3章 1話 月光
月の綺麗な夜だった。
デッキを調整し終わって、寝る前にトイレに行こうと思った俺は、ふとピアノの音が聞こえた気がした。
だが、今まで家の中でピアノなんか見た事が無いし、当然ピアノの音も聞いたことが無かった。不思議に思って、音が聞こえる方に廊下を歩いて行く。
何かの曲だということはわかったが、残念ながら音楽の教養など無いので、クラシックなんだろうなということぐらいしかわからなかった。なんとなく、哀しい感じがする曲だ。
曲は、きずなさんの部屋から聞こえてきていた。
きずなさんの部屋のドアが、少しだけ開いていて、音が漏れていたのだ。
今までこの部屋には入った事が無い。掃除のときも、「主人の部屋に男を入れるわけにはいかない」と絢子さんが頑として入れようとしてくれなかった。
きずなさんの部屋。とても興味はあるし、ちょうど隙間から覗くこともできそうだが、勝手に女性の部屋の中を覗くのは彼女に悪い気がする。ばれたらきずなさんは恥ずかしがるだろうし、絢子さんには滅茶苦茶怒られそうだ。
ドアの前でどうしようかとしばらく悩んでいたのだが、中を見てみたいという欲求の方が罪悪感より勝ってしまった。
そっと音を立てないように気を付けながら覗いてみると、部屋の中は電気がつけられておらず、光は月明かりのみで薄暗かった。
だが、女性らしい可愛らしい小物や家具が並んでいるのは見えた。非常にきずなさんらしい。
そして、一際目を引くのは部屋の中央に置かれている大きなグランドピアノだ。
学校の音楽室に置いているような、真っ黒で大きなピアノが部屋に置かれているという事にも驚いたが、もっと驚くことがあった。
きずなさんが、ピアノを弾いていたのだ。
窓から漏れる月明かりに照らされ、彼女の長い黒髪は星空のように輝いていた。そんな姿はとても幻想的だった。
思わずぼーっと見とれてしまっていた。
こんなきずなさんの姿は今まで見た事がない。
楽しそうに、はしゃぎながら、それでいて勝ちにこだわってカードゲームをするきずなさんとは、まるで別人のようだ。
彼女のピアノを弾く姿はとても様になっていた。まるで、ピアノが自分の体の一部のように、呼吸をするのかのように、とても自然に音楽を奏でていた。
だが、彼女の目から光る物が流れている事に気づいてしまった。
そう。彼女は泣きながら演奏をしていたのだ。
なんだか見てはいけない物を見てしまった気がして、俺は足音を立てないようにそそくさとその場を去り、自分の部屋に戻った。
ピアノの音は、しばらく鳴りやまなかった。
………。
……………。
…………………。
次の日。きずなさんが大学に行き、絢子さんと二人で掃除をしていた時のことだ。
「あの、絢子さん。きずなさんって、音楽が好きなんですか?」
思い切って、絢子さんに尋ねてみた。彼女は驚いたのか、ビクッとしてこちらを振り向いた。不思議そうな、問いかけるような目でこちらを見ていた。
「なぜそのような事を?」
「えっと……昨日の夜、彼女の部屋からピアノの音が聞こえてきたので」
悩んだが、正直に答える事にした。もちろん覗いたなんて口が裂けても言わないし、泣いてるのを見た事はもっと言わないが。
「……そうでございますね。お嬢様は幼い頃から、音楽と触れ合ってきましたから。……というか、気づかなかったのですか? お嬢様のご実家が、OTONOであると」
音野? いやOTONO?
「OTONOって……え、あの?」
OTONOは、楽器やら音楽教室やらで有名な、それこそ子供から大人まで誰でも知っている会社だ。
そのお嬢様となれば、そりゃ大金持ちなはずだ。きずなさんがこんな都会の一等地の超高級マンションにメイドさんと一緒に住んでいる理由がようやくわかった。
「にぶい男でございますね」
「……むぅ」
心底バカにしたような口調で言われてしまった。にぶいだなんて、とても心外だ。俺はこれでも相手の動きから手札を予想するのは得意なんだぞ。確かに、音野なんて珍しい名前に気づかない俺も悪いが。
「……お嬢様は、辛い事があるとよくピアノを弾いていらっしゃいます」
彼女は独り言のように、小さな声でぽつりとつぶやいた。
絢子さんも、きずなさんの事を心配しているんだろう。
「ってことはきずなさん……何か辛い事があったのかな」
しかも、泣くほど辛い事となると、さすがに心配だ。
普段お世話になっているんだ。できるだけ力になってあげたい。
「俺に何かできることはあるのかな」
「いえ、特に無いでしょう」
その言葉に驚いて絢子さんの顔を見た。
無表情は変わらないのだが、その声が今までよりも、ずっと冷たく感じたのだ。
「翔太さん。お嬢様は、今はあなたと一緒にカードゲームを楽しんでいますが……いずれOTONOを継がれるお方でございます。翔太さんは、お嬢様の事より、自分の事をどうにかした方がいいと思うでございます。時間は限られているのでございますから」
そう言って、くるっと反対の方を向いて、もう目を合わせてはくれなかった。
確かに、自分の事はどうにかしないといけないとは思っているが……。
でも、なんとなく。
お前とは住む世界が違うから、これ以上は踏み入ってくるな、と暗に拒絶されたように感じてしまった。
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