王都燃ゆ 1


 重く荒々しい、古い石積みの壁の広間。

 四本の円柱が吹き抜けの天井を支え、高いところに並ぶ窓からは暗く、墨で塗りたくられたような夜空が見える。

 広間の四隅には屋内にもかかわらず、篝火が焚かれている。

 オベリーヌ公爵の居城、オークランス城の地階、城館の中央部を占めるこの大きな広間はその昔、初代ラディス王がその版図を拡大せんと、崩壊するウルク王国に攻め入る嚆矢となった、重要な軍議が開かれたとされている。

 ラディス王国の古い貴族や領主にとっては重い感慨を抱かざるをえない、由緒ある特別な場所なのである。

 そこに今、下は騎士爵家から上は王家の者まで、多くの貴族や領主たちが集っていた。

「我が軍は予定を早め、明日早朝にオークランスを発ち、シェルバルへ向う」

 上座に立ったニースバルド伯爵は野太い声を張り上げ言った。

「当地にて大公殿下と合流後、直ちに王都救援に進発する。陛下を輔け、必ず連合王国に勝利するのだ」

 ニースバルドの後ろにはペトラとマーヤ、軍監のトラーシュらが並び立っている。

 広間に居並ぶ諸侯たちは間をおかず、一斉に「おう」と時の声をあげた。

 ……なかなか士気は高い。しかし……。

 イシュルは広間の上座だが端の方に立って、広間に集合した人びとの気合の入った顔を見渡した。

 どのみち、国王軍と敵軍の決戦には間に合わないのだ。マリユスは早期戦に出た。彼はヘンリクの思惑を百も承知、籠城もバリスタールの陥落で意味がないと考えたのだろう。

 当然まったくの無策で、ただ捨て鉢になって、それだけで野戦を選択したわけでないのだろうが……。

「陛下は勝てるかな」

 隣に立つリフィアが呟くように言ってくる。

「……」

 イシュルはリフィアを横目に見ると厳しい表情になって、首を横に振った。

 まだその後の詳報は届いていない。今この時点であれこれ考えても無意味なのだろうが、それでも国王軍が勝利する可能性は皆無だ。それは断言できる。

 神の魔法具の力の真髄は、人智を超えた魔法のさらにその先にある。相手がどんな巧妙な策を立てて来ようと、戦法を用いようと、力づくで覆すことができる。

 連合王国の総大将、ユーリ・オルーラは確かに金の魔法具を使いこなせてはいないかもしれない。今までひたすら力まかせでやってきただけかもしれない。

 だが彼は、連合王国をその名のとおりひとつにまとめ上げる過程で、大小多くの戦闘を重ね、無数の謀略を跳ね返してきた筈である。

 ユーリ・オルーラは明らかに、俺より多くの場数を踏んでいる。

 魔法具を使いこなすことと戦闘の巧拙は、直結する場合もあればそうでない場合もある。

 やつは決して侮れない相手なのだ……。

 トラーシュやルースラ・ニースバルドの話では、バリスタール失陥で数十名の宮廷魔導師が戦死したらしいが、王都にはまだ百名以上が健在でいるという。王国の中核戦力である重騎兵と重装歩兵も存在する。

「たとえ百名以上の魔導師がいようと、重騎兵がいようと、やつには勝てないだろうな。敵はユーリ・オルーラひとりじゃない。召喚精霊もいるだろうし、敵の支隊には魔導師も混じっているだろう」

「うむ……」

 リフィアは一応頷きはしたものの、完全に納得はしていないようだ。難しい顔をしている。

「国王は、王城……いや、街の住民に被害が出るのを嫌ったのかもな」

 神の魔法具を持つ者が全力で魔法を振るえば、たとえラディスラウスのような大きな街であろうとただでは済まない。市街の半分くらいはあっという間に吹き飛ぶだろう。

「そうかもしれない……」

 リフィアはその厳しい視線を広間に集う人びとに向けた。

 今はニースバルドに代わり、トラーシュが前に出て諸侯に明日の出立、行軍に関する詳細を説明している。

「イシュルさまがもしマリユス国王だったら、どう戦いますか?」

 リフィアの反対側に立つミラがイシュルに質問してきた。

「もし俺だったら……」

 イシュルは視線を広間の奥へ、どこか遠くを見るように彷徨わせた。



 オベリーヌ公爵夫人の出迎えを受けたペトラ一行は、城内に入るとそのまま城館一階の大広間に通された。そこで情報収集のため先に派遣されていた茶色の上着の男たちの報告を聞き、急遽ニースバルド伯爵親子とオーヴェ伯爵を呼び出した。

 そして彼らとペトラにマーヤ、トラーシュら本隊首脳部の協議の結果、比較的領地が近いロンバルツ伯爵を大将とする、五千余の別働隊をホードルに派遣することとなった。

 二名の茶色の上着の剣士たちは複数の影働きの者を従え、オークランス周辺、特に同地北部に重点を置き情報収集に当たった。その結果、ホードルからヨエルに至る街道沿いで、複数の傭兵らしき者たちが目撃されていた事実を掴んだ。その情報は主に周辺の住民や領主家の者たちからもたらされた。

 それでホードルに支隊を派遣し、周囲を警戒をすることになったのである。

 なぜ五千もの兵力になったか、それはホードルの街の、他の都市との位置関係に理由があった。ホードルはオークランスのほぼ真北、三百里長(スカール、二百km弱)ほどの距離にある。そして、王都ラディスラウスと城塞都市アンヘラからおよそ七百里長(スカール、五百km弱)の、ほぼ等距離に位置するのである。

 連合王国がバリスタール城塞群を占領し、今現在、ユーリ・オルーラ自ら率いる支隊が王都へ進撃している状況において、アンヘラと王都の双方から等距離にあるホードルは、戦略的に以前にも増して重視されることとなった。

 そして、ホードル周辺の領主たちもすでに王都ラディスラウスや城塞都市アンヘラへと出陣し、同地域に兵力の空白地帯が生じていた。

 今やホードルは王国西部の要衝となった。本隊首脳部の協議では一部に兵力の分散を嫌う意見もあったが、戦況によりホードルの重要性が高まったことで、異論はすべて却下された。

 結果、ホードルに相応の兵力を分派することに決まったのだが、具体的な兵力に関してはイシュルの発言が決め手のひとつになった。

 イシュルは「敵の総大将は金(かね)の魔法具を所持し、大兵力を投入しても勝利はおぼつかない。王都救援そのものに大軍は必要ない」と言った。

 ついで、ルースラ・ニースバルドが呟くように言った。

「ホードル、ヨエル間に敵がちらつくのが気になります。特にヨエルは、我が軍の王都救援を後背から妨害する絶好の要地になる……」

 彼らの発言によって、ホードルに派遣する兵力が五千余と決められたが、そこで問題がひとつ発生した。大公軍本隊からそれだけの兵力を分離するには、ヘンリクの裁可が必要だとトラーシュやニースバルド伯爵が言い出したのである。

 これからシェルバルにいるだろうヘンリクに使いを出し、彼の返答を待つ……。国王が王城を出て敵の総大将と決戦を挑む、との報に接し、進軍を急がなければならない状況で、そんな悠長なことをやっている暇はない。

「それは妾がなんとかする。父上には後で妾がとりなしてやる。そなたらは気にするな」

 ペトラがトラーシュとニースバルド伯爵に言った。

 そこへイシュルも彼らに言った。

「大公殿下へは俺からも口添えしましょう」

「……貴公は、ヘンリクさまに会ったことがあるのか」

 伯爵はそう言ってイシュルの顔を見ると、両目を見開いた。

 イシュルはその時なぜか、いささか場違いとも思える、暗く歪んだ笑みを浮かべていた。

「ええ」

 そして眸をぎらつかせ、小さく頷いた。

 口添えなんて些細なことだ。

 今の大公にとって俺はある意味、ペトラに勝るとも劣らない大切な“玉”だ。

 敵の総大将と戦えるのは俺だけなのだ。彼は俺の言をないがしろにできない。

 それはこの場にいる者、全てが承知している筈だ。

 ……だから。

 ヘンリクに俺の攻撃案を無理やりねじ込む。

 この戦(いくさ)、俺の好きにやらせてもらう。

「……」

 イシュルはその歪んだ笑みを、さらに深くした。



 初代ラディス王が東征の陣を敷き、初の軍議を開いたとされる由緒あるオークランス城の大広間。そこから諸侯が背を向け、外へ出ていく。彼らは市城内外に散らばる各々の陣に帰っていく。 

 広間の端ではロンバルツ伯爵にファルゴー男爵、他に数名の騎士爵家の当主たちが、ペトラやニースバルド親子、トラーシュらの前に集まって話しこんでいた。彼らがホードルに分派される領主たちだ。ロンバルツが主将、ファルゴーが副将を務める。

 ……本来はそれなりの地位にある者を軍監としてつけるべきなのだが。

 主な者はヘンリクが連れていってしまったのか、名のある者はつけられないようだ。しかし諜報や工作面を重視しているのか、あの茶色の服の剣士たちが四名、同行することになった。

 それはつまり、彼らの下にいるおそらく何十名という影働きが、ロンバルツ伯爵の率いる支隊に付属するということだ。敵側による味方後方の妨害工作を阻止し、同工作拠点の捜索にも対応できる規模、ということだろう。ペトラやロンバルツたちの中には、マーヤの姿も見えた。

 イシュルは視線をはずすと、両側にいるリフィアとミラに言った。

「夕食後に俺の部屋に来てくれ。相談したいことがある」

「わかった」

「わかりましたわ」

 リフィアもミラも、イシュルと同じようにロンバルツ伯爵たちの方を見ていた。ふたりは視線をそのまま、顔を動かさずに声だけで応じてきた。




  むき出しの石積みの壁。壁面が弧を描いて周囲を覆う搭上の一室。

 室内にひとつだけある小さな窓からは、旧市街を囲む城壁が、その外にも広がる街並みが、所々に浮かぶ灯りに照らされ夜闇から浮き上がって見える。

 昔は貴人の幽閉に使われた牢獄だったのではないか、とも思われる部屋だが、イシュルをこの一室に案内した公爵家の執事によれば、かつては初代ラディス王も宿泊した、由緒ある部屋なのだという。

 イシュルが窓外の暗闇に目をやると、窓ガラスに映った自身のぼやけた像が突然歪み、渦を巻いた。

 そして、微かな空気の揺らぎ。

「ヨーランシェ」

 ……遊んでいるのか、精霊の小さな悪戯だ。しかし洒落たお出ましだ。

 風もなく、ヨーランシェが窓際に姿を現した。

「なにか感じるのか、西の空に」

 この塔の部屋の窓は西側に向いている。彼の横顔は窓の方を向いている。

「よくわからないけど」

 ヨーランシェは窓からイシュルに顔を向けて言った。

「遠くで、なんとなくざわついているような気がする」

 風の精霊は難しい顔になって、また窓の方へ顔を向けた。

「ふふ」

 ……だろうな。

 イシュルは小さく笑うと言った。

「シェルバルという街に着いたら、王都の状況も知れるだろう。そうしたら作戦を練る。その時はきみも何かあったら意見をくれ」

「わかった。剣さま」

 ヨーランシェは久しぶりか、屈託のない笑顔をイシュルに向けると、そのままさっと姿を消した。同時に古い木製の扉がノックされた。

「イシュルさま」

 扉の向こうからミラのくぐもった声がする。

「……」

 扉を開けるとミラにリフィア、シャルカがいた。部屋の外は小さな踊り場があり、そこから搭の内壁に沿って、上下に伸びる階段がある。

 階段は上の方も下の方も、壁に等間隔にランタンがかけられ、かなり明るく感じる。

「アネッティーア殿はああ申していたが、なんだか囚人部屋のような感じがするな」

 リフィアは部屋の中に入ると周りを見回し言った。

 アネッティーア殿とは城門でペトラ一行を出迎えたオベリーヌ公爵夫人のことである。イシュルも同席した先ほどの晩餐で、彼女はわざわざイシュルに、オークランス城で最も由緒ある特別な部屋に泊まっていただく、と話してきたのだった。

「室内の調度品も思ったより素朴なものですわね。悪いものではないですが……」

 部屋の中にはベッドに机、椅子が二脚、チェスト二つに、古い木製のマント(コート)掛けがあるだけだ。

「俺は別に構わないさ。高いところの方が警戒もしやすいし、いざとなったらすぐ空に飛び出せる」 

 公爵夫人の言をそのまま取るか、元は農民の子で、王家に正式に仕えようとはしないイシュルを、意図的にペトラたちの寝所と離し、貴人用の軟禁部屋に入れたのか、そこら辺ははっきりとしない。

「それよりごめん。こんな所まで登って来てもらって。今晩は実は、そんなに重要な話ではなかったんだ」

 イシュルはふたりの顔を見渡しかるく頭を下げた。

「シェルバルに到着して、王都周辺の彼我の状況を把握したら、俺はヘンリクに独自の作戦案を持ちかける。もし彼が俺の案を採用しなかった場合、それでもきみたちふたりには力を借りたいんだ」

「まあ……」

「ふふ」

 ミラとリフィアは眸を輝かした。

「もちろんですわ。イシュルさま」

「まかせろ、イシュル」

 ふたりは満面の笑顔になって言った。

「今この時点で、王都の戦況にかかわらず決めていることがある」 

 イシュルはふたりの顔を眸の中まで覗き込むようにして、ゆっくりと見回した。

「それはなんでしょう」

「ふむ……」

「俺は敵の大将と戦う時、大公軍と行動を共にする気はない。シェルバルから王都までは、早馬で丸一日の距離だ。シェルバルから半日も進軍すれば、敵の出した物見に引っかかるかもしれない。遭遇戦になったらたとえ万単位の兵力だろうと、金の魔法具を持つユーリ・オルーラ相手ではひとたまりもない。その前に、俺は一気に王都近辺まで進出して、以前に話したとおり奴が王都にいるならば、郊外におびき寄せて雌雄を決する」

「……」

 ミラとリフィアは面(おもて)から喜色を消し、表情を引き締め無言で頷く。

「だから戦闘力と機動力、両方に優れるきみたちふたりに手伝って欲しいんだ。マーヤとペトラは機動力がないし、ペトラは大公の娘でもある。彼女を最前線に出すのはまずい」

 そこでイシュルは一端言葉を切った。ミラとリフィアは真剣な眸をイシュルに向けている。

「シェルバルに到着後は大公や軍監のトラーシュ、ルースラ、それにマーヤからもきみたちに働きかけがあるだろう。ヘンリクは露骨に、そして完全に俺を指揮下に置こうとしてくるかもしれない。……そこら辺は面従腹背、適当に従うふりをして欲しい」

「わかりましたわ」

「よし!」

 ミラとリフィアが大きく頷く。やる気満々だ。

「詳しくは状況次第だが、今はきみたちふたりには敵の支隊か、総大将が金の精霊を召喚していたら、そいつを受け持って欲しいと考えている。俺の召喚したヨーランシェは直接、総大将の牽制に当てる」

 リフィアの強さは当然として、ミラがアナベル・バルロードとの決闘で見せた強力な力とスピード。ふたりなら、たとえ複数の魔導師が混じっていようと、数百騎程度の部隊などあっという間に殲滅するだろう。金の大精霊相手でもふたりで戦えば、少なくとも牽制くらいは十分にやれる。

「そういうわけで、今日のこの話のことは憶えておいてくれ。シェルバルに到着後、また話し合おう。気安くヘンリクの要請、命令には従わないように。特にマーヤの誘いには気をつけろ」

 イシュルはにやりと笑みを浮かべてミラとリフィアを見つめた。

「ほほほ」

「ふふ」

 ふたりともイシュルと同じ、含みのある笑みを返してきた。



 翌朝、イシュルは少し早めにオークランス城の地階、正面ホールの前に降りて来た。

 ホールの奥には昨日諸侯が集められた大広間に続く、大きな青銅の扉がある。周りにはちらちらと、公爵家の騎士や使用人らしき者たちの姿が見える。

 城館の外扉はすでに開かれ、ホールには朝の明るい陽が差し込んでいた。

「……!」

 その陽光の影から、アネッティーア公爵夫人と年老いた男の魔導師が突然姿を現し、イシュルの方へ近づいてきた。

「これは当家の魔導師長で、わたくしの遠縁の者でもあります」

 互いに朝の挨拶を交わした後、アネッティーアは公爵家の魔導師長を紹介してきた。

 その男は黒いローブに、大きな木彫りの魔法の杖を持っていた。マーヤと同じ、典型的な魔法使いの格好だ。

「はじめまして、ベルシュ殿。わしはセムス・アレリードと申す」

 そして年老いた魔導師長は、「わしは老人故、此度の戦(いくさ)に連れて行ってもらえなかった」と続けた。

「それでこうして城に残っておったわけじゃが、おかけで貴公に会うことができたわけだ」

 ……ん?

 少しいぶかる表情になったイシュルに、セムス・アレリードは笑みを浮かべて言った。

「わしも風の魔法を使うんじゃが、わしの師匠の兄弟子が若い頃、一時期あのイヴェダの剣、レーネ・ベルシュ男爵の弟子だったそうでの」

「なるほど」

 森の魔女レーネの、ね。まあ、そういうこともあるだろう。

「長生きはするもんじゃて。こうして風の魔法具の継承者に会うことができたのだからな。まったく感無量じゃ」

「……」

 イシュルがよそ行きの顔で微笑を浮かべて頷くと、老魔導師はやはり、レーネの最後のことを聞いてきた。

「……そうか、それで貴公は誰に師事したのかの」

 イシュルが風の魔法具を継承した時、レーネの家が火事になり、当人もその時に死んでしまったと説明すると、セムスはそのことをすでに聞き知っていたのか、かるく頷くだけで流し、さっさと次の話題を振ってきた。何か気になることでもあるのか、誰に風の魔法を習ったかと質問してきた。

 王家や大貴族に仕える魔導師は、誰の弟子だったか、誰を弟子にしたのか、そういうことが気になるものらしい。

「短い間ですが、聖王国の元宮廷魔導師、ベントゥラ・アレハンドロの孫娘、レニ・プジェールに師事しました」

 本当はレニ本人から教えてもらったことはほんの少しで、おそらくほとんどは風神であるイヴェダから直に教えを受けたと思うんだが……。まさか、そんなことは言えない。

「ほうほう、あの大魔導師の縁者にの……」

 セムスは今度は何度も頷くと、その深く窪んだ眼窩の奥底に、わずかに強い光を灯して言った。

「本来の師であるレーネから教えを受けることができず、お主も無念であったろう。住まいが火事になったというのなら、魔導書の類いも全て灰になってしまったろうしの」

「ええ……」

 イシュルは小さな声で頷いてみせた。

 あまりそのことに触れられたくない。

「もしイヴェダの剣、レーネの事蹟を知りたければ、王家のエレミアーシュ文庫を調べたらよかろう」

「はっ?」

「エレミアーシュというのは百年ちょっと前の、ラディスの国王の名じゃ。貴公は知んかな?」

「いえ……」

 その国王の名は聞いたことがあるが、いきなり何を……。

 イシュル微かに視線を厳しくして、老人の窪んだ眸を見つめ返した。

「ベルシュ殿が見事、連合王国を退ければヘンリクさまはどんな願いも叶えてくれるでしょう。その時にでも王家の書庫を閲覧できるよう、願い出ればいいのです」

 横から公爵夫人がにこにこして言ってきた。

 イシュルは半ば呆然とアネッティーア夫人の顔を見た。

 ……そうか。これは俺に王城をしっかり守れ、お前にも利があるぞ、と言っているわけだ。

 シビル・ベークも王家の書庫の話をしていた。だがあれは……。

 その時だった。突然、セムスが意外なことを言ってきた。

「マレフィオアのことも何か、わかるかも知れんて」

 老魔導師はわずかに表情を曇らし、突き放すように言った。

「えっ?」

 どういうことだ? ……なぜこの老人はそこでマレフィオアを出してくる?

「ペトラさま!」

 公爵夫人の視線がイシュルの背後へ向けられる。

 ペトラがホールに出てきたらしい。他にも数名の人の気配がする。

「おお」

 アネッティーアが、そしてセムスがイシュルの横を、ペトラの方へ歩いていく。

「ちっ、ちょっと待って……」

 イシュルの小さな声は夫人にも、老魔導師にも届かなかった。

 イシュルはホールの中央へ振り返り、いつものごとく元気いっぱいなペトラと、そばに付き添うマーヤ、マリド姉妹たちの方を見た。

 どういうことだ?

 イシュルは公爵家の老魔導師の、小さな背中を見つめた。



 その日の朝、大公軍本隊はロンバルツ伯爵率いる支隊を分離し、オークランスを進発した。

 支隊分離後、本隊兵力は一万五千となり、国王出陣の報に行軍を早めることになった。トラーシとルースラは、オークランスを発って一日目の宿営地、ハティラ村にて部隊を再編し、さらに足の遅い輜重隊を分離することとした。輜重隊には十分な護衛の兵力をつけ、本隊に後続させることになった。

「ハティラ村の北側には広い牧草地がある。部隊の再編も楽にできるということだろうな」

 その日の道すがら。

 リフィアが馬上から、イシュルに話しかけてくる。

「オークランスは街と畑ばかりで場所がない」

「ああ……」

 しかしイシュルは、心ここにあらずという感じで適当に相槌を打ち、物憂げに西の空を見つめた。空の色は冬の訪れとともに、透き通るように薄く、澄みわたっている。

 ……あれはいったい何だったんだ。

 なぜあの老人は、いきなりマレフィオアの名を出してきたのか。

 あれから一度だけだが、セムス・アレリードを再び捕まえ問いただすことができたが、老魔導師はただ「わしはよう知らん。王家の書庫を当たれ」と繰り返すばかりで、結局その理由はわからずじまいだった。

 そしてセムスは、イシュルの黒い手袋をした左手に特段、注意を払うことはなかった。

 ……間違いない。彼は俺の左手の紅玉石のことを知らなかった。彼にはまだ、聖王国の宝冠と紅玉石にまつわる伝承と俺の左手のこと、聖冠の儀で明らかになった事実は伝わっていなかった。もう片方の紅玉石は、長い間あの化け物の許にあったのだ。

 なら、なぜマレフィオアの名を言ってきた?

 セムスは一方で、大聖堂で行われた聖冠の義で伝説の化け物が召喚されたことを、そして風神が降臨したことはすでに聞き知っていたろう。

 そのことは聖堂教会が特に力を入れ、大陸中の神殿に伝えている。なら彼がマレフィオアの名を出してくるのも、ありえないことではないのかもしれない。

 だがそれでも、レーネの話からマレフィオアの名が出てくる理由がわからない。

「どうした? イシュル」

「……」

 リフィアが真面目な調子で声をかけてきた。ミラも心配そうな顔でイシュルを見ている。

「リフィアは、オベリーヌ公爵家の魔導師、セムス・アレリードという人を知ってるか?」

 イシュルはリフィアに顔を向け質問した。

「いや……。うむ、どこかで聞いたことがあるような気もするが……」 

 リフィアは俯き顎に手をやる。

「セムス・アレリードは元宮廷魔導師だったひとだよ。引退してから公爵家の魔導師長になったの」

「うっ。……そうなんだ」

 前を向くとマーヤがまた、チャリオットの背越しに顔の上半分だけを出してイシュルを見ていた。

「その者は妾も知っておる。マーヤの師匠の好敵手だった、風の魔法使いじゃ」

 ペトラもマーヤと同じようにして、イシュルたちの方を見ている。

 ……あの老人は元は王家の宮廷魔導師だったのか。それなら王宮の書庫にも出入りしていたんじゃないだろうか。彼は確か、エレミアーシュ文庫がどうのと言っていた。

「ふたりとも、エレミアーシュ文庫って知ってるか?」

「……」

 ペトラとマーヤは無言で顔を見合わせ、イシュルにふたり同時に言ってきた。

「知っておるが、それがどうした」

「まさかイシュル、エレミアーシュ文庫を調べたいの?」

「あ、ああ。そうだな。できれば閲覧したいんだが」

 ドミル・フルシークはかつて、王家書庫の他に「国史編纂室」という部署の名を出してきた。

 あの時、アルヴァに向かう途中、森の中で会った時のことだ──ドミルはレーネのことを知りたければと、セムスと似たようなことを言ってきたのだ。

 エレミアーシュ文庫と国史編纂室、そしてマレフィオアのこと……。

 森の魔女、レーネとマレフィオアは何か関係があるのだ。

 だから、あの老魔導師はマレフィオアの名を出してきたのだ。

 イシュルは顎に手をやり考え込んだ。

 これは……。

「イシュル、王家の書庫の閲覧はそう簡単に許可されないよ」

 と、その時マーヤの声が聞こえてきた。

 俯いていたイシュルが顔をあげると、シュバルラードの頭越しに横目に見つめてくる、ペトラの澄まし顔があった。

「妾が父上にとりなしてやってもよいのだが……。まぁ、オルーラ大公を討ち取るのが一番の早道じゃな。さすれば勲功第一、父上はそなたの願いをなんでも聞いてくれるじゃろう」

 ペトラは、オベリーヌ公爵夫人と同じことを言ってきた。



 

 オークランスを出て三日後。そして輜重隊をハティラで分離して二日後、行軍中に小さな異変が起こった。いや、起こりはじめた。

 街道を東に向かう農民らしき者、荷馬車の数が増えだしたのである。

 領民が連合王国の侵攻により、王国東部に戦禍を逃れようとするのは、至極当然なことかもしれない。

 だが、戦(いくさ)や疫病が起これば、ほぼすべての領主は領民の領外への移動を禁じる。もし禁を破れば厳しい罰を受けることになる。もちろん、平時においても領民、特に農民の領外への移動を禁じている領主は多い。

 街道はどこもそれほど道幅があるわけではない。荷馬車がそのまますれ違えるほど広い道は、大きな街の市街地でなければありえない。そこで通常、大部隊の行軍では先触れの騎馬を出して、前方を行き来する荷馬車や通行人を道端にどかしている。

 行軍中は時々、道端に馬車を移動し、軍勢の通り過ぎるのを待つ商人を見ることがあったが、それも戦争のせいか、平時よりも随分と少なかった筈である。

 それが禁を破って、あるいは何か縁故を頼って許しを得たのか、急に道端に粗末な荷馬車を移動し、呆然と佇む領民が増え出したのである。

「まずいな……」

 イシュルは厳しい視線を道の右側へ向け、低い声で呟いた。

 視線の先には、ペトラの乗るチャリオットを見て頭を下げ、あるいは跪く、街の住民らしき家族の姿があった。彼らの横にはロバが一頭と、家財道具などの積み上がった荷馬車が置かれている。

「仕方がないさ。戦(いくさ)なのだから」

 リフィアもイシュルの視線をたどるように顔を右に向け、低い声で言った。

「王都が近づいてきた、ということだ。これからも避難民は増えるだろう」

 ……それはそうだが。

 イシュルはその視線を西の空に向けた。陽が落ちて、地平線を紅く染めはじめている。

 難民の大量発生は混乱を生む。戦況にも影響が出るだろう。戦(いくさ)だけではない、王家の統治力が問われることになるだろう。

 いつの間にか、紅く色づく空の終わりに、遠くブテクタス山塊の山並みが見えていた。



 街道には翌日も避難民の姿があった。そして難民の数は確実に増加していた。

 軍監のトラーシュからは何も言ってこない、情報が来ない。ペトラも動かない。

 その日の午後、イシュルはついにいたたまれなくなって、街道の傍(わき)で大公軍の通過を待っていた家族に直接、避難してきた話を聞いてみることにした。

 その家族の横を通りすぎた直後、イシュルはシュバルラード号をリフィアに任せ、隊列から離れてその家族に近づいて行った。

「俺は大公軍に雇われてる傭兵だが」

 イシュルはそう言って、小さな荷馬車とロバの前に立つ、老夫婦と赤子を抱えた若い夫婦に声をかけた。

「はい!」

 若い夫婦の夫の方が、抱えていた赤子を妻に渡し、緊張した声でイシュルに返事をしてきた。

 老夫婦と男の妻の方は、ほんの少しの脅えと、露骨な好奇の目をイシュルに向けてきた。

「あんたらはどこから逃げてきたのかな? 王都か」

「……」

 返事をした男は妻や老夫婦らと顔を合わせると、少し言いづらそうに答えた。

「ヴォカリ村です」

「ヴォカリ村?」

「ええ、王都の近く、北に半日ほど行ったところにある村で……」

 男の話によると、半月ほども前に王都に連合王国軍が攻めてくるとの噂が流れ、赤子と老人を抱え、先のことを考えると怖くなり、十日ほど前に村を出てきた、ということだった。

「オークランスで弟が商売をしていてな。もともと孫を見せに行く話があったんじゃ。それでな、村を出て、ついでにしばらくの間、弟の家に居候させてもらうことにしたんじゃ」

 詳しい事情は、男の父親らしい老人が説明してくれた。

 ……なるほど。以前からオークランスに行く用事があって、村長に旅行の許可をとっていたわけか。

 十日前ではまだマリユスⅢ世は出陣していない。

 イシュルは王都周辺や街道筋の村々の様子を彼らから聞いたが、同じように避難する者たちをちらほらと見かけただけで、他に特に変わった様子はなかったということだった。魔獣はもちろん、野盗に会うこともなかったという。

「……そうか。ありがとう。道中気をつけて」

「はい、どうも」

 イシュルは彼らに挨拶すると背を向け、隊列の横を早足で戻りだした。

 ……彼らは村の取り次ぎ役に出していた、旅行願いをうまく利用して避難してきたわけだ。

 だが、あの若い男には領主から徴用の触れが出ていた筈だ。それを忌避したことになるのは明らかだ。

 戦争や災害時は領民にはたいがい、何らかの徴用が課せられる。

「剣さま」

 その時、ヨーランシェがイシュルに呼びかけてきた。

 彼は声だけで、姿は見せない。

「西の人間の都(みやこ)の方が気になるなら、見てきてあげようか」

「いや……」

 イシュルは視線を西の空の方へ向けた。

 距離的には問題ないだろう。直線で百五十km強くらいか。もちろん直接交信することはできなくなるが、彼が戻ってこれなくなる、ということはない。ただ……。

「敵に気づかれないか? 相手は金(かね)の大精霊を召喚しているかもしれないぞ」

 俺が王都へ向かっていることは敵方にも知られているだろう。だが、こちらが偵察を出した、その距離まで近づいてきた、という事実を知られたくない。

「それは大丈夫。風の精霊の探知力は地上では他の系統の精霊より優れているから。相手が金の大精霊でも風の精霊でも、ぼくを先に見つけることはできないさ」

 ふむ。ならいいか。

「じゃあ、まかせた。だけど気をつけろよ。敵軍の位置が分れば、あとは周辺をさっと見てきてくれるだけでいい」

「わかった。じゃあ、しばらく待ってて」

 ヨーランシェは前方の空を背景にうっすらと姿を見せると、さっと霧散するようにして、またたく間に消え去った。

 ……国王軍が敗れたのは確実だ。もし勝っていたら、あるいは国王がまだ生きているのなら、いい加減早馬で知らせがあってもおかしくない頃合いだ。

 イシュルは音もなく跳躍すると、空中をシュバルラード号の許へ戻って行った。



 イシュルが空中からそのままシュバルラードの鞍にまたがると、リフィアが「どうだった?」とすぐに声をかけてきた。

イシュルが説明すると、

「まぁ、そんなものだろう」

「赤子がいるのなら、たとえ禁を犯そうと避難した方がよろしいですわ」

 リフィアとミラがそう返してきた。

 ……あの難民の家族の移動速度からすれば、彼らが王都近郊にいたのはまだ、敵の総大将の率いる支隊が王都へ接近する前、マリユスⅢ世が出陣する前、ということになる。

 結果的には彼らからわざわざ直接、話を聞いた意味はなかったと言える。

 リフィアが「まぁ、そんなものだろう」と言ったのはそういうことだ。

 ちょっと面白くないな。

 イシュルが少し憮然とした表情で前を見ると、後ろを向いたマーヤと視線がかち合った。

 ペトラは前を向いたまま、頭が前後にかるく揺れている。居眠りをしているようだ。

「どうした?」

「わたしもちょっと、不安」

 そうだよな、とイシュルが口にしようとした時、マーヤの頭上、空中に風の魔力が煌めいた。辺りを風が巻いて、ヨーランシェが姿を現わす。

「見てきたよ、剣さま」

 ヨーランシェはそう言うと口をつぐみ、イシュルの脳裡に声を響かせてきた。

 ……人間の都(みやこ)は一部が燃えていたよ。敵の軍勢はもう街中に侵入している。そこに金の魔法具持ちもいると思う。

「なっ……」

 イシュルはヨーランシェの顔を見つめた。

 風の精霊から笑顔が消え、眸が一瞬、光ったように見えた。

 その瞬間、イシュルの脳裡に、丘に囲まれた街中を吹き上がる火炎と灰色の煙が映し出された。

「あっ」

 これは……。

 イシュルとヨーランシェの視線が交わり、精霊が小さく頷いた。

 ヨーランシェは自身の見たもの、感じたものをほんの少しだが、映像として伝えてきたのだ。

 やつら、街に火をつけたのか。

 イシュルは歯を噛み締めた。

 とんでもないことをしやがる。

「どうされました?」

「イシュル?」

 横からミラたちの声がする。

「ヨーランシェ、きみも来てくれ」

 イシュルは全身に冷たいものが走るのを感じた。

「先行して大公に会う」

 イシュルは誰にともなくそう口にすると、いきなり鞍の上に立ち上がった。

 シュバルラードは動じない。

「クリスチナさん、馬をよろしく」

 そして後ろを振り向き、メイド頭に声をかけると、左右を振り向き言った。

「ミラ、リフィア、シェルバルに先行しよう。空から行く。ミラはシャルカに乗ってついて来てくれ」

「はい!」

「なっ」

 イシュルはそのまま、前を行くチャリオットの背に飛び移った。

「マーヤ、ペトラを起こせ。俺たちは先行して大公に会う」

「あ、ああ」

 イシュルは動揺するマーヤにそう言うと、まだ目を醒まさないペトラのからだを自身の方に向け、右手に抱き上げた。そして左手でマーヤを同じように抱き上げた。

 イシュルはチャリオットの背に立ったまま、風の魔力のアシストをつけている。

「な、なんじゃ……」

 耳許でペトラの眠そうな声がする。

 イシュルはペトラを無視し、リフィアに振り向くと言った。

「俺が飛び上がったら跳躍して、そのまま俺の肩につかまれ」

「わかった!」

 イシュルはリフィアの返事を待たず、空中に飛び上がった。

 リフィアも馬の上に立って跳躍する。

「アイラさん! よろしく」

 呆然と見上げてくるマリド姉妹に叫ぶ。

 リフィアが右肩を掴むとイシュルは高度を上げ、西の空をシェルバルに向かった。

「シャルカ! 風の魔力で包むぞ」

 イシュルは空中で後ろへ振り返り、ミラを肩に乗せたシャルカに声をかける。

「……」

 シャルカが無言で頷くと、イシュルは彼女たちを自身の魔力で包み、速度を上げた。

 ……まだ王都までは距離がある。空中に上がってもわからないな。

 イシュルは西の地平線を見つめた。

 なんとなく、濛気が立っているような気もするが……。

「どうした、イシュル。ちょっと怖いかの」

 しっかり目を醒ましたペトラが、イシュルの首にしがみついてくる。

「あっ。わたしも」

「ふむ。わたしもだ」

 マーヤとリフィアもイシュルの首にしがみついてくる。

「お、おい。苦しいって」

 イシュルの首が三人の少女の腕で埋まっている。

 そんな場合じゃない!

 イシュルは心の中で悲痛な叫び声をあげた。



 シェルバルまではあっという間だった。

 ほんのわずかな時間で前方に、街道に沿って東西に延びる街並みが見えてきた。

 その北側の草地に白い六角形のテントが並び、一部を木々に囲まれた城館があった。

 城壁はなく、城と言うよりは多少の防御力を持った領主の館、といった感じの建物だ。

 イシュルは高度を落としながら、街道筋を西に視線をやった。僅かにだが、やはりこちらに向かってくる人や車両の数が多いように感じた。

 イシュルは館の前に降り立つと魔力を解放した。いつものごとく精霊の異界に魔力を逃す。

 漏れた一部の魔力が清廉な風となって頭上へ吹き上がった。

「ペ、ペトラさま!」

 館の前にいた数名の騎士たち、平服の文官らしき男たちから素っ頓狂な声が上がる。

「おお、着いたぞ!」

 彼らに声をかけ、歩み寄るペトラたちを置いて、イシュルは城館に向かった。

 ペトラには空中で本隊から離れ、シェルバルに先行することを告げてある。

 イシュルの後をリフィアとミラがついてくる。

 城館の正面玄関、観音開きの鉄扉は開かれていた。衛兵の姿はない。

「……」

 イシュルは館の中に足を踏み入れると、室内の暗さに眸を細めた。

 吹き抜けの玄関ホールの奥に延びる階段。そこをちょうど、イシュルに向かって駆け下りてくるふたりの男がいた。

「イシュル君……」

「……!」

 背後でリフィアとミラの息を飲む音が、微かに聞こえてくる。

 黒ずくめのドミル・フルシークを後ろに従え、チェーンメールに身を固めたヘンリク・ラディスがそこにいた。

 彼の真紅のマントが、微かに揺れる。

「よく来てくれた。陛下は討死、王都が大変なことになっていてね」

 ヘンリクは力ない笑みを浮かべて言った。

 その声音はそれでも彼独特の、あの諧謔を忘れていないように聞こえた。

「……」

 イシュルは厳しい顔になってヘンリクを見つめた。

 その可笑しみが今は、彼の悲しみを何よりも強く引き立てていた。

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