涙 3
「イシュル……」
風音が闇の向こうに去っていくと、マーヤの囁く声が聞こえてきた。
「夜空が裂けた……」
「俺はこの風の剣で敵将を斃す」
イシュルはマーヤに微笑んだ。
「だから」
おまえも頑張れ。負けるな。逃げるな。
おまえもペトラも、必ず俺が守ってやる。
……だが、その言葉だけは言えない。絶対はないのだ。
気安く約束などできない。
俺はただこの力を見せるだけだ。
決意を。それだけを。
「……わかったよ」
マーヤは震える声で言った。
「イシュルはずっと先を見てるんだね」
夜空の裂けた先に彼女は一体、何を見たのだろう。
天球に消えた流れ星はいったい、どこに行ったんだろう。
もう、この力は魔法とは呼べないものだ。
「忘れてた」
マーヤの声はまだ、驚愕に震えている。
「あの後、会いに行ってやれなくて、ごめんな」
あの後とは赤帝龍と戦うためにクシム銀山に向かっていた時、山崩れに会った時のことだ。
カルリルトスに頼んで彼女をフゴに退避させてから、顔を合わせていない。
マーヤは何を忘れていたのか。でもそれはしょうがない。
「ん」
マーヤの顔に笑みが広がる。
彼女から、震えが、怖れが消えていく。
「イシュルがずっと戦っていること。……ごめんね」
忘れていた、とはそのことか。
ベルシュ村の悲報に触れた時、おまえは「頑張れ」と言ってくれたのだった。
あの時、そう言ってくれたのはおまえだけだった。
あれから俺はずっと、戦っている。
「まだ、取り戻せていないんだね」
「ああ、まだまだ先にある」
そう答えた瞬間、心の中から何かが溢れ出た。
今度はイシュルが震えだした。
くっ。
取り戻せてない、なんて言うなよ。
……マーヤの眸がやさしいのだ。
溢れるもの、それは涙か。イシュルは泣くまいと、じっと堪える。
「イシュルは何を見ているの?」
その眸が語りかけてくる。
「……」
イシュルは震えながら、わずかに口を歪ませた。何も言わない。
顔を上向け、夜空を見上げた。
「わたしも見るよ」
マーヤの声がすぐ近く、耳許で聞こえる。
「あの剣の先を。イシュルと、ペトラといっしょに」
イシュルとマーヤ、ふたりが宮殿の前に降り立ち中に入ると、中央の広間にペトラにリフィア、ミラが揃って待ち構えていた。
ペトラの後ろにはアイラとリリーナが、メイド姿のセルマが控えていた。
「マーヤ!」
「ん」
ペトラがマーヤに近寄ると、マーヤは一瞬、照れくさそうにペトラから顔をそらし固まると、ほんのり笑みを浮かべて頷いた。
「うんうん」
それだけでマーヤの気持ちがわかるのか、ペトラは嬉しそうに何度も頷くと、イシュルに向かって礼を言った。
「ありがとう、イシュル」
ペトラの眸に浮かぶ光が揺れている。喜びに頬を染めている。
「……」
イシュルが笑みを浮かべ無言で頷くと、ペトラは目に涙をいっぱいに溜めて微笑み返した。
暖かい、朗らかな微笑だ。
その奥にマーヤの顔がある。
「おやすみ。ペトラ、マーヤ」
イシュルはふたりにもう一度頷くと、やさしげな声で言った。
「おやすみじゃ、イシュル」
「おやすみ、イシュル」
ペトラとマーヤがおやすみを言うと、ミラとリフィアも彼女らに夜の挨拶をした。
ふたりの、彼女らに付き従うアイラたちの背中が、宮殿の側廊を奥へと消えていく。
ペトラとマーヤはふたりで、これから何を語り合うのだろう……。
穏やかな夜のひととき。
胸に浮かぶ感慨を、そっと両手に包むように留めおく。
「……で、君たちは何でここにいるんだ?」
イシュルは傍に立つミラとリフィアに振り返ると、首を少し横に傾け言った。
「使った、いや、抜いたろう。……風の剣を」
「びっくりしましたわ。それで降りてきたのです」
そうか。屋内にいても、さすがにわかってしまうか。
「なるほど」
イシュルは吹き抜けの廊下を西に、自室に向かって歩きはじめた。
ミラとリフィアがイシュルの両脇に並ぶ。
「フロンテーラには敵の間諜もいるだろうが……」
とリフィアは言い、語尾を濁した。
「どのみち、俺たちが増援に来たのはもう知られている」
「そうだな」
「先ほどの風の剣に関しては、気になさる必要はございませんわ。あれが何か、わかる者は限られます」
三人の大理石を歩く靴音が、側廊を奥へと伸びていく。
ミラは、かなり能力の高い魔法使いでないと、あれが魔法であったかもわからないだろう、と言っている。それは連合王国に、フロンテーラまで腕利きの魔導師を派遣する余裕も能力もない、ということを意味している。
ただ、あの強烈な魔力の煌めきは、魔法を使えぬ者でも見ることができたろうし、その者にとって正体不明の現象だったとしても、見たそのままであれば当然、報告することはできる。
「別に知られたってかまわないさ」
風の剣を知ってどうするんだ? 何ができる。
「ふふ」
「……そうですわね」
イシュルだけでない、リフィアもミラも、口端に小さな笑みを浮かべた。
「でも、エーレン殿の件は良かった」
と横からリフィア。
「さすが、イシュルさまですわ」
と、リフィアの反対側からミラ。
「ふたりとも知っていたのか」
「イシュルさまの大魔法に驚いて宮殿の外に出ようとしたところで、ペトラ殿下にお会いしましたの。その時にエーレン殿のことをお聞きしましたわ」
「そうか……」
「これで明日の軍議は、早々に決着がつくだろう」
と言ってリフィアが睨んでくる。
「良かったと思う反面、なぜか少し業腹なんだが」
「ひっ」
それはなんだ。
イシュルは思わず内心の動揺を声に出してしまう。
「まぁ、おほほほ」
ミラのあの笑いが出た。
左手の甲を口許に当てて、いつものごとくやっている。……が、それほど機嫌は悪くなさそうだ。
リフィアの方を見ると悪い顔で笑っている。
彼女の場合、悪い顔と言っても、いささかも清廉な美しさが損なわれていないのだが。
宮殿西端に差しかかると、右手の吹き抜けのホールに複数の人影が見えた。
奥の二階に上がる階段の手前にシャルカが、少し離れてルースラ・ニースバルドと、先ほどは姿を見せなかったトラーシュ・ルージェクが横に並んで立っていた。
「……」
リフィアとミラは立ち止まり、さっと顔つきをあらためる。
「ではおやすみ、イシュル」
「おやすみなさいませ。イシュルさま」
リフィアが輝くような笑顔で、ミラが上品な仕草で挨拶をしてくる。
完璧によそ行きの顔だ。
「お、おやすみ」
ミラとシャルカ、リフィアが階段を登り、階上に姿を消すと、ルースラとトラーシュがイシュルに近寄り、ふたり揃って頭を下げてきた。
「イシュル殿、ありがとうございました」
「助かりました」
「いえ……」
イシュルは肩をすくめた。
ルースラとトラーシュはにこにこと、満面の笑みを向けてきた。
「なんて素晴らしい、美しい刃(やいば)なんだ。まるで、イヴェダさまがすぐ近くにいるような感じがしたよ」
ヨーランシェの声が弾んでいる。
彼は寝室の壁に背中を預け、腕組みをしてベッドに腰掛けたイシュルに微笑む。
その笑顔に韜晦はない。
ヨーランシェは自身の興奮を隠さない。
「ああ……」
イシュルの返事は声も小さく、力ないものだった。
肩が落ち、顎が上がっている。
あれからルースラとトラーシュに、酒を一緒に飲まないかと誘われたが、イシュルは今日は疲れたから、また誘ってくれと断りを入れ、自室に戻ってくると寝室に直行した。
そこにご機嫌なヨーランシェが姿を現した。
……彼はどうやって城内の魔導師や精霊を抑えたのか。
おそらく宮殿のすぐ上に占位して下へ、周囲に向けて己の気配を、魔力をじわじわと放射したのだろう。こちらはほとんど何も気づかない、わからなかったが。
リフィアやミラはそのことに何も触れてこなかった。だから魔導師の方はわからないが、精霊に対しては充分に効果があったろう。彼らは皆、震え上がったに違いない。
ヨーランシェはまだ何か話したそうにしているが……。
イシュルはかるく息を吐いた。
「疲れた」
しかし長い、目まぐるしい一日だった。もう夜も遅い。
「ふふ……」
ヨーランシェはさっと気を静めると、眸を細めてイシュルを見つめた。
「後はしっかり見張るから。ゆっくり休むといい。おやすみ、剣さま」
イシュルは微かに口許を引き上げると、小さく頷いた。
「頼む。……おやすみ」
アンティオス宮殿の貴賓室は、ディエラード侯爵邸よりいちだんと豪華な造りで、特に天井が高く、落ち着かない。
だが、そんなことはどうでも良かった。
疲労とともに、心の底に重く澱んで消えない何か。
それは多分、ネリーのことだ。
だが、ペトラの、マーヤの力になれたことは良かった……。
イシュルは天蓋つきのベッドに倒れ込むと、そのまますぐに深い眠りに落ちた。
翌日。大公城での最後の軍議は、昼前に早々と終わった。
軍議は昨日と同じ広間で行われたが、イシュルは軍議に直接参加せず、壁際に並べられた椅子にミラやシャルカとともに腰かけ、傍観する立場をとった。
懸案のペトラ出陣の可否は、マーヤが賛成にまわり、軍議に新たに参加したリフィアの後押しもあって。反対派は抗すべくもなく、あっさりと可決された。
昼食後、イシュルたちはペトラに宮殿北側の馬場に連れて行かれた。
彼らの乗る馬を大公家で手配することになったが、どの馬に乗るか決めるのに、ペトラ自らが立ち会うと言いだしたためである。
周囲を木々と城壁に囲まれ、下草のまばらに生えた城内の一角。その西の端には木々に隠れて、厩(うまや)や何かの倉庫らしき建物が並んでいる。
そこから数頭の馬と二輪馬車、いや、戦車(チャリオット)が引き出された。
イシュルとミラ、リフィアの前に、馬丁に曳かれ馬が並び、その横に馭者の操る一頭立てのチャリオットが駐車する。
「戦車か……」
なんてクラシックな。
チャリオットは手前の馭者台の後ろに革張りの椅子があり、周囲を唐草や幾何学模様のレリーフが施された青銅板で覆われている。
厳密に言えば戦車と言うより、貴人が戦場で乗る指揮車のようなものだろうか。
「この戦車は妾が乗るのじゃ」
呆然と呟いたイシュルにペトラがない胸を張る。
「わたしもいっしょ」
と、その横でマーヤ。
「そうなんだ」
イシュルは横目でペトラとマーヤを流し見た。
おまえらじゃ、ちっちゃくて馬に乗っても格好つかないもんな。
彼女たちならちょうど、ポニーあたりの大きさの馬が似あってる。ポニーみたいな馬種がこの世界にあるのか、それは知らないが。
「ふむふむ。一度、乗らせてもらおうかな」
「そうね……わたくしはあの栗毛かしら」
ミラとリフィアがチャリオットの横に並らんだ馬の方へ近寄っていく。
「ちょっと待った!」
それを見てペトラがふたりに声をかけた。
「ぜひイシュルに勧めたい馬があるのじゃ。ちょっと待ってくれるかの」
「あら。わかりましたわ」
「ふむ。そうですか」
ペトラに待ったをかけられ、ミラとリフィアが立ち止まり、ペトラとその横に立つマーヤとイシュルの方へ振り返える。
ミラの表情に悪意はない。しかしリフィアは眸を細めて横目にイシュルを見てくる。その口角がわずかに引き上げられている。
ミラとリフィアはふたりとも、イシュルが乗馬を苦手としているのを知っている。しかしリフィアは、イシュルのその“苦手”意識が相当なものであることを、乗馬を嫌ってさえいることまで知っている。
リフィアめ……。うれしそうじゃないか。
ペトラはそんなことはつゆ知らず、黒毛の馬の馬丁を呼びつけた。
イシュルの前に、堂々たる馬体の馬が一頭、曳き出された。
「イシュル、これがシュバルラード号じゃ! 父上もお気に入りでの。粘りのあるいい馬じゃ。そなたにはこの馬を貸そう!」
ペトラは満足げに胸を張っている。
「……」
シュバルラード号って。“号” って。
イシュルは何かに苛立ってでもいるのか、盛んに首を振り鼻を鳴らす、気の強そうなシュバルラードの長い顔を見上げた。
イシュルと同じ歳くらいの馬丁の少年が、ずいぶんと気合を入れて手綱を握っている。
俺がこの馬に乗るのか? こんな気の強そうな馬に。
「あっ、あの」
イシュルは顔を青くしてペトラに言った。
「この馬を俺に?」
「……そうじゃが」
ペトラが不思議そうな顔をしている。
「……」
脇ではリフィアが口許に手を当て顔を逸らし、肩を震わせている。
あの震え具合はもう、限界が近いんじゃないか。
リフィアめ。あとでおぼえてろよ。
「イシュルさま?」
ミラが、イシュルとリフィアの様子を交互に見て察したのか、心配そうな顔になって声をかけてくる。
「イシュルは乗馬、苦手だったかな」
マーヤが小さな声でボソッと言う。
そうなんだよ。俺にはこの馬は無理だ。このナントカ号に乗るくらいなら、ポニーの方がまだいい。もう恥も外聞もない。
しかし結局俺も、マーヤやペトラとたいして変わらないじゃないか。
とほほ。
ペトラにはこの馬は俺には乗れない、無理だと正直に言おう。
「ぺ──」
彼女に向かって口を開こうとするイシュル。
……しょうがないな。剣さまは。
その時、イシュルの脳裡にヨーランシェの声が響いた。
「ん?」
イシュルは頭上の、薄い水色に晴れ渡った空を見上げた。
周囲を風が巻き、微かな魔力の煌めきとともに美貌の精霊が姿を現した。
「おお」
「まぁ!」
「……」
ペトラとミラが感嘆の声を上げ、マーヤがほんの僅かな驚きを面上に表し、リフィアが微かに首を傾け、無言でじっとヨーランシェを見つめる。
あの時、リフィアはヨーランシェに気づいていたろうか。
彼はアルヴァ城で眠りの魔法を使い、彼女から少し離れていたが、白亜の回廊でその姿を現したのだ。魔法を使う者ならしっかり見えたろう。
ただ、彼女はその時、他に注意を向けられるような状態ではなかった……。
「なんだか強そうな精霊じゃの」
「あの大精霊さまはイシュルさまが昨日、召喚なさったのですわ」
ペトラたちに向かって、ミラが自慢げに説明している。
「剣さまはこの黒毛の馬に乗りたいんだろう?」
……いや。別に、ちっとも乗りたくないんだが。
ヨーランシェは空中からシュバルラード号を見下ろした。
黒毛の馬も、どの馬も一応はヨーランシェの出現に気づいているのか、耳をくりくり動かしているが、それ以上の反応はしていない。だが、黒毛をはじめ、どの馬も明らかにおとなしくなった。
「ぼくが彼に話してあげよう。心配しないで。剣さま」
ヨーランシェはイシュルににっこり笑って見せると姿を消した。
その直後、黒毛の馬はぶるっと全身を震わした。
「……あれ」
シュバルラードの手綱を握っていた馬丁の少年が小さく声を上げる。
黒毛はおとなしくなるどころか、置物のように動かなくなった。
……これで、彼は剣さまの言うことは何でも聞くから。
脳裡にヨーランシェの声が響いてくる。
……ありがとう。
イシュルは口の中でヨーランシェに礼を言った。
どれだけ効力があるのか知らないが、とりあえず見た目はとてもおとなしくなった。
「……」
イシュルはシュバルラードにゆっくりと近づき、その鼻すじをなぜた。
不穏な輝きを宿していた彼の眸は、まるで別の馬のように静かな色をたたえていた。
「よろしくお願いいたします。イシュルさま」
その後、イシュルはひとりで宮殿の自室に帰ってきた。
控えの間に入ると、イシュルより二、三歳ほど年下の少年が控えていて、自らロミールと名乗り、これからイシュルの従者として、身の回りの世話をさせていただくと言った。
ロミールは大公家に仕える騎士爵家の三男で、将来は複数いる大公家の執事の一人となるべく、修行中であるということだった。
イシュルとリフィア、ミラのそれぞれ乗る馬が決まると、リフィアとミラはメイド頭のクリスチナに付き添われ、宮殿東側の大公家の執務室や私室の固まる一画に連れて行かれた。着替えの服や武具を手配してもらうため、ということだった。ペトラとマーヤも彼女らとともに、同じ宮殿東側の居室に戻って行った。
オリバスの街道筋でラディス王国の悲報を聞いてから、着の身着のまま、その日のうちにフロンテーラまでやってきた。着替えやその他雑貨類はすべて置いてきた。ロベルトやルシアたちはまだロマーノを出たあたりだろう。
リフィアは従者のメイドたちをすべて引き連れ、聖都にやってきた。一部の衣服などは大公城に置いてあるのだろうが、彼女の身の回りを直接世話する、辺境伯家の者は大公城にいない、ということだった。
ちなみにリフィアの辺境伯家や王国南端のノストールの城主、クベード伯爵家など、聖王国との国境沿いの領主たちは今回、フロンテーラに招集されていず、従って彼女も自家の軍勢を率いていない。
本来ならリフィアもアルヴァに帰るべきだが、彼女は一騎当千の武神の矢の魔法具の持ち主、ということでそのまま参陣となったのだろう。
それに彼女自身がイシュルと離れ離れになるのを、良しとする筈もなかった。
「その、“さま”付けはやめてくれないかな。俺は貴族でもなんでもないし」
「はぁ。……ではイシュルさん、で」
「ああ。それでいいよ。よろしく、ロミール」
執事見習いの少年は誰かからイシュルのことを聞いていたか、イシュルの言をすんなり受け入れた。
「居間の方に、イシュルさんに寸法を合わせたお召し物を用意しています」
……“イシュルさん”に“お召し物”か。なんだか変な言い方になってるな。
それにしても、俺に寸法を合わせた服、ってのはどういうことなんだ?
「わかった」
イシュルはとりあえずロミールににやりと笑って見せると、彼に続いて居間に移った。
「……なるほど」
居間の長椅子などに並べられた衣類は、リフィアに付き添ってきた大公家の剣士、エバンが着ていた衣服と、布地や色、仕立てがよく似ていた。
それは街中でたまに見かける剣士や下級貴族、彼らに仕える家臣らの着る、典型的な服装だった。
エバンは大公家に仕える剣士というよりも、影働きの方により近い者なのかもしれない。変装も含め、そういった者たちが使うものならば、俺のサイズに合った衣服もいくらでも揃えられるだろう。
イシュルはその中から適当に着替え用の服を選び、ロミールに託した。
翌日は明け方から出陣の準備がはじまった。
イシュルもまだ暗いうちからロミールに起こされ、宮殿前に連れてこられた。
宮殿前の広場にはすでにペトラとマーヤが、彼女らの乗るチャリオットも引き出されていた。
ミラとリフィアの姿も見え、彼女らの乗る馬も引き出されていた。
もちろん、別の馬のようにおとなしく従順になったシュバルラード号も。
「イシュル、いよいよ出陣じゃ!」
ペトラが近寄ってきて元気な声でイシュルに叫んできた。彼女の手にはあの土の魔法具、地神の錫杖が握られていた。
彼女の衣装はいつもとほとんど変わらず、光沢のある白の絹製のドレスに銀のティアラ、それに純白のファーで縁取られた真紅のガウンを羽織っている。戦(いくさ)用の服装はしていなかった。
「おう」
ペトラの呼びかけに答えたイシュルの声は、いまひとつ気合の抜けた感じだった。
「なんじゃ。まだしっかり目覚めていないようじゃな、イシュルは」
「うん、朝早くて」
っていうか、まだ夜だ。
昨日はあれからミラたちとも会うことなく、自室でひとり軽めの夕食をとり、入浴後は早々に寝てしまったのだ。
ちなみにイシュルの泊まった部屋には浴室もあり、室内には銅製のバスタブが備え付けられていて、バスタブの上の壁面につけられた蛇口をひねると、少しぬるいがお湯もちゃんと出た。
この世界、大陸では驚くべき豪華な風呂だった。
「おはよう、イシュル」
マーヤがペトラの後ろから声をかけてくる。
彼女はいつもの黒のローブに黒のマント、今日は魔女の帽子をかぶっている。
「おはよう、マーヤ」
ふむ。マーヤの感じ、悪くない。
イシュルは眠気を吹っ飛ばし爽やかな笑顔になって言った。
「むっ。妾もおはようじゃ、イシュル」
なぜ妾にもその笑顔を向けぬかと、ペトラが横から不満を隠さず割り込んできた。
少し離れてミラとリフィアがペトラの従者、マリド姉妹と立ち話をしている。
ミラは今日は馬に乗るのでズボンを履いている。上は白のブラウスに桃色のスカーフ、下も白で赤茶のベルト、ブーツも白、そしてあざやかな真っ赤のマントを羽織っている。
リフィアは光沢のある明るい灰色のチュニックをベルトで縛り、下はこげ茶のズボンに黒のブーツ、マントは艶のある銀色だ。
彼女たちの背後に立つシャルカはいつものメイド服にベージュのマント。ペトラに付き従うメイドたち、クリスチナやセルマらと同じ格好をしていた。
広場には他に、お揃いの赤茶の上着を着た剣士が六名いた。皆エバンと同じような年恰好で、大公家の護衛や伝令役、そしておそらく影働きもする剣士たちだ。
イシュルを宮殿の外まで連れてきた従僕のロミールは輜重隊の方に向かい、この場にはいない。
広場の奥に広がる木々の向こうの、古い城館の方では盛んに兵馬の騒ぐ気配がある。
日が昇ると、ペトラがチャリオットに乗り、周りに向かって大声をあげた。
「みなの者、出陣じゃ! 我が王国に勝利を!」
広場にいる者たちが「おう!」と唱和した。
軍勢は所定の隊列を組み、城の南門から出立する。その南門の方から低いラッパの音が、そして太鼓の音が聞こえてきた。
イシュルとリフィア、ミラはペトラの近侍扱いで、メイドたちや赤茶のお揃いの上着を着た剣士たちとともに、彼女の乗るチャリオットの前後に位置し、行軍することになった。
一行が城内南門前の広場に移動すると、本隊先頭を行進する鼓笛隊の他、諸隊がすでに整列していた。後方には広場の東側から内郭城壁の奥へと続く練兵場まで、諸侯の部隊が延々と続いていた。
兵馬の連なりには種々の領主家の旗が林立し、爽やかな朝風に緩やかにはためいていた。
ペトラが南門前の広場に姿を現わすと、鼓笛隊が演奏をはじめ、続いてそのまま行進を開始し、城門をくぐり外へ出て行った。
鼓笛隊は太鼓と縦笛の編成だが、笛を吹く者は少なく、太鼓の軽快に打ち鳴らされる音が強く目立って、辺りに広く大きく鳴り響いていた。
鼓笛隊が出て行くと、次にニースバルド伯爵家本隊、大公家騎士団残置部隊の百騎あまりの竜騎兵が続いた。そして、先頭の旗よりひと回り小さな大公家を掲げる騎馬を先頭に、リフィア、ペトラとマーヤの乗る戦車、その左右を守る剣士たち、イシュルとミラにシャルカ、メイドたちの順番で前の隊列に続き城外へと進んだ。
そのすぐ後ろにはオーヴェ伯爵、続いてその他の諸侯の軍勢が、さらにその後方に輜重、殿(しんがり)には大公家騎士団残余の槍兵、弓兵などの徒歩兵が続いた。
城門を出るとアルヴァ街道をそのまま右に、西へ進む。
アルヴァ街道はこの先で北に曲がるベーネルス川を越えた時点で、オークランス街道とその名を変えるが、フロンテーラから王都ラディスラウスまでの同街道は通称、王都街道と呼ばれ、一般にはその名で呼ばれることが多い。
「まぁ、大変。賑やかですわね」
ミラが馬を寄せ、イシュルに声をかけてくる。
「ああ」
イシュルは少し浮かない顔をして答える。
沿道には、大公軍の出陣を見送る、あるいは見物する街の住民が鈴なりになって、道の先の方まで続いていた。
隊列の前の方からは太鼓の音が響き、それに見物する街の住民たちの叫声が混じって、辺りはお祭り騒ぎのような喧騒に包まれていた。
チャリオットの背に見え隠れするペトラは、さかんに沿道の住民に手を振っている。
……ヨーランシェ。
イシュルはペトラの隣に座るマーヤの後頭部、そして魔法の杖の先の空を漠然と見渡し、風の精霊の名を呼んだ。
……大丈夫。怪しい人間や精霊はいない。
イシュルは脳裏に響くヨーランシェの返答を聞きながら、視線をさらに左右に、上方に向けた。
部隊の上にはヨーランシェだけではない、数体の精霊が姿をちらちらと見せ、周囲を警戒している。隊列の先頭付近には、大公城に空から入ろうとした時突如姿を現した、あのお化け鶯(うぐいす)の風の精霊の姿も見えた。
沿道の住民たちはペトラの姿を見ると、「王女さま!」「ペトラさま!」などと盛んに声をかけてくる。街の住民にはペトラの顔を知らない者も多勢いるだろうに、彼女はなかなか人気があるようだ。
しかし、この状況はあまりよろしいものではない。連合王国の間者にとっては、彼女を襲撃する絶好の機会であろう。
だが、この行進は当然、政治的には大きな意味がある。大公軍本隊の出陣は敵方にも知られるだろうが、同時にそれは王国内の味方の諸侯、兵士や領民たちにも広く知られることになる。
「……」
イシュルはふと、少しくすんだ水色の空を見上げた。頭上にはまばらに浮かぶ薄い雲を背景に、鳶(とんび)が一羽、緩やかに円を描いて飛んでいた。
街道は市街地の外れに差し掛かかり、沿道の住民の混雑に変化はないものの、立ち並ぶ建物は木造の民家ばかりに、木々の緑も目立ってきた。
イシュルは道が曲がり、視界が途切れるあたりで特に集中し、周囲を見張った。
この状況では辺りを風の魔力で覆って調べても、怪しい者を見つけることは容易ではない。皆一つ所に留まって、同じ方向を見ているからである。
ヨーランシェは何も言ってこないから、問題はないのだろうが……。
人々の居並ぶ街道を、やがて前方に古い城門のような建物が見えてきた。
「昔の砦の跡でしょうか。それともかつて街を囲む、城壁があったのかもしれませんわね」
ミラが横から言ってくる。
「ああ。あの門を抜けると、見物人も少しは減るだろう」
先を行く部隊は何事もなく、所々蔦が這い、崩れた石積みの城門をくぐりぬけていく。
その城門はアーチ型になっていて、その上部の鋸壁にはたくさんの子供たちが足を外側にぶら下げ、横に並んで座ってこちらを見ている。
貴人を上から見下ろすのは不敬である、との考えはこの世界にもあるのだが、城門の上に乗っているのは子供たちばかりなのか、部隊の兵らも、周りの住民らも特に問題視していないようだ。
……あの城門の辺りはどう?
イシュルは心のうちでヨーランシェに呼びかける。
……大丈夫、怪しい者はいない。
すぐに彼の声が返ってくる。
……ふむ。
イシュルは城門の周囲を注意深く観察しながら馬を進めた。
前を行くリフィアが、ペトラたちの乗るチャリオットも何事もなく門の下をくぐっていく。
大丈夫か。
荒々しい石積みの壁に視線をやりながら、イシュルも門の前に差し掛かった。
その時頭上を、何かがふわっと軽やかに動いた。
「……?」
ふと見上げると、上から落ちてくる子どもの影が視界を覆う。
広がるスカートのシルエット。女の子か?
くっ。
その瞬間、イシュルは両目を見開きその影を凝視した。子どもは片手にナイフを握っていた。
刃先が自分に向かってまっすぐ立てられる。
俺の、眉間?
俺の眉間を狙っている。
ネリーの加速の腕輪はまだ反応しない。スカートをひらめかせて落ちてくる女の子の動きは、加速の魔法具が反応するような早さではないのか。
イシュルは馬上でからだを左に傾け、同時に風の魔力を降ろした。
右手を差し出し、ナイフを突き立てる女の子の手首を握る。
粗末な服装の、日焼けした黒髪の女の子ども。彼女は片手をイシュルに捕らわれ、宙に全身を浮かせていた。
シュバルラードが自ら歩みを止めた。落ち着いている。
「……」
その子どもは声も出さず、僅かに悔しそうな視線をこちらに向けてくる。
「イシュルさま!」
横からミラの叫ぶ声。門の外から、リフィアの強烈な魔力が煌めく。
前を行くチャリオットががさがさと揺れる。
イシュルは発動しようとする加速の腕輪を止めた。
「……子ども、か」
直後、すぐそばに姿を現したリフィアが、宙に浮く少女を見上げて呻く。
ネリーの腕輪はリフィアの動きに反応した。
「ああ。そうみたいだな」
イシュルはその子どもから視線を外さず、小さな声で言った。
……全く殺気を感じなかった。
いや。それよりも敵は、子どもを使ってきた。
そして……。
イシュルはその子どもの黒い眸の奥を、覗きこむようにして見つめた。
この子は俺を狙ってきた。
ペトラではなく、俺を。
部隊はフロンテーラの市街を抜けた後もしばらく行進を続け、辺りが人もいない、民家も見えない、草原と雑木林ばかりの場所まで来ると、一旦停止しその場で小休止した。
草原の緩やかに上下する、波打つような大地の曲線に、街道に沿って兵士たちが思い思いに固まり座っている。従者たちが走り回り馬に水をやったりしている。
「名前は?」
イシュルは両手両足を縄で縛られ、草の上にころがされている少女を見下ろし言った。
「……」
女の子はイシュルに顔も合わせてこない。
髪の毛はボサボサ、薄汚れた服。年齢は八歳くらいだろうか。
見た目は典型的な貧民街の子どもだ。
「まいりましたわね……」
「イシュル、この子は……」
ミラとリフィアが横から言ってくる。
「うん」
この子どもは間違いない。プロじゃない。連合王国の影働きではない。
ヨーランシェは、あの直後、「すまない、見逃した。気づかなかったよ」と謝ってきた後、「この人間の子どもに殺意や殺気をほとんど感じなかった」と言ってきた。
つづいて彼はこう言った。
「この子どもに感じたのは殺意より欲望、かな? 多分それは“食欲”だ」
もちろん、この子どもは俺を殺して食おう、などと考えていたわけではない。
「腹減ってるんだろ? 誰に頼まれた? 教えてくれたら飯、たらふく食わせてやるぞ」
「リシュカ」
少女は上半身を起こし、草の上に膝を立てて座るとそれだけを言った。
「弟がいるんだ。ラズルにも食べさせてくれる?」
「ああ。いいぜ」
少女はそこでわずかに表情を和らげた。
「……貧民街の子を使ってきたんだね」
マーヤが近づいてきて言った。
「そういうことだ」
イシュルはひとつ頷き言った。
「一か八か、微妙な賭け、だがな……」
「敵も考えましたわね」
リフィアとミラもよくわかっているようだ。
この子どもはエリスタールで、スリをやっていた子どもと同類だ。
さすがに人を殺したりはしないだろうが、普段からスリなど盗みを働いていたんだろう。ナイフも護身用に、普段の生活のために常時身につけていたのだろう。
敵は直接手を出さず、影の者らを使わず、貧民街で泥棒働きをしている子どもだけを選んで使ってきたのだ。
多分、「黒い馬、黒いコートを着たお兄ちゃんを懲らしめてやってくれないか? あいつは裏切り者でお姫さまの命を狙っているんだ。成功したら後で、美味しいものをたくさん食べさせてあげる、お金もあげる」
などと声をかけ誘ったのだろう。
決して「殺せ」などとは言わない。これくらいの子どもでも人を殺すことはあるだろうが、まだ大人の持つような明確な「殺し」のイメージを持っていなかったり、相手に恨みつらみがあるわけでもないし、強い殺意を抱くことはない。ただ「懲らしめる」ことができれば、おいしいご飯がたくさん食べられる。それでいいのだ。
魔法は使えない、刃物の取り扱いには慣れているかもしれないが、武人のような身のこなしはできないし、知らない。
だからヨーランシェだけでなくシャルカも、他の精霊も気づけず見逃した。
相手の姿勢や仕草、雰囲気で武術の心得があるか見極められるリフィアや、茶色の上着の剣士たちもノーマークだった。
ミラたちの言ったとおり、成功率は低いかもしれないが、敵方は俺に対する実行可能な、最も効果的な手を仕掛けてきた。
地味で目立たず、子どもを使い、足もつかない、非常にシンプルな手を使って、俺だけを狙ってきた。
リシュカと名乗った貧民窟の女の子は、街の市場で盗みを働き逃げてきたところを見知らぬ男に声をかけられ、俺を襲うように頼まれたと話した。あの城門の上から襲撃することも、その男から提案してきたのだという。
「この子を拷問しても意味はないぞ」
イシュルはマーヤに言った。
この女の子に声をかけてきた男の風体を聞き出し、調べても、とても相手を捕えることはできないだろう。
「わかったよ。神殿にでも預ける。しばらくは監視をつけるけど」
「この子の弟の方もな」
確かに監視つきで神殿に預けるのが一番いいだろう。最悪、口封じに殺される可能性もあるのだから。
「イシュルさまはやさしいですわね」
とミラ。
この世界には当然人権、子どもの人権なんてない。
だがエリスタールでブリガールを狙っている時、貧民街で知り合った兄妹の子どもたちのことを考えると、やはり厳しい処置はとりたくない。
「鼓笛隊はここでおしまい。フロンテーラに帰るから、この子も一緒に返すよ。手配はしておく」
マーヤがそれでいいでしょ? とイシュルを見上げてくる。
「ああ、よろしく。マーヤ」
イシュルがマーヤに続いて「ありがとう」と言うと、彼女は笑顔になって頷いた。
鼓笛隊を分離した本隊は、早々に行軍を開始した。
初日は街道沿いの村、ケノンに、二日目はスクバリ、三日目はヨルリンというやや大きな街で宿営し、途中ベーネルス川を渡河、フロンテーラでの小さな襲撃の後、特に目立った妨害工作もなく、部隊は順調に進軍した。
フロンテーラを出発して五日目、部隊は初めて野営することになった。
イシュルはふたり用のテントで、中をカーテンのような布で二つに仕切り、従者のロミールとともに野営することになった。
夜になってイシュルは軍監のトラーシュ・ルージェクのテントに呼ばれた。トラーシュのテントにはルースラ・ニースバルドもいた。
ふたりは小さな折りたたみ式の机の上にラディス王国の絵地図を広げ、酒を飲んでいた。
トラーシュのテントは多数の巻紙、書簡など書類で溢れていた。
イシュルはその席で、ヘンリクの率いる先遣隊がオークランスに到着したことを知らされた。彼は同市城に数日間滞在し、物見を放って王都周辺の情報収集に当たっている、ということだった。
「ヘンリクさまはその先の王都街道沿いの街、シェルバルで我々本隊と合流する腹積もりのようです」
シェルバルは王都から二百里長(スカール、約百三〜四十km)ほどの距離にある。
「ヘンリクさまと合流したら、イシュル殿も軍議の参加ください」
とのルースラの言に、イシュルは無言で首肯した。
そこで、敵将とどのように戦うか、最新の状況をもとに決めなければならない。
イシュルはトラーシュのテントを辞すると自分のテントに戻り、ヨーランシェに警戒を厳重にすることを念押しして早めに就寝した。
今晩は女どうしで夕食をともにするということで、ミラとリフィアはペトラのテントに呼ばれ、イシュルのテントにはその夜、彼女たちは誰も訪れなかった。
……剣さま、剣さま。
暗闇に閃光とともに誰かの声が響いた。
「ヨーランシェ!」
イシュルは飛び起きた。
組み立て式の粗末な寝台が揺れ、軋む。
刻は払暁か。いや、まだ暗い。テントの中は真っ暗だ。
……少し離れたところで火事が起きている。敵の襲撃かな。
「わかった」
イシュルはコートを羽織ると、何も知らずぐっすり寝ているロミールをまたぎ、テントの外に出た。
出ると同時に空中に飛び上がる。五百長歩(スカル、三百m強)ほどの高さに上がると、東の方に火が上がっているのが見えた。
「輜重隊がやられたのか」
「ふむ。たいしたもんじゃないけど、火の魔法が使われたよ」
イシュルがひとりつぶやくと、横にすぐヨーランシェが現れ、思いの外のんびりした口調で言ってきた。
北側からは森が迫り、南側には川、部隊は街道沿いに細長く野営している。危険な配置であるが、ここはまだ城塞都市アンヘラからはもちろん、王都からも遠く、奇襲を受けるようなことは考えられなかった。
大公軍本隊の兵力はおよそ二万。輜重は各諸侯の部隊ごとに、また全軍の最後部にまとめて、分散されている。各部隊に付属する輜重隊は戦闘用に機動力を重視し少数、本隊後端にまとめられた輜重隊は長期の行軍用で規模が大きい分、戦闘用の機動力は持たない。ほとんどが一頭立ての荷馬車か、人が引く荷車だ。
……敵の妨害工作か。
おそらく少数の影働きや魔導師で編成された前進部隊で、偵察や撹乱などがその任務なのだろう。
それにしてもこんなところまで来ているのか……。
「どうする? 剣さま」
「うーん」
ここから燃えている輜重隊までは、二里長(スカール、約千三百m)ほどの距離がある。
視界は広いが夜中で、遠くに燃え立つ炎以外に、はっきりと見えるものはない。それらしい気配も伝わってこない。
夜空は雲に覆われ、月も見えない。
「俺にはよく見えないな。敵はもう退いた?」
前方、広域に風の魔力を突き刺せばわかるが、敵方に魔導師がいるなら、網にかかったことも同時に知られてしまう。
「ぼくには見えるよ」
ヨーランシェは火事の起きているところから、北に少し離れた森の方を指差した。
「敵は一目散に逃げてる。ぼくが始末しようか」
「そうだな。生きたまま捕えるのは難しいだろうし」
この場合敵を捕えて尋問、情報を得るのはとても重要なことなのだが、もう森の中に逃げ込んでいるのなら、それもなかなか大変だ。
「いいよ。皆殺しで。ひとりふたり生かすことができても、捜索が大変だ」
イシュルはヨーランシェに酷薄な笑みを浮かべた。
「いい機会だ。試射と行こうじゃないか。きみの力を見せてくれ」
「よし。まかせて」
ヨーランシェは気合を入れて頷くと、彼の弓を構えた。
瞬間、強力な魔力が夜闇を走り、三本の矢が現れる。一本はすでにつがえられていた。
「三連射でいく」
音もなく弓が引き絞られていく。かわりに弓矢が、ヨーランシェの全身が風の魔力で輝きはじめる。
「……!」
その時、イシュルは何者かから頭を横に、大きく叩かれたような衝撃に見舞われた。
なっ……。
横に立つヨーランシェの猛々しい姿が歪み、闇の底に溶けていく。
「……メリリャ」
気づくとイシュルは誰もいない、夜のそれではない漆黒の闇に囚われていた。
先の知れない、何も感じられない暗黒。
風も音も、匂いも、何もない。
暗黒に浮かぶイシュルの前にはメリリヤの姿があった。
「そろそろ現れる頃だと思っていたぞ。月神よ」
イシュルは深いところから溢れ出そうとする怖れを押しとどめ、歪んだ笑みを浮かべて言った。
「相変わらずメリリャか。芸のない」
「そんなことを言ってよいのか。そなたが殺した娘であろうに」
メリリャの形をした女が薄く笑って見せる。
しかし、この暗闇なのに相手がはっきりと見える。自分の手足、からだもだ。
いったいどこに光源があるのか。
「用はなんだ? 金の魔法具のことか?」
イシュルはその眸を炎のように燃えあがらせ言った。
「おまえの差し金だろう」
「ふふ。そうだ。見事あの者から、金の魔法具を奪って見せるがよい」
くっ、気に入らない。
俺は相変わらずこいつの掌の上、というわけか。
「……きさま」
イシュルは月の女神をきさま、呼ばわりした。
「あっ、はははは」
メリリャは身をよじり、激しく哄笑しはじめた。
……これの一体、どこがメリリャだというのだ。
「風神にかわいがってもらったのであろう? そなたなら、難なく金の魔法具を手にすることができよう」
イシュルは眉を聳やかす。
こいつは何を考えている……。
「楽しみにしておるぞ。風の魔法具を持つ者よ」
月神は寒々とするような冷たい笑みを浮かべた。
くそっ。何が楽しみにしている、だ。
……今はだめだ。とにかく神の魔法具を集めなければ。この闘いに生き残らなければ。
苦痛に自分の顔が歪んでいくのがわかる。
その時、メリリャが微かに笑った。
ふっと、何かが変わった。
ん?
……なんだ?
イシュルが彼女の顔を凝視すると、その眸から一筋、涙が流れた。
今ではわずかに幼く見える、死んだ頃のままのメリリャ。彼女の頬を、銀色に光る涙が伝わっていく。
「な、なぜ」
イシュルは激しい動揺に襲われた。
お前は月神レーリア、じゃないのか。それはメリリャの形を真似ているだけではないのか。
なぜ、そんなに悲しそうにする。
「お前は誰なんだ!」
イシュルの悲痛な叫びとともに、周囲から突然風が流れ込んできた。正体不明の空間がひしゃげ、陥没し消えていく。メリリャの姿も崩れ、消えていく。
イシュルは胸を搔きむしった。
あの、すべてを失った時の記憶が心の中をかすめていった。
メリリャの涙。それがマーヤの涙と重なる。
それは悲しみの何か。苦しみの何か。ひとの心が流す涙だ。
「……行くよ」
いつの間にかヨーランシェが現れ、夜の冷気が身を浸し、闇はあの闇ではなくなって、世界が戻ってきた。
しゃりーんと高く美しい音がして、風の大精霊の矢が放たれた。
三本の光り輝く、長く細い光弾が闇を引き裂き、森の深い影のあたりに着弾した。
激しい爆発が続けざまに三回、連続して起こり、地を揺らした。わずかに遅れて衝撃波が襲ってきた。
「……」
イシュルは自身に迫ってくる、分厚い空気の壁を左右にいなした。
前方の森の方から、もくもくと土煙が立ち上るのがわかる。
爆薬が爆発したわけではないから、炎が立ちのぼったりはしない。だが強烈な魔力の煌めきが、森の淵を覆うのが目に見える。
「……凄い」
まるでなにかの対地ミサイルか、大口径の榴弾の爆発のようだ。
そんなもの、直に見たことはないが。
イシュルはずっと、夜空に輝く風の魔力の煌めきを見続けた。
……あの涙の意味するもの。
メリリャが、もし彼女が死してなお、月の女神レーリアに囚われているのなら。
イシュルは両手の拳を握りしめ、闇夜に向かって歯をむき出しにした。そして声にならない叫びをあげた。
やつは絶対に許さない。
いくらやつが冥府の神であろうと、運命の神であろうと。
人間はおまえらのおもちゃじゃない。メリリャはおまえらのおもちゃじゃない。
あの涙はなんだ?
あの悲しみはなんだ?
もう話を聞く必要などない。
いつか必ず、やつを地べたに這いつくばらせてやる。
「行こう」
イシュルは誰にともなく言った。
「剣さま?」
ヨーランシェが不思議そうな声を上げる。
地上では敵の襲撃に、そして風の大精霊の振るった魔法に、大騒ぎになっているのが伝わってくる。
イシュルはヨーランシェに何も答えず、無言で下界に降りていった。
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