21. 空白
「びっ……くりした!」
目を丸くした表情は感情をそのまま出していて、吐き出された音も言葉をそのまま表現していて、亜樹は笑った。涼香がここまで驚くとは思わなかったが、亜樹を知る人知る人に言われるので中々衝撃なのだろう。ただ髪を切っただけなのに、クラスメイトだけでなくすれ違う度声をかけられるのはさすがに笑うしかない。
「どーしたの、って聞いて良いやつ?」
それでも続いた一言が涼香らしくて、亜樹は目を細めた。聞かれて答えられる範囲はそのまま答えてしまうしそうでない場合亜樹は黙するだけだが、まずそもそも聞いて良いのか、と尋ねる涼香の優しさが好きだ。
「切れる、って思ったから。思い立ったら吉日ってやつだね」
「美容院の床、面白いことになったでしょ」
「なったなった。美容師さんも笑ってた」
聞いて良いかどうか、どうしたのか。二つの問いに対する答えになっているようで足りていないような亜樹の発言を、涼香はそれ以上追いかけはしない。髪の話はそのままにさらりと方向を変えるのはさすがと言えるもので、亜樹はくすくすと笑った。
「シャンプーの量がホント少なくなってびっくりしたし、手間が思った以上に違うね。だいぶ楽」
「あの長さじゃ余計そう感じるだろうね。梳いていた、っていってもやっぱ多いし」
「そうだねぇ」
しみじみ頷きながら、涼香の教室を見渡す。驚いたようにこちらを見ている人も話している人もいる中で、照信と視線があって亜樹は微笑んだ。
びくり、と肩を揺らした照信を亜樹の視線を追って涼香も見る。
「なにしてんの」
「いや、邪魔しちゃ悪いかなって……ええと」
そわそわとした様子だがおずおずと近づいた照信は、それでも困惑を引っ込めることなく亜樹の首元を見る。今更邪魔だとかそういう発言も奇妙に思えたが、照信なりの気遣いなのだろう。どうしたの、と聞かずとも態度がすべて示している照信に、亜樹は苦笑した。涼香とは対照的だ。
「邪魔もなにもアンタ今更でしょ。こーいうときは似合うって言えばいいじゃん」
「えっあっ、うん、当然似合うよ! 似合う!! 似合うんだけどぉ」
涼香の言はあっさりしたもので、ぐううう、と照信はうめいた。うめいた、が、うめく勢いで下がった頭の下、固く拳を握る。その間はさほど長くなく、さがった頭はすぐ持ち上がり、正面を向いた。
「びっくりしたけど似合ってる。さっぱりしたよな」
「有り難うございます。さっぱりしました」
どこか硬い表情で神妙に言った照信に、亜樹は軽い声音で答えた。うん、と頷いた照信は亜樹の首元から目を逸らすようにして、涼香を見る。涼香は満足そうに頷いていて――ああ、と亜樹は思い至った。
照信と光介は親しい。涼香と照信の関係で休日を共にしていた、とはいえ、光介から聞いているのだろう。どのように言ったかはわからないが、そうなると違う意味で髪の長さを捉えられるかもしれない。
失恋したから髪を切るなんて漫画のようなことを真に受けたというには、そもそもの前提として亜樹が失恋したわけでもないので少々奇妙だ。佐藤との関係は先輩と後輩で未来の約束がないので、佐藤は失恋したかも知れない。けれど、照信が思い浮かべているだろうは光介のことで、認識としてどうなのか、亜樹にはやはりわからなかった。
そもそも、言ってしまえば光介にとって失恋かどうか、わからないのだ。告げただけという光介は、亜樹にそれ以上を求めなかった代わりに自身の気持ちを捨てるようなことは言わなかった。応えるどころか答えることもできない亜樹に、光介は求めなかった。亜樹も、光介の変化を求めていない。
照信にならなにか言ったのだろうか。気にならないといえば嘘になるが、光介の示した言葉が亜樹にとってはすべてで、それだけでも良かった。そうして考えると、答えはどうにもうやむやになる。亜樹にはどうせ、わからない。
どちらにせよ照信が知るなにかを理由に考えるよりも、単純になにかの転機、と見てしまう方が楽だろうか。その考えでいくなら、ある一面での正しさも出来る。
なら、転機の理由までは伝えずとも、転機の成した意味を伝えればいい。
「ずっと切りたくて、ようやく切れたんですよね。似合わないよりはいいんで、そう言ってもらえてよかったです」
髪を切った感情は、その言葉ですべてだ。切りたかった、と言ってしまうのは少し、ほんの少しひっかかるけれども。切りたくなかったかどうかでいえば、切れた今、どこか気持ちが軽い。だからあくまで悪い理由でないことを伝えるために、言葉を重ねた。
中々思い切りがいりそうだものねぇと笑う涼香は、あくまで軽やかに捉えてくれているようだった。亜樹の惰性を涼香は知っていながら、それ以上聞かなかったのと同じように。髪を切っても変わらないことが、少し嬉しい。
「朽木さんにも似合ってる、と言われたので、まあ大丈夫だとは思ったんですけど」
照信と涼香が目を丸くする。よかったじゃん、と涼香が笑うのは、光介が似合うと言うのが意外だったからか、それとも光介の話題を亜樹がわざわざ出したからかはわからない。照信は目を丸くした後泳がせ、それから笑ったので涼香と違う理由だろう。
「良かったんだな」
涼香の良かったとは少し違った言葉に、亜樹は頷いた。切ることは、悪い理由ではない。そういう意味を照信が受け取ったことに、目を細める。
佐藤に話す時間をもらったあと、亜樹は光介とも話をした。佐藤への言葉と違いほんの少し伝えれば良いだけだったので学校でも構わないとは思えたが、亜樹が伝えることに光介がどう答えるかわからない。言葉選びによっては話が広まってしまうし、それは亜樹の本意ではなかった。
あれだけ丁寧に髪を解いて、ボタンを切ってしまうようなことをしたのに。光介は亜樹の切った髪を見て、驚いたように目を見開いてもなにも言わなかった。聞いて良いのか、悩んだのかもしれない。涼香のように直接尋ねるのではなく、黙してしまうのは光介だからだろうか。なんでかつい笑ってしまいながら、亜樹は言葉を向けた。
先日は有り難うございました。貴方が良ければ、卒業後も友達であれたらと思います。
ただ、そんな程度の言葉だ。ぱち、ぱち、と瞬いた光介の眉は少し緩く下がっていた。少し幼さを感じる表情で、はくり、と唇がなにかを形作る。
光介が苦しくないのなら。光介が面倒に思わないのなら。亜樹は恋心を理解しないが、光介が本当に、本当に話すだけでよいのなら、亜樹はおそらく光介との会話を好んでいる。恋が叶わないのに思うのが苦しい、というのなら別だ。そうでないのなら、照信が恋慕を持ちながらも友愛を楽しむように、そこに光介の望みがあるのなら。
面倒だ、と感じたやりとりの中でも、亜樹は確かに光介の言葉を、誠意を、好んでいた。
緑静が良ければ。
返事は単純で、静かだった。朽木さんと話すの、好きです。そう答えれば俺も好きだと答えられて、それで本当におしまいだった。
光介に恋人が出来れば応援するだろう。涼香もきっと、照信に対してそうだ。そこに、執着はない。けれども、共にいる時間を否定するものでもない。
髪を切ったんです。なにも言わない光介にそう言えば、やや間を作ったものの、似合っている、と律儀に光介は言った。それ以上には、ならなかった。そういう答えが、亜樹にとって心地よかった。
甘えてしまっているのか、本当に負荷でないのか、亜樹にはわからない。けれども、光介は静かに、好きだと、言った。話すのが好きだという亜樹に、俺もだと。
亜樹は理解できないからこそ、言葉を信じることを選ぶ。素直に、信じてしまえる。
「良かったです」
照信の言葉に、ほんの少し空いた間へ滲ませながら亜樹は答えた。うん、と照信が頷く。
結局なにが変わったかといっても、なにも変わらない。髪を切っただけだ。佐藤や光介と交わした言葉は、日々を変えるようなものではない。佐藤の感情や光介の思いは亜樹には関係ないし、亜樹に変化を望むものでもないから当然だろう。
なにもかも特別な変化はない。けれども、軽い。
まだ少しなじまない首後ろの空白はそれでも心地よく、亜樹は笑った。
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