13. それだけ

 光介が二度瞬いた。亜樹が笑みを深めると、光介の眉間に皺がよる。亜樹にはこの、繊細で面倒な人の思考はわからない。


「ただそれだけです」


 光介の唇が薄く開いた。少し伏せるように動いた頭と一緒にそれは閉じられ、また光介の頭が動くと同時に今度ははっきりと開く。


「苦手に理由もなにも必要ないだろう。ああいうのは、理由がある方が稀だと言うし」


 まっすぐな言葉に、今度は亜樹が瞬いた。理由。理由になってしまう。それを亜樹は一等好まなかった。光介は亜樹のことを知らない。わからない。だからこそ言える言葉だろうが、けれども。


「……理由はできない。作らなくていい」


 続いた否定は、知らないことを知っているものだった。亜樹の理由を知らないまま、知らないことを知りながら、はっきりとした否定。亜樹の言葉は、亜樹の意識よりも軽率だった。光介の言葉でそれを理解し、にもかかわらず踏み込まれないことも理解してしまう。


 この人はそういう人なのだ。思いこみをしたくないのに、増えたラベルと、その貼られた瓶がはっきりとした形になって、だから亜樹はひっそりと息を飲んだ。


「緑静はもっと、……難しいとは思うけど。言ってくれ。嫌なことは、しないようにしたいし、我慢しているのも違うだろ」


 それは光介も同じではないだろうか。亜樹にとって光介は、面倒に巻き込まれた人だ。照信の勝手に近い提案を受け入れて、それだけでなく一緒にいただけで亜樹を気遣って、こうして誤解をされかねないのにわざわざ時間をとって、どれだけ自分を後回しにしているのか。亜樹の黙する部分は、決して我慢ではない。それが一番楽だからだ。

 なのに目の前の光介は、ひどく難しい顔をしている。それを言うことの身勝手と言わないことを秤に掛けて身勝手を選んだような、正義を告げるとは言い難い固い表情で、亜樹の前に言葉を置く。


「りょ、くせいのこと、すき、だから。……俺たちだって、他の奴だって、緑静が我慢すればいいなんて思ってない、と思う」


 いびつな音の告白は、告白という言葉が適切なのかわからない。あるがままの事実というには慣れておらず、けれども秘めた心と言うには当たり前を理解しない亜樹に祈りを向けるような音でもあった。


 確かに、亜樹は嫌われているかどうかでいったら好かれているほうだろう。俺たち、と光介が言ったことは意外だったが、考えてみれば嫌いならここまで面倒をしないのかもしれない。光介の繊細なお節介だからといっても、嫌いな人間にここまでしたら聖人にもほどがあるだろう。

 理解できる事実だ。そんなものですらつっかえるような不器用さが、誠実さを重ねるようなのも含めて光介なのだろう、と想像できる程度に、理解できる事実。

 けれどもそれは、亜樹の本質ではない。


「別に、僕は我慢していませんよ」


 かろうじて笑みを浮かべたまま、亜樹は言葉を投げた。光介が机に置くように話すのとは逆で、亜樹の言葉はやはり軽い。眉を下げて笑うことで多少柔らかくなるようにとは意識したが、それでも音で聞くと随分と軽薄だった。光介の言葉の後だから、余計そう感じるのかもしれない。

 なにか言いたげな光介に、いっそそれでいいと思いながら亜樹は軽薄さを深めるように笑い方を変えた。


「確かに先日の件は我慢に見えるかもしれませんが、苦手だけどそれだけ、なんです。どうだっていい。朽木さんのように人を思いやっている、というわけじゃありません。僕はこう見えて適当なんです」


 光介の言いたげな表情は変わらないが、けれども言葉は挟まれない。こんなことを言っても光介には困るだろう。そもそも言うつもりなどさほどなかった。


「どうでもいいからとりあえず、無難なことを選んでいるんです」


 涼香には、言ったことがある。あの時は子供心のなげやりさで少し拗ねた感情もあったけれど、今は本当にどうでもいい、でしかない。ばぁか、と言った涼香には悪いが、涼香さえいれば亜樹はそれでよかったし、そうして選んだものごとは亜樹にとってやさしかった。


 今言葉を投げているのは、幼い当時にした涼香への甘えとは違う。それだけははっきりとわかった。


 おそらく今亜樹の言葉を増やしているのは、光介への憐憫だ。誠意を重ねても重ねても、それに触れるのが亜樹ではあまりに可哀想だ。亜樹は光介に誠意を返そうとするが、それは好意や善意ではなく、彼の誠意に見合った物を渡す必要があるという常識的観点でしかない。

 それなのに、光介はあたりまえに懸命で、その誠意がこぼれ落ちるのは哀れだ。こんなに、こんなに優しい人なのに。


「僕のこれは、偽善というか、まあ、とりあえずそういう結果になるってだけですから、お構いなく」


 沈黙が落ちる。この場所で言うべきではなかったな、という思考は、ようやく耳に戻ってきた音楽につられて浮かんだ。周囲の様子を窺っても特に気にかけている様子はないので問題は多くないだろうが、光介の好む場所で嫌な言葉を使ってしまった、それは少しだけ影を落とす。

 光介の誠意が零れ落ちる故に選んだ言葉だが、結局その言葉で光介の場所を汚すのは、亜樹の迂闊さと軽薄さのせいだ。結局、やはり亜樹は、亜樹自身がそういう底の浅い雑さであることを実感するしかできない。光介と亜樹は、大きく違う。


「……やらない善よりやる偽善」


 ぽつ、と光介が下を向いたまま言葉を落とした。よくある言葉だ。知らないわけではなく、実際亜樹の軽薄さであってももめ事にならないならばそれでいいだろう、と、亜樹は後ろめたく思ったことなどない。

 ただ、目の前で重ねられる、繰り返させる誠意に並ぶには、その言葉は見合わない。

 光介は、亜樹の軽薄さを知らなすぎる。あまりに言葉のいくつもがもったいないのに、光介はそんなこと考えもしないように重ねる。得意ではないだろうに、ただ、ひとつずつ。


「人の気持ちなんて、誰にもわからない」


 顔を上げて続けられた言葉は、亜樹の考えと合致していた。亜樹は光介の誠意を察しても、なぜそれほど繰り返せるのかわからない。わからないから、面倒で繊細だというラベルを貼ってしまう。貼らないように、そのままで受け止めてその時その時に合わせればいいのに、繰り返しの時間はそれを実感として残してしまっている。実感しながら、結局わからないままだ。光介も亜樹の内心を理解しないし、否定する言葉はない。


 ないのに、光介はただただ、まっすぐだ。


「無難だろうが偽善だろうがなんだろうが、緑静のやってることは、受けた側からしたらやってもらったこと、だ」


 それも事実だ。したことはなかったことにはならない。だから適当に、そんなもので、そういう人物と亜樹自身はラベルを貼られることを好んでいた。他人に貼りたくないのは、そういう風、と思って勝手な期待をしたくないからだ。貼ってしまっているし、そうだと考えるようになってしまっている自覚はあっても、できるだけ期待はしたくなかった。そのくせ、自分はそういうもので当たり前に思われて、流されるくらいがよかった。


 どうでもいい期待が増えすぎないように、ただ一枚のラベルですませたかったのかもしれない。緑静亜樹という人間と言うよりは、お人好しと思われる程度にそこそこフットワークの軽い、適当な人間と見られるのが理想だった。

 だからだろう。そういう人間に対して、光介は少し向き合いすぎる。もしかするとそのことにも、亜樹は同情しているのかもしれない。


「してもらったことは、嬉しい。それに、我慢じゃないっていっても、好きじゃない場所に行くのは、いい気分はしない。だからそれはやっぱり緑静にとっていいこと、じゃ、ないし――楽しいことをして、いいと思う」


 多くを言葉にしたからか、光介はそこで息を吐いた。できた空白にコーヒーを飲めばいいのに、それを忘れたように光介は身を固くしている。

 おそらく光介にとって落ち着く場所だろうに。不器用な人だと思いながら、今更話を合わせるにはどうすればいいのか、なにがしたいのか亜樹にはよくわからなかった。


「特にしたいこと、ないですし」

「サッカーは」


 投げやりに吐き出した言葉に、光介が言葉を返すのは思ったよりも早かった。サッカー。確かに涼香と照信が出会ったきっかけはサッカークラブだったので、好きでやっていたと考えるのは違和感ないだろう。

 ただ、体育の授業でやるお遊びサッカーは無難にのらりくらりとこなしただけだったし、涼香と一緒にいるということは涼香目当てと感じられやすいだろう、というのが亜樹の感覚だ。だから、そこで涼香より先に出た単語が少しだけ意外だった。


「涼香に誘われてやったものですし、嫌いじゃないですよ。でもまあもうやる機会なんてないですし」


 好きか嫌いかでいえば、確かに、亜樹にとって好んだことではあった。あの時間、涼香と共にあれたことが。考えを挟むことのない時間が。過ごした時間は確かに楽しいことで、しかし、また続けるかというと亜樹は否定するだろう。

 男女混合のサッカークラブは卒業した。女子サッカークラブを選ぶには、理由が必要になりすぎる。場所が遠く、遊びの余白は減る。わざわざ遠くに足を延ばし、洗練と崇高な志で戦い続けるには、亜樹にとってあの時間はもっと、もっと違った。

 あれはもっと、


「みたこと、あるんだ」


 光介の言葉に、亜樹はじっと光介を見た。みたこと。頭の中で繰り返すと、光介の視線が少しだけ逸れる。


「小学生の時。照信が私立中学の受験にいく関係で、西之と自転車を走らせたことがあった。……その時、グラウンドでサッカーをしているのを、見た」


 意外な告白、と言えるだろう。亜樹は黙したまま、首肯もなにもしなかった。亜樹の反応をを待つわけでもなく、光介はぽつ、ぽつ、と思い起こすように言葉を続ける。


「その時、俺は一人で。最初はにぎやかだな、と、思った。特に気にしなかった、んだけど。突然音が変わって」


 音が変わった。その言葉に心当たりが無く、亜樹は一度瞬いた。シュートが決まったのかもしれない。または、止めたか。そうすれば確かに、空気も音も変わる。けれども光介の眉間に寄った皺は、どちらかというと苦しそうに見えた。


「……女の子が、怪我をしたみたいだった。ゴールキーパーだったから、シュートを止めるときに。結構大きな接触だったみたいで、平気だと言っている様子だったけれど控えに戻って手当されていた」


 ああ、という納得は亜樹の内心に留まった。確かに亜樹は、怪我をしたことがある。ポジション柄接触はしやすいし、小学六年生ともなると男女の体躯差がいくらか出始める時でもあった。といっても、成長期は女子の方が早いので全体として見るとそこまでではないし、さほど問題にならない程度だったが。それでも確か、少し頭から血がでてしまったことがある。脳しんとうといった問題はなかったけれども、試合で興奮しているだろう子供の平気という訴えを大人が聞くわけもない、そういう時だった。

 だから亜樹自身、接触相手の負荷を減らす為に平気とは言ったが、素直にベンチに戻ったはずである。なので楽しいこと、に上げられるのがその光景というのはいささか疑問であった。首を傾げることはないが見返す表情からその疑問を読みとったのかはたまた元々言葉を続けるつもりだったのか――おそらく後者だろう、と亜樹は思うが――光介は小さく息を吐くと、改めて亜樹を見つめた。


「俺にとっては、結構驚く怪我、だった。痛そうだったし、それなのに試合は再開するから余計驚いた。――なにより、女の子は、その後もベンチから仲間の応援をしていて。自分はベンチなのに、自分のチームがシュートを決めたとたんすごく嬉しそうで。……印象に、残ってる」


 そこでようやく言葉が切れた。亜樹の知らぬところで光介が見ていたのは意外で、いまいちピンとこない。見たことを嘘と言うわけではなく、それを伝えるためにやけに言葉を多く並べた光介にどう返せばいいのかわからないのが本音だった。


 応援も試合の内で、喜ぶのは当然だ。自分がそこにいないことを悔しがるほど亜樹は入れ込んでいなかった、と思う。それでもそこに自分が入れば懸命になる程度には、おそらく好きだった、とも。

 けれどもやっぱり、それらはそれだけ、でしかない。過去の残像。


「――あんな風に笑えることを、選ばないのか」

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