第47話『その日がやってきた』

 海の家でのバイトが決まったことで、それまでの間に課題をある程度終わらせた。

 また、デジタル絵も何日間も描けなくなるので、花畑で育てた月下美人やあじさいの花や、咲夜や紗衣、麗奈先輩と接する中で思いついたキャラクターのイラストを描いた。結構楽しかったな。

 バイトに向けての荷物の準備は順調に進んだ。

 あと、俺が不在となるため、両親と小雪に花畑で育てている花の世話について伝えておいた。俺がバイトで家にいない間、家族が全員泊まりがけで外出することはない予定なので、おそらく大丈夫だろう。




 7月29日、月曜日。

 今日から3日間、俺は咲夜、紗衣、麗奈先輩と共に静岡県の池津いけづ市というところにある海の家『海野さんちの海の家』でアルバイトをする。海野さん側の計らいもあって、3泊4日の滞在となる。

 今日はお昼過ぎまで大学生のバイトさんが仕事に入ることができるとのことなので、俺達は午後からバイトを始める予定だ。

 ちなみに、今日から4日間、池津市の天気は晴れの予報になっている。たまに雲が広がる時間帯があるものの、天気が大きく崩れることはないという。


「こういう席に座ると、どこか遠いところへ旅に行くって感じがしますね!」

「ふふっ、そうだね、咲夜ちゃん」

「これからバイトをしに行くんですけどね。まあ、毎日温泉に入ることもできるし、木曜日には海で遊ぶつもりですから、旅するっていう感覚がないって言ったら嘘になりますね」

「でしょ?」


 咲夜はドヤ顔になってそう言う。

 東京駅から静岡方面に向かう快速電車に乗ったところ、4人座ることのできるボックス席が空いていたため、そこに座ることにしたのだ。夕立駅も通る東京中央線にはない座席の形態ということもあってか、こういう席に座ると3人の言うように、遠くへ行くんだなと思わせてくれる。

 ちなみに、俺と咲夜が隣同士に座り、俺は窓側に座っている。俺と向かい合うようにして紗衣が座り、麗奈先輩は紗衣の隣に座っている。

 最寄り駅の池津駅に向かうには、これから一度乗り換えが必要。今は午前9時半過ぎなので、時刻表通りでもあと1時間はこの快速電車に乗り続ける予定だ。なので、今のうちにゆっくりとした時間を過ごしておこう。


「まさか、夏休み中に4人で静岡の方へバイトに行くことになるとは思いませんでした!」

「そうだね。夏休みだし、日帰りで海に行くことができればいいなって思っていたけれど、まさか海の家のバイトになるとはね。でも、バイトが終わった翌日は海で遊べるか」

「楽しみですよね!」


 咲夜や麗奈先輩の楽しげな様子を見ていると、これからバイトに行くんじゃなくて単に旅行に行くように思えてくる。


「はやちゃん。水着楽しみにしていてね。可愛い水着を選んだから」

「わ、私の水着も楽しみにしてて。颯人と一緒に海やプールに入るのはひさしぶりだから、私も頑張って選んだよ」


 麗奈先輩と紗衣はほんのりと頬を赤くしながら俺のことを見てくる。2人とも俺に好きだと告白しただけあって、俺のことも考えながら水着を選んだようだ。


「2人とも、気合いを入れて水着を選んでましたもんね。まあ、あたしも高校生になって初めての夏だし、みんなと一緒に行くから可愛い水着を選んだよ。だから、あたしの水着も楽しみにしててよね」

「ああ、分かった。3人の水着を楽しみの一つにして俺はバイトを頑張りますね」


 そう言うのは、海の家では水着姿ではなく、店員用のTシャツを着てバイトすると聞いたからだ。ただ、俺は体が大きく、サイズの合うTシャツがないので、バイトの際に着るシャツを何枚か持参している。

 水着を楽しみにしていると言ったからか、麗奈先輩や紗衣だけじゃなくて咲夜も頬を赤くしていた。咲夜はこれまでにも、男子達と一緒に海やプールへ何度も遊びに行ったことがあるイメージがあるけれど。


「あ、あと! あたしは温泉も楽しみにしているんです」

「私も温泉は楽しみだなぁ。咲夜ちゃんも紗衣ちゃんも一緒に入ろうね」

「はい!」

「バイトの後ですから、きっと気持ちいいでしょうね」


 紗衣はまったりとした様子でそう話す。そういえば、彼女は小さい頃からお風呂が大好きだったな。お互いの家に泊まるときも、紗衣の入浴時間は俺よりもかなり長めだったし。

 バイトで疲れたときに温泉に入ることができるというのは、かなり贅沢なことかもしれない。


「そういえば、今回お世話になる旅館には……こ、混浴の温泉ってあるのかな。もしあるんだったら、はやちゃんとも一緒に入りたいなって」


 麗奈先輩は顔を真っ赤にしながら、俺のことをチラチラと見てくる。そんな麗奈先輩につられてか、先輩の隣に座っている紗衣はもちろんのこと、俺の隣に座っている咲夜も頬をほんのりと赤くしながら俺のことを見てきた。


「こ、混浴ですか。悪くない響きですが。海野家にあるかどうか調べてみましょう」


 俺はスマートフォンを使って『旅館 海野家 混浴』というワードで検索をかけてみる。すると、温泉の感想が出てくるが、その中のいくつかは『混浴はありません』という言葉が添えられていた。


「残念ながら、海野家には混浴温泉はないようですね」

「……そっかぁ」


 麗奈先輩、露骨にがっかりしている。凄く入りたかったんだな。


「まあ、混浴とは言えないでしょうけど、バイトが終わったら水着を着用してみんなで海に入りましょうよ! 会長さん」

「そ、そうだね! ちなみに、紗衣ちゃんってはやちゃんと一緒にお風呂に入ったことはあるの?」

「小学校の1、2年生くらいまで、お互いの家に泊まったときに一緒に入ったことがありますね。そのときは小雪ちゃんが一緒でしたけど」

「そうなんだ! 小さい頃でも一緒に入ったことがあるなんて羨ましい。さすがは従妹だね」

「ふふっ。そういうことを含めて、颯人の従妹で良かったって思うことは何度もありますね」


 麗奈先輩に羨望の眼差しを向けられる紗衣だが、そんな彼女に対して鼻にかける様子もなく、素直に嬉しいことが分かる笑みを浮かべている。恋のライバルだけど、この様子なら仲良くやっていけそうかな。


「はあっ」


 咲夜のそんなため息が聞こえてくる。


「何だか緊張してくるなぁ。あたし、バイトは今回が初めてなので」

「私もだよ。去年の夏休みに短期のバイトをしたとき以来だから。はやちゃんはどう?」

「俺も初めてですから、緊張はしてますね」


 仕事をするわけだから、当然責任が伴ってくる。あと、こんな見た目の俺が海の家で仕事をしていることで、お店の売上げに影響が出てしまわないかどうか心配だ。


「緊張するのはいいことだと思いますよ。初めてだったり、ひさしぶりだったりすると特に緊張してしまうのは分かりますし。私も海の家でのバイトは初めてだから緊張してますよ。1人じゃなくて、4人一緒ですからきっと大丈夫ですって」


 紗衣は落ち着いた笑みを浮かべながらそう言う。さすがに、入学してすぐからピュアスイートでバイトをしているだけあるな。


「紗衣ちゃん大人だね! 同い年には見えないよ。これがバイトをしている人としていない人の差なのかな。でも、颯人君も落ち着いているし……」

「スイーツ店だけどバイト経験者の紗衣ちゃんがいれば安心だね。あと、海の家は色々な人が来そうだから、はやちゃんがいれば何かあっても大丈夫そう」

「そういうときは、俺が出ますから安心してください」


 夏の暑い時期だから、海に来てテンションの高い人も多そうだし、酒を呑んで酔っ払っている人もいるイメージがある。3人に絡んだり、嫌がったりするような輩がいたら、俺が3人を守らないと。3人とも可愛らしいからな。


「うん。はやちゃんがそういう表情をして注意すれば、どんな人でも変なことをしなくなったり、謝ったりしてくれると思うよ」

「そうですか。すみません、色々なことを想定していたら、ちょっとムカついてしまって。3人に何かあったら、この目つきと白い髪と低い声を大いに活用してやりますよ」

「ははっ、頼りにしてるよ。颯人がいれば安心だね。咲夜もそう思わない?」

「うん! 颯人君、何かあったらお願いね」

「ああ、もちろんだ」


 一番は、何も問題が起きないことを願っているが。ただ、俺が一緒だと安心すると3人が言ってくれることは嬉しいな。

 午後からバイトもあるので、電車に乗っている間は3人と一緒に駄弁ったり、たまにお菓子を食べたり、車窓からの景色を眺めたりしながらのんびりとした時間を過ごすのであった。

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