月下君をじっと見る。

 月下君の両隣りはサラリーマンでびっちり固まっているため、後ろを振り返ることが出来ないらしい。

 実は前々から、「痴漢って何が楽しいんだろう?」とニュースを見るたび疑問に思うことがあった。人のお尻を触ってそんなに楽しいものなんだろうか?

 で、試してみたくなった。月下君なら良い気がした。月下君の反応がちょっと面白かった。

 もちろん、電車が止まってから月下君にいっぱい怒られたことは言うまでもない。

 「ふっふっふー、月下君と痴漢成敗だー!」

 「でもさ」と月下君が言う。「痴漢退治ったって痴漢がいなきゃ意味がないだろ。さっきだって痴漢がいないからお嬢は僕に痴漢行為を働いたわけだし」

 「月下君は頭がいいね。ボク、頭のいい男の人って大好きだよ」

 「…………そりゃどうも」

 月下君はとてつもなく面倒くさそうにそう返した。このボクに興味がなさそうなそんな態度も、ボクのお気に入りだ。

 「しかし待って欲しい。痴漢がいないのではなく、痴漢しようにも女性がいないのが問題なのさ。そこでボクの出番ってわけだ」

 「……おい、まさか」

 「そう! ボクが囮になってあげようっ!」

 ボクは胸を張ってフフンと鼻を鳴らす。

 頭を叩かれた。

 「痛いじゃないか!」

 「馬鹿なこと言うんじゃない! お嬢に痴漢の餌なんてさせられるもんか!」

 優しい月下君には珍しく眉根を寄せて怖い顔。それだけボクを心配しているのがひしひしと伝わる。――ああ、月下君! 君はそんなにもボクのことを……!

 「お嬢にそんな真似させたなんて警視総監に知られたら、僕がどんな目にあうか……!」

 ああ、月下君、自らの保身に必死の形相。

 「月下君、君にはがっかりだよ!」

 「そうかい、そう思うならもう僕には関わらなくていいよ」

 「それはやだ」

 お互い、むむむ、と言いたげな顔でにらめっこ。

 「わかったよ、囮作戦はやめよう。でもせめて、電車に乗って痴漢がいないかパトロールはしようよ。今もどこかの電車の中でいたいけな女性が悲鳴もあげられずに痴漢の卑劣な行為に震えている、それを考えるとボクの心は張り裂けそうなんだ」

 「その芝居じみた口調、どうにかならないのか? ……まあパトロールには賛成だよ。そのパトロールを終えたら僕はこの正義の味方ごっこを一抜けして本庁でお仕事させてもらうからそのつもりで」

 まったく月下君はつれない男だ。それに正義の味方ごっこじゃない。ボクらふたりはれっきとした『正義のミカタ』なのだ。彼は未だにそれを自覚していないフシがある。困ったものだ。

 まあいい。月下君は頭のいい男だ。時間はかかるかもしれないが、これからゆっくり理解してもらえればそれでいい。

 「さあ、月下君。改めて痴漢成敗の旅に出発だよ!」

 「早く終わるといいなあ」

 ボクは明らかにやる気のない月下君の腕を取り、ちょうどホームにやってきた電車に乗り込んだ。この電車も人でいっぱいだ。もわもわとした空気。これだけ水蒸気が集まっていれば車内で雲を発生させることも難しくないだろう。まあ冗談はさておき、車内の乗客を確認。やはり男ばかりだ。と、二人組の女性を発見。そのうちの一人はボクと月下君もよく見知っている人物だ。

 「月下君、あそこにおわすのは崇皇(すのう)さんじゃないかい?」

 「あ、本当だ。何やってるんだろう、こんなところで」

 不思議なのは彼女を見かけた時間だ。既に警視庁に出勤していなければ遅刻とみなされる時間帯である。真面目な仕事人間である崇皇深雪(すのうみゆき)さんがサボりなんかするはずないのに。それに服装。いつものスーツではなく可憐なワンピース姿。明らかに仕事ではなくお出かけスタイルだ。ついでに親しげに話しているもうひとりの女性は誰だろう。

 「むむむ、謎は深まるばかりだよ月下君」

 「私服姿の崇皇さんも素敵だ……」

 崇皇さん大好きっ子の月下君はボクの話なんか聞いちゃいない。崇皇さんに見とれて鼻の下伸ばしちゃってる。ボクは優しく彼の足をかかとで力の限りグリグリしてやった。


 《3、崇皇深雪の場合》


 私の名前は崇皇深雪、二十六歳。刑事やってます。今は友達の優子と一緒に電車に乗ってます。

 「混んでるわね、優子。大丈夫?」

 「ええ、今は大丈夫よ、深雪。あなたも気をつけてね」

 なんて会話をしながら満員電車に揺られて、かれこれ一時間は経ったでしょうか。

 「いてて……」

 聞き覚えのある声がしたもんだから、そっちを何気なく見てみると、そこには後輩の月下君と年下のお友達である六花ちゃん。六花ちゃんはこっちに気づいて手なんか振っちゃってる。ちょっとまずったかもしれない。満員電車でこっちに近寄ってこれないのが幸い。このまま声をかけないでほしい。と、思ったその時。

 「っ!」

 優子が身震いをした。見ると、見知らぬ男に抱きつかれている。

 「す、すいません。電車が揺れて……」

 バランスを崩した、と言いたいのだろう。そこまで揺れたとも思えないが、謝られると強くは言えない。

 「い、いえ……気をつけてくださいまし」

 優子はおどおどとか細く震える声で言った。華奢な身体をしたお嬢様の優子には恐ろしげに映るはずだ。可哀想に。

 電車が駅に止まった。昇降口が開いて、中にいた人間が吐き出される。少し車内が空いた。

 「崇皇さん!」

 乗客の隙間をぬって、六花ちゃんが声をかけた。あとから月下君も追ってくる。

 「ああ、六花ちゃん、月下君も」私は優しく笑いかけた。「こんなところで会うなんて奇遇ね」

 「どうしたんですか、こんなところで」月下君は不思議そうに尋ねる。

 「今日ってひば――」

 非番でしたっけ、と聞こうとしたのだろうが、六花ちゃんの肘鉄で止められる。

 「ぐはっ……ちょ、お嬢、何すんの……げほっ」

 「もー、月下君は何を野暮なことを言ってるんだい。崇皇さんは今日は会社をお休みに決まってるじゃないか。ね、ね、どこにお出かけ?」

 「今日は友達の優子と一緒に映画でも見ようかって話になって」

 六花ちゃんの配慮はとてもありがたい。おそらく私たちの行動を何もかも理解しているのだろう。「映画のあとは美味しいランチを予約してるの!」

 「へー、羨ましいなあ」六花ちゃんは目を輝かせている。「ボク達もご一緒したいけど、流石に邪魔、だよね……」

 「何言ってるの、いいわよ、一緒に行きましょ?」

 映画やランチを楽しむ人数は多い方が楽しいに決まっている。

 「ね、いいわよね、優子――」

 「何ケツに触ってんのよォ!」

 野太い低音が車内に響く。月下君は――いや、乗客は全員唖然としてこちらを見ている。

 「おっさん、降りなさいよォ! いやぁ、痴漢、痴漢よォ!」

 声の正体は優子である。優子に手首を掴まれているのは、さっき優子に抱きついていた男。やはり痴漢だったか。常習犯かもしれない。

 「あ、あの、崇皇さん、この方は一体」

 「話はあと。とりあえず一緒に降りて」

 優子を信じられない顔をしている月下君にそう言って、私たちは近場の駅で電車を降りた。いかつい顔をした乗客も数人一緒に降りる。私や月下君も顔なじみの刑事たちである。

 「お嬢、これはどういうことなんだろう」

 月下君はぽかんと口を開けて六花ちゃんに現状を問う。

 「つまりね、月下君。崇皇さんたちもボク達と同じく、痴漢撲滅のために動いていたということさ」

 「え、崇皇さんも痴漢退治を?」

 「そういうこと」私はウィンクする。「今は痴漢撲滅キャンペーン中なのは、月下君も知ってるでしょう?」

 「あ、ああ……確かにそうですね」

 月下君は最近本庁の壁に貼られているキャンペーンのポスターを思い出したのだろう、納得がいったような顔を浮かべている。

 「で、あの、この……可憐な女性? は……」

 月下君は珍獣を見るような目で、先程まで野太い声を出していた優子を見た。まあ、これはわからなくて当然かもしれない。

 「その子ね、亀追(かめおい)君よ」

 「へ……へ!? か、かめ、亀追さん!?」

 月下君は優子――あらため、女装した亀追飛雄矢(かめおいひゅうや)君を三度見した。

 「そんな、まっさかー」

 「そのまさかなんだよねぇ」

 亀追君は低音で答えた。

 「うわ! 亀追さんだ!」

 「やあ、月下君。そういう君は非番でもないのに何をしているんだ? 仕事をサボってお嬢さんとデートなんて、いい度胸しているじゃないか。私はこうして身体を張って卑劣漢と戦っているというのに、やれやれ……」

 口を開ければ飛び出す月下君への皮肉。可憐で華奢な見た目だけにギャップが凄まじい。

 「いやいやいや、おかしいでしょ! 亀追さんはもっと背が高いし、肩幅ももっと広かったはずですよ!? なんでこの人縮んでるんすか!?」

 月下君の疑問はもっともで、私もなんでこの人が変装すると体型まで変化するのかよくわからない。警視庁の七不思議の一つとされている。

 「ふふふ、私のハリウッド仕込みの変装術は味方も騙すのさ」

 「なんかよくわかんないけどハリウッド凄いっすね!」

 亀追君が陰で『化け亀』と呼ばれている所以である。

 まあとにかく、私たちは亀追君の変貌にすっかり怯えている痴漢を現行犯逮捕し、今日のキャンペーンを終えた。もちろん映画やランチの話も嘘なので、月下君、六花ちゃんと一緒に警視庁に帰ったのだった。

 

〈了〉

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