高校二年生

4. 繊細?

 長い髪が跳ねる。背に当たるそれは、惰性で続けてきた故に慣れたものだ。平時とさほど表情を変えぬまま、亜樹は枝にかかったハンカチを手に滑らせる。


「有り難うございます先輩!」

「ラッキーだったね」


 低い枝を掴んだ腕一本分、高さが足りた。ただそれだけだと言うようなのんびりした調子で、亜樹は手にしたハンカチを佐藤に差し出す。


「お手数おかけしました。……よかったぁ」


 ハンカチを抱きしめるようにして安堵の息を佐藤が吐いた。亜樹は笑顔で軽く頷きながら、左足を一歩引く。


「じゃ、僕はこれで。気をつけてね、なにかあったらちゃんと先生とかに頼るんだよ」

「はい。いつもすみません」

「僕のは見かけたついで。気にしないでね」


 ひらひらと手を振って、亜樹は下駄箱に向かった。頭を下げる佐藤は相変わらず真面目で気にしすぎるところがあるのだろう。委員会の時もそうだが、亜樹からすると佐藤の礼はなにかと神妙なのだ。先ほどのハンカチだけでなく、なにか自分の許容範囲を超えてしまうと途方にくれてしまう癖がある佐藤に声をかける度やけに礼を重ねられてしまうし、お礼を、と改めて言われることも多い。

 どれも手間と言うにも終わればすぐにどうでも良くなる程度の、ほんの少しの行動だ。大概礼の一言ですむ話で――そこまで考えた亜樹は、張り付けた微笑にほんの少し力を入れた。

 それでもいびつになる前にゆるやかな微笑を笑顔に切り替えて、亜樹は立ち止まっている光介に軽く会釈をする。


 はく、と動いた唇には気づかないふりだ。そのまま上履きに履き替えていると、簀の子が音を鳴らした。影が近くなる。


「すみません、邪魔ですか?」

「……いや」


 短い否定。なんの用かはわからないが明らかに刺さる視線に、亜樹は笑顔を深める。さきほど別れた佐藤に追いつかれるのは面倒で、光介の視線から言葉を読みとるのは亜樹にとって無駄だった。

 簀の子が鳴る。廊下に戻った光介は、亜樹を見ている。移動するためにやむを得ず近づくと、光介が口を開いた。


「大丈夫か」

「はい?」


 問いかけに亜樹は首を傾げた。何が言いたいか分からず、佐藤のいる場所をみる。箒を持った女子と佐藤が話をしている姿が見えた。軽い所作から、おそらく当初はそれでハンカチをとろうとしていたのだろう。箒を運び戻ったところで佐藤の手に収まっていたので笑い合っている、というところか。佐藤の表情に暗さはない。


「えっと、一応ハンカチは破れてませんよ」


 見られていただろう予測ぐらいは亜樹にも出来る。しかし光介は亜樹の言葉に頷くのではなく眉間にしわを寄せた。はずれだ、と思いつつも、光介の言葉は短すぎてどうしようもない。


「佐藤さん、今は笑ってるみたいですし」


 光介の行動範囲を、亜樹は知らない。もしかして彼女を案じたのか、という予想は、伏せた目と短い呼吸が否定を示して終えた。ため息になる手前のような音に首を傾げ直すと、瞼を上げた光介はやや下に視線を動かした。


「手」


 手? と首を傾げかけ、しかし止まった。ああ、と亜樹は笑顔を浮かべる。


「平気ですよ。あの枝、別に棘もないですし」


 ひらひらと光介の前で手を動かしてみせる。お節介というか心配性なのだろうか。カテゴリについて興味はないが、面倒な人だ、と亜樹が貼り付けたラベルは剥がれそうにもない。

 光介の眉間の皺は、唯一光介の中ではっきりしているものだろうか。


「擦ってる」

「少しですよ。サッカーする時の方がよっぽどです」


 一応元女子サッカークラブだ。それは出会いから分かっていることで、なんてことないと亜樹は笑う。グローブをしているので他のポジションより手の擦り傷はしづらく、する場合はもっと別の箇所の方が多くはある。が、しかし怪我はどこでもついて回るものだ。そもそも赤子ではないのだし、学生の怪我などよくある話だろう。


「手は洗いますし、平気ですよ」


 下駄箱から階段近くの水道に向かえば、光介も同じように移動する。なんで、という言葉は飲み込んで、亜樹は苦笑した。佐藤に気を使わせないための移動だが、丁度人影が無くまるで光介と用事があるような状況になっている。一切用事など無いのだが。


 水で手を濡らすとぴりりとした熱を感じ、石鹸を使うと染みる。それでもなんてことないように手を洗っていると、光介が首後ろを掻くのが見えた。


「ああいう時は、人を呼んだ方がいいだろう」

「佐藤さんにはそう伝えましたよ」

「緑静も」

「取れたらラッキーで、丁度ラッキーだったんです」


 とつとつと落ちる声は静かで、説教じみた音に聞こえないのは光介の強みなのだろう。かといってその静かな声に好意も敵意も持たない亜樹は、ただただ事実を返すのみだ。

 短い髪の付け根を指が掻くのを見ると、光介もなんらかの気まずさはあるのだろうとは思う。思うが、亜樹にとってはそれ以上にならない。


「体育の授業とか、よくあるでしょう」


 水滴を落としてハンカチで手を拭くと、亜樹はにっこりと笑った。眉間の皺は減ったもののそれでもなにか言いたげな光介に、亜樹は左手を開いて見せる。


「そもそも綺麗な手ってわけでもないですし。過剰ですよ」


 もうサッカーをする機会はない。昔のようなマメや打ち身の跡はないが、それでも亜樹の手は普通よりも皮が固く、指もふしばっており背丈に合わせて大きい。比喩で見かける白魚のような手とは掠りもしない手だ。


「……けど」

「朽木さんだってそうじゃないですか? 手」


 ぐ、ぱーとして見せながら問いかけると、光介は後ろにあてていた左手を下ろした。覗き見れば、案の定マメの潰れた手をしている。


「あれくらいで心配してたらこの手だって危ないでしょう。でも、心配されたら練習を否定しているようなものですし、過度な心配は意味ないと思いませんか」


 触れずとも、光介の手が自身より固いことはたやすく分かった。潰れたマメの上にマメが出来て固くなったものは、マメという異物と言うより既にその手に馴染んでいるものだろう。亜樹にとってサッカーはもうあまり縁がなくなったものだが、光介は現在も剣道で汗を流している。亜樹を案じるよりよほど、痛みも傷もあるはずだ。


「スポーツはスポーツだ。……他の奴には人を呼べ、なのに、緑静がそこから抜けるのはおかしいだろう」

「ああ」


 基準がようやく納得できて、亜樹は息を吐いた。確かに示すなら亜樹の行動は道理に適っていない。それでも他人への言葉なんて他人が聞くと思っていないのでどうだっていいのだが、光介は納得しないだろう。

 自身の言動に不備があれば、当然の反応だ。


「気をつけます」


 とりあえずの笑みと一緒に亜樹が答えれば、神妙な首肯が返る。といっても、神妙と判断したのは亜樹なので実際のところは不明だが、やけにきっちりとした首肯はその単語が見合っていた。


「すみません、気を使わせて」


 奇妙な人だ、という感覚を謝罪で流す。いや、と短く返った否定はやはり静かな声のままだ。


「うるさくて、悪い」

「いえいえ」


 自覚はあるのか。そういう内心は言葉にせず、亜樹は笑顔で返した。光介の指摘は、確かに口うるさいの部類に入るだろう。それでもうるさいと言うよりは面倒の方が強い心地で、階段に体を反転させた。今年は同じクラスになってしまったとはいえ並んで移動する気はないし、光介もやはり後ろをゆったりと歩くだけだ。


 予鈴が鳴る。昼休みが終わる合図に、亜樹はいいタイミングだと歩をさらに早めた。


(本人も面倒なのかなぁ)


 口うるさいから面倒と言うには、確かに口うるさいものの声が静かすぎてうるさいという単語が似合わないのが光介だろう。それでも本人はうるさいと自覚していて、しかし言わざるを得ない。亜樹が面倒と思うように光介も自身を面倒と感じているのか、と考えても、亜樹は光介の内心を知らないし、想像するつもりもなかった。


 それでも、先ほど謝罪で流したはずの感覚が浮上する。奇妙な人。亜樹はどうにも面倒を見る側が馴染むようで、基本的に誰かの手助けをすれば単純に感謝が返るだけだ。そんな亜樹に対してそれこそ”口うるさい”が似合うのは涼香で、それは鳥のさえずりのように愛らしい。

 ただ、涼香の鳥のさえずりは光介のような面倒な部分は無い。亜樹を案じながらも、お互いある程度のおおざっぱさがあるからだ。涼香が見てたら先ほどの件は「横着しないで道具か先生に頼みなよ」の一言で終わる。その点は気楽だし、正論は心地よいくらいだ。


(……繊細?)


 涼香と似た発想かも知れないのに面倒が強いのは、案じる基準がだいぶ低いのと言葉の少なさだろう。そのくせ静かだからうるさくなくて、厄介が目立つ。以前感じた神経質という認識は、さほど間違いではなく思えた。

 面倒な人に並ぶラベルがまた増える。亜樹はほんの少し息を吐き、頭を掻いた。

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