第57話『冷やし中華ぶちまけました。』
璃子は冷やし中華を運ぶ健太と勢いよくぶつかってしまい、その拍子にぶちまけた冷やし中華で髪と服を汚れてしまった。
「璃子! 健太!」
俺はキッチンを出て2人のところへと駆け寄る。
「2人とも、ケガはないか?」
「オ、オレは大丈夫っす。尻餅をついてケツが痛いですけど」
「そうか。璃子はどうだ?」
「……いててっ」
璃子も尻餅をついたからか、お尻や腰を痛がっている様子だ。
「お客様、おケガはありませんか? あと、お召し物は汚れていたり……」
紗衣は2人の近くにいた水着姿の男性客にそう問いかける。すると、男性客は笑顔で首を横に振って、
「大丈夫です。海パンに冷やし中華のタレが少し付きましたけど、目立ちませんし、この後も海に入る予定なんで気にしないでください」
「そうですか。申し訳ございません」
「いえいえ」
笑顔でそう言う男性客に、紗衣と夏実さんは申し訳なさそうな様子で頭を下げている。怪我をしたお客様がいなくて良かった。
「璃子ちゃん、大丈夫。とりあえず、このふきんで拭こうね」
「……ありがとうございます、咲夜さん」
咲夜が近くにあったふきんを使って、璃子の顔と髪を拭いていく。
「何かありましたか……って、どうしたんですか! 璃子ちゃんと健太君、座り込んでいるし、冷やし中華が床に落ちているし……」
いつにない物音や璃子の悲鳴が聞こえたからなのか、休憩中の麗奈先輩がお店の中の様子を見てきた。
「冷やし中華を運んでいる健太が璃子とぶつかってしまって。その際に璃子に冷やし中華がかかってしまったんです」
「そういうことね」
「璃子。一旦家に帰って、髪を洗ったり、着替えたりしてきなさい。璃子はまだ今日は休憩を入れていなかったから、その流れで休んでいいからね。麗奈ちゃん、璃子のことを家まで送っていってくれる?」
「分かりました。璃子ちゃん、一緒に行こうか」
「……はい」
璃子はゆっくり立ち上がると、今までの中で最も鋭い目つきで健太のことを睨み、
「……健太君のバカ。……大嫌い!」
そんな言葉を健太に吐き捨てると、麗奈先輩と一緒に海の家を後にした。
健太のことを見ると、見る見るうちに彼の顔色が悪くなっていく。眼をまん丸くして、表情もなくなっている。もしかしたら、正気を失ってしまったのかもしれない。
「健太も一旦休もう。それでいいですよね、夏実さん」
「そうね。今の健太君には手伝いをさせられないし。健太君、外に出て休みなさい」
「……はい。迷惑をかけてごめんなさい、夏実さん。兄貴達もごめんなさい」
健太、凄く落ち込んでいるな。璃子に嫌いだと言われたのはもちろんのこと、お店やお客様に迷惑をかけてしまったこともありそうだ。
夏実さんは落ち着いた様子で健太のことを見ながら一度頷き、
「……ここにいるメンバーにはそれでいいよ。あとで璃子と麗奈ちゃんにも謝ろうね。皆さま、ご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。咲夜ちゃんはとりあえず掃除と、落としてしまった冷やし中華の処理を。紗衣ちゃんと神楽君はこれまでと変わらず担当の仕事をお願いね。とりあえず、私も必要に応じて接客をやっていくから」
『はい!』
さすがは夏実さんだ。こういうときでも冷静で、俺達に的確な指示を送ってくれる。
「健太。今は気持ちがグチャグチャになっていると思うけど、とりあえずは外の空気を吸って休んでこい」
「……そうします」
はああっ、と健太は深いため息をつきながらお店を出て行った。
3人欠けてしまったが、とりあえず俺は料理やスイーツ作りという自分の担当の仕事をきちんとこなしていこう。
咲夜が素早く掃除をしたことで、お店の雰囲気はすぐにいつも通りの感じになっていく。
まだまだお客さんがたくさん来店される時間が続くので、料理やスイーツ作りの手が止まることは全然ない。ただ、夏実さんだけでなく、紗衣もたまにキッチンに来て手伝ってくれるので、たくさん注文が来ても何とか回すことができている。
「璃子ちゃんのこと、家まで送ってきました。お風呂に入って、着替えたら璃子ちゃんはこっちに戻ってくるそうです」
「分かったわ、ありがとう。麗奈ちゃん、戻ってきたところで悪いけれど、さっそく接客の方に入ってくれる?」
「分かりました!」
麗奈先輩が戻ってきたので、夏実さんがキッチンへと戻ってくる。これで少しは楽になるかな。
「神楽君。ちょっと健太君の様子を見てきてくれるかな? 健太君、さっきのことで相当ショックを受けていたみたいだし。神楽君のことは兄貴って慕っているから」
「はい。……でも、俺が抜けて大丈夫ですか?」
「麗奈ちゃんが戻ってきたから、私がキッチンにずっといられる。何か手伝いが必要になったら紗衣ちゃんに頼むから」
「分かりました」
俺は海の家を出発する。
まずは、夏実さんが休憩するのにいいと教えてくれた近くのベンチに行く。しかし、そこには健太の姿はなかった。
お店に迷惑をかけてしまった上、璃子に嫌いだと言われてしまったんだ。あまりのショックで家に帰ってしまった可能性もありそうだ。とりあえず、海岸を探してみよう。
「健太!」
俺が走りながら健太の名前を呼ぶからか、聞こえてくるのは健太からの返事ではなく、女性の海水浴客を中心とした悲鳴だった。そのせいで、ライフセーバーの男性に声をかけられることも。俺は危険人物ではなく、海の家でバイトをしているただの高校生ですって。
端の方に来て、岩場も見えてきたところで、砂浜の上で仰向けになっている健太のことを見つけた。
「……健太」
俺が声をかけると、健太は体をビクつかせて驚いた様子で体を起こす。怒られると思っているのか、彼は怯えた様子で俺のことを見ている。
「す、すんません! 今すぐに海の家に……」
「もうちょっとここで休もう。俺も料理作って、砂浜を走ったから休みたい気分なんだ」
「……兄貴がそう言うならここで休みましょう」
「ああ、そうしよう」
俺は健太の横に腰を下ろす。砂浜に座ることなんて全然ないから、何だか変な感じだな。しかも、今は水着じゃないし。
「……何か、最悪の誕生日になっちまった感じがします。この前の喧嘩だけならともかく、璃子に冷やし中華をぶちまけて、大嫌いだと言われて。あぁ、死にてぇ……」
はああああっ、と健太はさっきよりも深いため息をつく。それだけ絶望感に苛まれてしまっているのか。あと、誕生日当日の人から言われる「死にてぇ」という言葉はとても重く感じるな。
「オレ、これからどうしたらいいんだ……」
「……謝るのが一番だろうな。朝よりも状況が悪くなっちまったけど。こういうときに言っていい言葉かどうかは分からないが、ピンチはチャンスとも言うからな」
「……元々ピンチな状況から、冷やし中華の件で救いようのないピンチになっただけかもしれないですけどね」
はああああああっ、と健太のため息が大きくなるばかり。璃子に大嫌いだと言われたことで、気持ちがかなりネガティブになってしまっているようだ。
「それは……否定できないが、幼なじみの璃子のことだ。今日が健太の誕生日だって意識しているんじゃないか。誕生日には璃子と一緒に豪華な夕ご飯やケーキを食べるんだろう?」
「……そうです。毎年、夕ご飯の前後に誕生日プレゼントをくれます」
「そのときの璃子はどうなんだ?」
「……毎年とても楽しそうです。そ、そのときの笑顔も可愛くて……す、好きになったんですから!」
「……そうか」
顔を赤くして話すところが可愛らしいな。璃子の笑顔を思い浮かべているからか、それまでに比べて顔色が良くなっている。
「だったら、今年の誕生日も大好きな璃子の笑顔を見ることができるように頑張ってみようぜ。去年までみたいに、楽しい誕生日を過ごすことができるチャンスはある。俺はもちろん、咲夜も紗衣も麗奈先輩も夏実さんも見守っているし、お前が助けてくれって言ってくれたら協力するつもりでいるから」
俺は健太の頭を優しく撫でる。
すると、健太は俺のことを見ながらやんわりとした笑みを見せてくれる。
「……そうっすよね。まだチャンスはありますよね! もちろん、そのためには謝らなきゃいけませんね」
「そうだな」
「ただ、さっきのことがあったんで、璃子の姿を見たら緊張してなかなか言えないかもしれません」
「その気持ちは分かる。今日は誕生日だし焦るかもしれないが、夜ご飯の前までに謝ることができればいいって考えるようにしよう。変に焦ると、さっきのような状況になっちまうかもしれないから」
「そうっすね。気を付けないと」
「……よし、じゃあそろそろ戻るか」
「はい!」
健太らしい大きな返事が復活した。この調子ならきっと大丈夫だ。
これまで以上に健太と璃子のことを見ていないと。さっきの冷やし中華事件があったから、咲夜達や夏実さんも気にしてくれると思うが。
俺は健太と一緒に海の家へと戻るのであった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます