▲3九水牛《すいぎゅう》(あるいは、流星群の中/ひとつだけの)
周りの人たちは控えめにどよめいていて、ちょっと落ち着いてよとか、わたし先生呼んでくるとかそういった音声だけが、人垣が緩み崩れたこの場の中でふよふよ浮かんでいるように感じられた。私は構わず、自分が伝えるべき言葉だけを選んで紡ぎ出していく。
「沖島さんに……謝ってよ。投了もしないで、何で? 自分から負けを認めないと、勝負は……将棋は終わらないでしょ?」
すごく、心の中は凪いでいた。凪いでいたけどこれは……吹き荒れるための前の静けさであるような気もしていた。ミロカも膝立ちになって私の様子を窺おうと一二歩座布団からにじり下りていたけれど、私のその言葉に、また顔を固まらせてそっぽを……盤の方向へ、そしてその先でこれまた全身を固まらせている沖島さんの方向へと向き直ってしまう。そして、
「まだ……勝負はついてない。降参するまで、この『デスマッチ』は続くルール……」
拗ねて頑ななその言葉に、また私の中の何かが弾け外れていくのを、もう一人の自分が俯瞰するかのように見ていた。ふーん。あそう来るんだ……ふーん、そう、あ、そうなんだ。ふーんふーん。
瞬間、
「謝ってッ!! あや……あああああッ、謝れぇぇぇぇぇぇぇッ!!」
叫びのような声が、勝手に私のお腹から頭頂部まで突き抜けるかのようにして迸っていた。気が付けば私はミロカの背後にしがみつくようにして、その頭を掴んで、その顔を盤に押し付けている。さらにどよめく周り。でも関係ない。
「あやま、れぇぇぇぇぇぇぇぇぇ……」
ぐいぐいと、盤上の駒を、親友の顔面を使って右に左に払い落としながら。親友の高く整った鼻を榧の香りが漂う盤へと擦りつけながら。
私はいったい、何をやっているんだろう。でも。
「……ィィイャダァァァァァァッ……!!」
ミロカもそのほっそりとした(うらやましい)うなじに、これでもかの力を込めて抗ってくる。感情を無理やり殺している時によく出る、機械のような、カタカナ音声を交えて。
「マダ勝敗ハ着イテナイ……ソレニ謝ル必要ナド何モ無イ……」
まだ言うの!! 私が言いたいのは、そうじゃない。それだけじゃあ……ないっ。
「『投了』しない限りッ!! その対局は終われないでしょ!? そこから何も始まれないでしょ!? だから『負けました』って言って!! 一局一局、ひどい負け方をしても、自分の中でそれを咀嚼して昇華させることでッ!! きっとそれまでよりも強くなれるはずだから!! 負けを薄めてごまかしても、自分のためになんかならないよッ!!」
思うところを全て吐き出した私は、何だか泣いてしまいそうだ。必死で下瞼を持ち上げながら、雫がこぼれないように抑えるけど、変顔になっているという、自覚はある。いや、そこも関係ない。と、
「うるさいッ!! いいコぶって説教じみたコト抜かしてんじゃあねえよぉッ!! どうせ私は勢いだけのヘボ四間飛車だよッ!! ほっといてって言ってんじゃねえかよぉッ!! 放せッ!! どっか行け!! もう私なんか無視しろってんだよォッ!!」
普段は決して発することのない、咆哮のような、何かを切り裂くような叫びが、ミロカの喉奥から放たれてきている。その絶叫を、掴んだ後頭部からも振動として感じている私は、その残酷な言葉に返す言葉を失ってしまうけど。いけない。こんなのでショック受けてる場合じゃない。こんな上っ面だけの言葉なんかで動揺なんてしてたら。
……親友なんかじゃない。
私は一度、大きく息を吸い込んでから、目を閉じて頭に思い描く。自由に吠え、駆け、食い破る。全部のしがらみから解放された、自分の奥底に隠されていた、内なる「獣」。
……「
「ぅぅぅぅうううウウウウ……ッ」
お腹の底から湧き上がる、意味不明だけど、摩訶不思議だけれど、なぜか私を「私」と認識させてくれる、そんな未知なるパワー。不穏そのものとしか思われない空気に、周りの人たちが畳の上を這いずって出入り口の襖を目指しているのを横目で感じながら、私は少し前のことを思い出していた。自分が変われるきっかけとなった、あの奇天烈な出会いを。
そして。
初めて嘉敷
「変身」。姿かたちが変わることで、びっくりするくらい「違う自分」になることが出来た。家族のこととか、将来のこととか。そういういつもいつもがんじがらめに私を縛り付けていたものたちから、一瞬で、私は解放されたのだった。高揚感、全能感。全身に感じるそれらをも振り切るかのように、私は暗黒の空間を駆けた。駆けて駆けて、駆けまくった。
そうだよ、もっと「自分」を出すんだ。出さなきゃ、伝わらない。相手に「自分」を示すには、自分から自分を、外に出すしかないんだ。だから。
「オ、オ、オ……オル、ぅオルグァァァァァァッ!! んんんん眠てえこと言っとっじゃねっぞぉぉぉらぁぁぁぁアアアアッ!!」
これまでとは明らかに違うドスの入った絶叫は、私の顔から「委員長」と称されるモノの全てを根こそぎ奪い取り、まるで魂の叫びは、私をどこの郷の人間か、分からなくしてしまうけれど。ミロカの後頭部が、触っててそうと分かるほどに小刻みに震え出す。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます