10. はじめて

「……入ってもいいか?」


 ぽつ、と浮いた沈黙をごまかすように、光介が静かに尋ねる。つい漏らしてしまった空気は確かに笑みとなっていて、それは嘲笑の音ではなかったが亜樹は口元を手の甲で隠した。


「入りましょう」


 微笑しながら、一歩先に扉を開けて押さえる。手を伸ばしかけた光介が眉をしかめて拳を作ったので、亜樹はにっこりと笑って促した。ありがとう、という光介の音にどういたしましてと返したところで、いらっしゃいませ、と穏やかな声がかけられる。


「二名様ですか」

「はい」

「どうぞこちらへ。カウンターも空いていますが、希望の席はありますか?」


 店員の言葉に亜樹が光介を見ると、光介も尋ねるように亜樹を見た。亜樹自身はどちらでもよい。が、気になるのならカウンターの方が見やすいだろうかとそちらに視線をやる。カウンターにいるのは、今は二人。


「希望は、あるか?」

「特にないです。朽木さんは」

「窓際の、奥で」


 意外にも光介はカウンターと逆を選んだ。亜樹には物珍しい道具が多く、カウンターに座らなくとも周りに客が点在しているようなのでちょうどぽっかりと空いた席と言えるだろう。窓際なのは涼香達と合流するからで、それでも奥側といえる場所を選ぶ必要はない。


 また、気を使わせたのだろうか。そう思うが、聞く方が野暮にも思えて亜樹はそれ以上言わずに案内された席に着いた。

 赤い生地に、艶やかな黒茶の木で出来たイスはモダンとでも言うのだろうか。ジャージとリュックサックは馴染まない。別にそれで落ち着かない、というような性格ではないのでいいのだが、椅子に置いたリュックはやけに珍妙でもあった。

 コーヒーの香り、サイホンの音、部屋に馴染む程度のささやかなワルツ。やはり観光にしてはあまりに浮いた専門店じみている店で、大人の話し声すら音楽に混ざる。

 そんな中で、目の前で背筋を伸ばし座っているのはジャージの同級生。リュックサックと同じく馴染まないように思えるのに、当たり前のようにそこにあるからなぜか音楽と混ざってしまう。


「緑静は、なににする」


 置いてあるメニュー表を開き渡した光介の問いに、亜樹は「有り難うございます」と返事にならない礼を返した。なにがいいのか一切わからないのは正直なもので、特別興味もない。コーヒーの香りは、おそらく好きな部類だろう。だが本格的な場所で飲む機会など無かった。てんで見当がつかないのは事実だ。

 見てもやはりわからない。知識として知っているものと、実際の味への理解は別だ。


「朽木さんと同じにしてもいいですか? こういう店、実は初めてで」

「はじめて」


 光介の復唱に、亜樹は眉を下げて頷いた。お手上げです、と示すような微苦笑に、光介はメニューを眺める。


「おもしろそうって言ってたの頼むんですか?」

「俺は、」


 なにか考えるような言葉は肯定であり、しかしそれ以上にならなかった。


「お冷やをどうぞ」

「有り難うございます」


 亜樹の礼に、店員が楽しそうに目を細める。浮いているのは確かだろうが、物を知らない子供が来たことに眉をひそめるのではなくどちらかというと微笑ましく見守られているのだろう。亜樹も光介も体躯は大人より大きいことも多い方だが、ジャージとリュックサック、それに他の見学者の空気でも大人からしたらおそらく見守ってしまう子供の立場だ。

 普通の大人は、そういうものだ。健全な大人の反応だろうことに亜樹はひっそり息を吐くと、光介をみる。


「決まってるなら注文してしまいます?」


 亜樹の言葉に、店員がペンを持つ。しかし、光介は首を横に振った。


「もう少し、悪い」

「いえこちらこそすみません。じゃあ、後でまたお願いします」


 光介の謝罪に謝罪で返すと、亜樹はにっこりと店員に声をかけた。ごゆっくり、と笑い返した店員は、鳥の呼び出しベルを説明だけして去っていく。


 光介が決めるまで窓側の棚を眺めていれば十分だろう。そう思って亜樹がそちらを向くと、光介がメニューを机に置いた。文字は亜樹から見れば読みやすく、当然光介から見ると逆さまになる。


「初めてなら、選んで欲しい」


 ぽつりと置くような静かな声は、亜樹に向かっていた。ぱちり、と亜樹が瞬く。


 光介の視線はメニューを見るように逸れた。選んで欲しい。言葉を繰り返し、亜樹は文字列を眺める。

 人をおもんばかるような理由での忠告はこれまで何度かあったが、光介の純粋な希望、というのはおそらく始めてではないだろうか。亜樹の機会を思ってだろうが、それでもその望みは確かに光介のものだった。

 単純な話、人の希望に添うことは簡単だ。適当に見て、適当に選ぶ。どれにしようかな神様の言うとおり。そうやって亜樹の思考を混ぜずに決定してしまうことだってできる。


「せっかくだし」

「同じ物だとご迷惑ですか?」


 亜樹の言葉に、光介が視線を亜樹に向けた。同じ物だから迷惑など、おそらく光介は言わない。聞き返されて答える言葉が見つからないのか返事をできない光介の内心を亜樹は知らないが、それでもおそらく、という予測は立ってしまう。立てられてしまう。

 口を閉じた光介は、首を横に振った。どう返せばいいかまだ迷っているだろうからこその沈黙。それを踏みにじるつもりはなく、しかし理由を示すために亜樹は言葉を続ける。


「こういう店は、初めてです。決めようと思えば無難にメニューの一番上からだって選べます。特に好き、というのがないので」


 光介の眉間のしわと、少し伏せた瞳は罪悪感なのだろうか。それとも亜樹の言葉に傷ついたのか。

 同意するのは簡単で、亜樹はそればかり選んできた。相手の希望に添うということは、お互いに楽なのだと思う。亜樹はどうでもいいのだから、希望がある人間に合わせてしまえばすべてそれでいい。


 それでも言葉を重ねるのは、別に光介が特別だというわけではない。そんな特別、涼香相手でもないのに持ち得ない。それでも、それだから。


「初めての場所で朽木さんが好んだ物を初めて一緒にいただけるなんて、今しかない気がしまして」


 光介の伏せた顔が、少し顎を引いたことでさらに伏せられた。けれども瞳は驚いたように見開かれていて、そのあとしかめつらになる様子まではわかる。

 じゃあこれがいいですの一言は、簡単だ。亜樹はそのほうが気楽だ。けれども光介は、おそらくこの場所を好んでいる。この店と言うより、この空間を。コーヒーを語る言葉から、喫茶店という物自体が好きなのかもしれない。亜樹をつれて下りるための方便だとしても、そこは本当だったのだ。

 苦手だろうに亜樹の手を引いて、そのことにはなにも触れないで。やっかいを抱え込むような光介に、亜樹ばかりが楽を選ぶのはなんとなく違うように思えた。


 亜樹と光介は、特別親しいわけではない。だから、光介の重ねた行動に、亜樹は言葉を重ねて向き合う必要がある。光介の好む場所を、どうでもいいで踏みにじるのは亜樹の楽がすぎてしまうのだ。


「朽木さんがおもしろいと思う物を飲む機会、僕にくれますか?」


 尋ねれば、じわじわと光介の目尻が赤くなるのがわかった。気恥ずかしいのだろうか。勝手をやったことを思い出して後悔してしまっているとしたら、それは亜樹の本意ではない。亜樹が言葉を重ねたのは確かに光介の苦手とした行為への対価じみたものがあるが、それは光介の居心地を悪くするためではないのだ。


「……わかった」


 やはり適当に同意しておいた方がよかっただろうか、と考えるのを遮るように、光介が頷いた。亜樹の思考はあくまで亜樹の頭の中なので実際は遮っているわけではないのだが、その返事で亜樹はとりあえず反省を棚に置くことにする。するならまたなにかあったらでいい。

 お冷やを一度口にした光介がベルを鳴らそうとして手を止めた。赤みは気のせいだったとでもいうように引いていて、亜樹をちらりと見る目は相変わらず静かだ。


「押すか?」


 そうして尋ねられた言葉に、亜樹はついというように笑みをこぼした。反射のように口元を甲で隠しくすくすと笑う亜樹に、光介が首後ろを掻く。


「じゃあお言葉に甘えて」


 代わりに鳥のベルを押す。亜樹は光介に言ったように、こういった機会をほとんど持たなかった。外食は涼香と出かけたときの機会が多いだろう。照信が好んでベルを押したがるのはいつものことだ。たかが押すだけだろうと亜樹は思っていたが、そういった出先で子供が好んで声を上げるのも知っている。


 亜樹にとってはどうでもいいことだが、光介もそういったものを知っていて尋ねたのかもしれない。その律儀な問いは幼さと気遣いが混ざったもので、ちぐはぐなようで奇妙に合致していた。

 光介の幼さは想像ができない。そしてその光介にまるで幼子を気遣うように声をかけられたことが、同級生からそう受けること無い扱いがやけにおかしな心地を作っていた。


 そうして選んだコーヒーの味はやはり亜樹にはさほどわからなかったし、光介の言う面白味もわからなかったけれども。


「……おいしい、か」

「そうですね」


 尋ねる光介に、亜樹はいつもの笑みで浅く頷いた。これをおいしいと言うのが適切か、亜樹に判断することは難しい。それでも、答えるならば。


「おいしいです」


 香りの心地よさと、呼吸が出来る空間と、耳に馴染む音楽の空間。それは、確かに好ましいものだった。

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