2. 分かりづらい人
亜樹の言葉に、光介の視線もそちらに向かう。のんびりと手を振る西之に軽く手を挙げた光介の息が短く吐き出されたのを聞いて、亜樹はようやく素直な微苦笑を浮かべた。真面目というかなんというか、という言葉は飲み込んだまま、よかったですね、と声をかける。
「ごめんごめん、遅くなった」
「いえ、お手数おかけしました。一緒に歩いて行っちゃえば戻る手間もなかったでしょうに」
「待ってて言ったのは俺だしさ」
ははは、と笑う西之はのんびりとした調子でビニル袋から鋏を取り出した。どちらに渡すか、というように半端な位置で止まった鋏を、光介の手が掴む。
「悪い、有り難う」
「感謝しろよ」
短い礼に対して西之が口角を片方だけ持ち上げる。にやり、というような表現が似合うその表情と意図は亜樹に対するものとは違う。むっつりと口角を引き下げた光介の様子から、やはり三人が親しいのだな、という実感を亜樹は強めた。そうでなければそもそも友人の付き添いなどしないだろうが。
光介が鋏をボタンの手前に構え、それから亜樹の髪を押さえ持つ。
「痛かったら、言ってくれ」
「平気です。ざっくりしちゃって大丈夫ですよ」
先ほどと同じような固い声に、亜樹はあっさりと笑って言い捨てた。たかが絡んだ毛先。多少手が滑ってもその程度気にならないほどに、亜樹の髪は長い。
眉をひそめた光介は、しかしそれだけだった。自身のボタンを見下ろし、じゃきん、と鋏を鳴らす。
「悪い」
するり、と亜樹の毛先は垂れ下がった。刃先を手の中に納めた光介は、しかし西之に返すべきか逡巡したように半端な位置で手を止め――ぱちくりと瞬いていた亜樹の瞳が、まあるく、まあるくなる。
はく、と一度、亜樹の唇が戦慄いた。西之がなぜか口笛を鳴らして、半端な位置だった光介の鋏をかすめ取る。
「いくらだった」
「んー、あとでジュースおごってくれればそれでいいよ。鋏いる?」
「いらない」
「じゃ、それで手打ち。感謝してくれればいーよ」
有り難う、と光介が大真面目に返すのにへらへらと笑う西之はそれ以上の言葉を選ばないのだろう。大きな手で自身の口元を覆った亜樹は、かろうじて笑みの形を作っている口角すら間抜けに震えてしまうのを握りつぶすように一度大きく呼吸をした。
拳が降りれば、相変わらずの穏やかな笑みが浮かんでいる。作ったような微笑は確かに作ったものでしかないのだが。
「謝った理由が分からないんですけれど」
さきほどまでが無かったかのようにあっさりと立ち上がった光介に並び立つと、亜樹は一歩詰め寄った。亜樹を見下ろした光介の視線は、ややあってゆるりと逸れる。
「……待たせた」
空いた間の後返った言葉に、亜樹はにっこりと笑った。おそらく、本来浮かべるべきは微苦笑だろう。失敗した、という自認と、それ以上に目の前の光介があまりにも馬鹿馬鹿しくて言葉のテンポがうまく繋がらない。
西之は特に何も言わず、くつくつと肩を震わせているだけだ。
「まあ、千切ってしまえばいいとは言いましたけど絡まった被害者は朽木さんです。待ったのは
声はあくまで穏やかを保っているが、言葉に険が無いかと言われれば亜樹は判断が難しい、と思いながらもじっと光介を見た。視線は逸れたまま、体は動かない。聞きはするが後ろめたさがある、というような態度に、亜樹はようやく表情を微苦笑で作った。
その微苦笑はため息を変えた物なので、適切な表情を選んだともまた別なのだが。
「……ボタンを切ってしまうのはさすがにどうかと思いますよ。髪の毛が残るのイヤだったにしても、後々目立つじゃないですか」
今日はこのまま帰る、ならまだしも、まだ四時間ほど残っているだろう。そういうことを含めて言えば、光介の眉間の皺がぎゅむりと動いた。
「嫌じゃない」
は? と言ってしまいそうになるのを飲み込んで、亜樹は光介を見上げた。亜樹を見下ろした視線はまたすぐ逃げてしまい、しかしうっすら開いた唇から言葉が続くのだけ理解できる。
何度か揺れる唇は、言葉を探しているのだろう。じっと黙して待ちながら、亜樹は内心のため息を何度も飲み込んでいた。面倒だ、という本音は決して外に出さず、しかしどう言葉を選べばいいかわからない。
「髪が、残るのは、別に。ただ、……髪を、切るのが。長い、のに」
訥々とこぼれた言葉を拾い上げた亜樹は、正直に言えば全力で大きなため息を吐き出したかった。それが不要だと訴えるに丁度いい表現、だとすら思う。しかし、そうするには既に遅い。
亜樹にとってはどうでもいいことでも、それを憂慮してもう結果は出ている。取り返しのつかないことを必要なかったと全力で訴えるのは、無駄だ。親しいわけでもないのだからこそ余計。
「……お気遣い有り難うございます」
一歩下がって亜樹が頭を下げれば、少しだけ安堵したような息が上から落ちた。自分らしくなかった、という反省と、それでも少し納得のいかない心地をなんとか整え直す。西之を見れば、終わった? とでも言うような表情で立ち上がるから亜樹にはこれ以上どうしようもない。
「涼香が待ってますし、行きましょう」
おそらく照信は待っていないだろうが、涼香は照信と二人で遊ぶのをまだ良しとしきれないから亜樹を誘っているのだ。その時点で照信の都合は最初からどうでもいい。頷く光介を見て西之が先を歩き出す。亜樹の隣に並びはしない半歩後ろを歩く光介は相変わらずで、亜樹は二人に聞こえない程度に息を吐いた。
ボタン一つ程度、着る分には問題ないだろう。しかし開いた一つ分があるのは事実だ。
(飲み物でいいか)
西之の鋏への礼を光介に払わせるつもりはない。今すぐに、という様子が無いので帰る頃にでも提案して渡せばいいだろう。本当ならボタンを縫う時間をとった方がいいのかもしれないが、そこまで涼香を待たせたくないので亜樹にその選択肢は無かった。幸い西之と光介も提案をしないので、西之への礼と一緒に軽くすませればいい。あまり丁寧にしすぎても気を使わせるだろうし、なによりその礼ですら光介が拒むのではないか、という予感すらあった。
女に奢られるプライドが、というタイプかどうかはわからない。高校一年生という収入といった差がない現状そんなプライド形にすらならないだろうし、デートの為に女性が見目に気を使う金銭といったものを亜樹は必要としていない。そういった要素があっても奢り奢られには当人同士の摺合わせが必要だろうから性別による考え方はナンセンスだとそもそも亜樹は考えているが、相手の心理は亜樹のものではない。そしてなにより、どうにも光介はいろいろと読めないのだ。
控えめだと思ったらたかが髪に気を使う。思った以上に繊細なのか人が良すぎるのかわからないが、亜樹にとっては非常に理解がしがたい思考である。だから礼を拒まれても仕方ないとは思うが、しかし借りを作るようなものはどうにも亜樹にとって好ましいと思えなかった。
恩を売っておきたいだとか、頼られたいという欲求がわかりやすい人間なら別にいい。そういう欲など気づかない顔をして、親切がうれしいと笑って甘えれば満足するからだ。その借りを返せと言われればできる範囲で返すし、自身になにが積み立てられようが至極どうでもいい。けれど、今は違う。
「なんか二人で話してた?」
ふと、沈黙の空白を埋めるように西之が軽く振り返って笑いかけた。顔立ちが少し狐を思わせるような西之の表情は、のんびりした語調に悪戯っぽさを含ませる。
「いえ。朽木さん、真剣でしたし」
「光介お前やっぱりかー」
曖昧に笑って答えた亜樹に、西之があきれたようなどうしようもないような笑いを零した。ちらりと亜樹が視線を動かせば、むっつりとした光介のどこか不満げな顔がわかる。亜樹と目が合う前にするりと逸れた視線は、やはりなにも語らない。
「少しは話す努力しよーなー。退屈だったでしょ」
「いえ。僕は別に」
どうでもいいですし、という言葉を飲み込んで亜樹は笑うだけにとどめた。涼香を一人にしているという意味では長く感じた時間だが、それ以上の意味はない。光介は退屈と言うより真剣だったしな、という思考で、返事がないことを当たり前のように受け入れてしまう。
少し、歩調を早める。西之は相変わらずのんびりと歩いていて、亜樹は眉を下げて微笑んだ。
「涼香が待ってますし、少し急いでも良いですか?」
「ああ、ごめんごめん。俺のんびりしすぎなんだよねぇ」
西之の言葉に亜樹は黙したまま笑みを深めた。西之の性格はのんびりしているが、遅い、と言われるような人物ではない。照信の為なのだろうとはわかる故に、合わせるつもりもなかった。
「俺後ろから付いてこーかな。光介、お前
立ち止まった西之の横を通り過ぎると、少しして光介が車道側から隣に立つ。別に西之と並んで歩いていなかったのだけれど、という亜樹の内心は、広い歩道に飲まれ消えた。
歩幅半歩分の距離。光介が立ったのは左手側だから横目で見ると先ほどのなくなったボタンの箇所が目について、亜樹は視線を前に戻した。
真面目で分かりづらい人は、面倒くさい。現状一人にしか当てはめられないラベルは、その日確かに出来てしまっていた。
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