▲3七飛龍《ひりゅう》(あるいは、地を割り/天へ昇る)

 ばちりばちりというような気合いのこもった駒音を響かせながら、対局は大詰めを迎えようとしている。


 形勢は……後手ミロカ良し、かな……銀損ながらも、敵陣に食い込んだ龍が右辺で存在感を放っている。穴熊はここからが遠いけど、それでも五筋にと金も作れそうで、ひと目、後手持ちって感じ……ミロカの王様も、周囲を金銀の堅陣に守られながら、ゆったりと中段辺りを飛翔しているかのように見える。


 これを寄せ切るのは……大変なんじゃないの、と私はそれでも一切を表情には出さない沖島さんの横顔を上目遣いで窺う。え? よく見たら、その両眼はふわりと閉じられていた……まったくの私の主観だけれど、その姿は何か、草食動物が「反芻」しているかのような、そんな雰囲気を持っている。いやその例えはわけわかんないな……何でそんな風に思っちゃったんだろう。いやそんなことより。


 この対局にもし負けたら……この死力を尽くしているかのように見えるこの対局に負けたのなら。負けた方は香落ちハンデを付けられての連闘になっちゃうよ……それは……そんなことはもう互いにプライドが許さないんじゃないのかな……この平手勝負が、本当の勝敗を決める一局だってことが、今更ながら、側で観ているだけの私にも重くのしかかってきてるのだけど。


 そんな地球の重力ってこんなにだっけ、みたいな詮無い思考の私を置いて、ミロカの優勢が確実になってきていた。5七に出来たと金が、沖島さんの穴熊に喰らい付いていく……でも、そんな圧倒的劣勢にありながらも、沖島さんは眼鏡の奥の瞳をいつの間にか開き、凄みのようなものをその顔に滲ませつつも、冷静に着手を続けていく。


 粘りに粘って、相手の緩手を待つといった、私お得意の受け身な感じじゃない……狙っている、乾坤一擲の一手を。ミロカはもちろん、周囲に群れ為す、この私たちの思考を軽々と超えて来るような、そんな超絶な一手を。そんな予感が私になぜか降り落ちて来ていた。でもその一手までには、私の思考じゃまだ到達できていない。


 でも場はそんな私を残して、一手二手と局面はどんどん進んでいく……そして、


 最終盤……って言っていいはず。ミロカも流石に緊迫が顔の表面全体を覆ったかのような表情で、いよいよ詰めろへの一手を振りかぶっていく。6八への、と金のタダ捨て……でもその先には、穴熊を破壊する痛烈な左右からの連打が控えている。勝利を手繰り寄せる、最善最適の一手……


 と思われた。……のはずだった。


「……」


 はじめ、それは沖島さんが自陣の駒位置を枡目にぴったりと沿うように、指先で調整したかのような仕草に見えた。火の手が上がりつつも、未だ堅陣を保つ自分の穴熊の、それを構成する「歩」の一枚に、触れただけのように見えたから。でもそれはまごうこと無き、着手であったわけで。


 8六歩。……自ら穴熊のハッチを開けた格好だ。周りからは声未満の息を飲むような音や、喉奥で思わず鳴ったと思われるうめき声のような音がうわんうわんと反響してくる。どういうこと? 私の頭には、場違いながらも、頑強な戦車の上蓋がぱかりと開いて、そこから白旗を振りながら真顔の沖島さんがぴょこんと顔を出した図が浮かんできたのだけれど。いや、そんなことに脳の演算能力を割り振っている場合じゃない。


「……」


 慌てて目線だけ上げてミロカの顔を見やる。表情は変わってない……っぽい。今の指し手の真意を、自分の中でゆっくりと咀嚼しているような感じに見える。直前に差し出すように進めた自らのと金を無視され、まったくの場違いな一手を指されたんだ……ここ最近の素っ頓狂なメンタルの彼女なら、


 ……キレてもおかしくない。


「……」


 静謐な対局の場からの、阿鼻叫喚の鉄火場へと、ミリ秒単位でドリフト移行できるのが現在いまのミロカだ。そんなことにでも、もしなったとしたなら……私が身を呈してでも抑える……しかなさそう……うううぅん、いやだなぁぁぁぁ……


 しかして。その場では部屋中の酸素を喰らい尽くすほどの燃焼は起こらなかったわけで。でもそれが良かったことかどうかは果たして誰にも、私にも判らなかったわけで。


「……」


 と金で、相手の守りの要金かなめきんを取り払ったミロカの指先はでも、かすかに震えていた。勝ちを確信したのか、それとも……? でもどこからどう見ても詰めろに見える。この局面を沖島さんが打破しようとするには、ミロカの玉に王手を掛けるか、あるいは……


 詰めろ逃れの詰めろをかけるか、だけど。ん? いや待って待って。


 ……だけど?


 頭の中に、光と音が同時に来るレベルの雷が落ちたような衝撃を感じた。


 ようやく「そこ」に考えが至った時、そしてその想像通りに盤面が進んだその瞬間、私は思わず喉奥から大声が出そうになるのを、唇を噛み締めつつ、右てのひらで口周りに鼻の穴まで押さえてこらえなくてはならなかったわけで。

 

 5六馬。ミロカの陣に潜ったものの、数十手前からはもう何も活躍らしい動きも見せずに、ただ、そこにあるだけのように見えたその駒が、盤上の中央付近にひらりと帰り戻った瞬間、ギラついた、眩いばかりの光を放ったかのように、私には見えた。


 待って待って。これ詰めろどころの話じゃない……必死……? いやあれ? あっるぇ~?


 私の頭の中を、混沌という名の無数のボールみたいなのが跳ね回り始める。


 あれあれあれ、待って、あれあれおかしいよ? あれもしかして頓死? えとこう行ってあれれおかしいよねぇ? あれー、あれ、あ、歩が三歩あるからあれ、頓死なのかな? えーこれ頓死? 頓死なんじゃないの? これ詰んでる……よねきっと。


 ヒィィァァ、という抑えようもないほどの悲鳴が勝手に喉奥から絞り出ていた。


 つ、詰んでる……ミロカの玉が確かに詰んでいる……止めようと頑張るものの、身体全身がぶるぶる震えて止まらない。当のミロカも、完全無表情のまま固まっている……


 こんな、ことが。まばたきもうまく出来ずに、私は何も考えられていない頭で、何も浮かんでいないだろう顔をただ盤面に向けるだけだけど。


 そんな、私も含めた周りの混沌のような静寂の中、対局者ふたりの周囲だけは、冷たく澄んだ空気で満たされているような感じで。衝撃の一手に続く、盤上この一手が……そうする他は無い無二の一手だけが、お互いのやけに冷静でゆったりした動作により、ゆるやかなテンポを刻みながら、さながら棋譜並べのように取り行われていく……


 無言、無音。周囲ギャラリーも物音ひとつさせず、もう、ただ、その収束を見守るだけだ。空調すら、空気を読んでその動作音を止めてしまったかのようなそんな静寂の中、私は畳に両手を突いたまま、計時することすら忘れてただ、ミロカの固まった横顔をぼんやりと見上げていた。


 突然起こったこの事象に、沖島さん以外の全員が、うまく対応できていないように思えた。その事象を、現実の現象であるということを確認するためだけに、ふたりは駒を動かしているようにも見えた。


 でもこれで終局……諸々有ったけど、もう「勝負」はついた、よね……。盤を囲む空間にも、「終わった」感のある空気が徐々に流れ始めて来ていた。


 しかし、頭金あたまきんまで指されたところで、ミロカは鼻から一度ゆっくり深く息を吸い込むと、


「次」


 まったく感情のこもってない声で、ぽつりとそう言い放ったのであった。


 ちょ、ちょっと、っていうような言葉が私の口からは出かけたけれど、それを制するかのように、沖島さんは盤上の駒たちを無言で並べ始める……ええ?


 私の驚愕もさて置いて、予想外の「第三局」が、前局の余韻を引きずっているんだか、そうでもないのか分からないような空気の中、いきなり始まったのだった。えええ?


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