旅立ち 2


 今年の村の荷車は全部で八台、御者をやっている者と護衛する者を合わせて二十人弱になる。

 イシュルはその後、車列に追いつくと最後尾についた。少し先を歩くエルスは先ほどのイシュルとメリリャの様子を見ていたかもしれないが、イシュルに振り向きもせず、何も言ってこない。

 もし気遣ってくれているのなら助かる。

 イシュルは息を吐くと、辺りを見回した。もう、周りに少しでも人の手の入ったものは見当たらない。完全に村の外に出た。前方、車列の先頭の方では、護衛の男たちのリーダー格として参加しているポーロの広い背中が見える。レーネが死んでお役目が減ったのか、去年辺りから村の納税の護衛に参加するようになった。

 その先にはところどころに雑木林が点在する、見渡す限りの草原が続いている。東南の方、遠方へ目をやると、地平線の手前、少しかすみがかって青々とした明るい緑と濃緑色の細い線が重なって見える。川を越えて魔法の練習に行っていた葦原、その広がりがあれだろう。

 街道は南西方向にセウタ村へ向かう。徒歩でおおよそ半日、三十里(三十スカール、約二十キロメートル)弱ほどでセウタに着く。荷車はみな荷をたくさん積んでいるので、到着まで少し余計に時間がかかるとして夕方、暗くなるあたりになるだろう。

 セウタまでは特に人家もなく、道は緩やかな下りが続き、川を渡ることもなく同じ景色が延々と続いていく。

 もうそろそろ秋も終わりだがよく晴れたせいか、道には心地よい暖気があって一行の間にも弛緩した空気が漂っていた。

 今年もベルシュ村はなかなかの豊作、北や、周辺の村々からも不作などの悪い噂は聞こえてこない。食いっぱぐれた者が盗賊となって襲ってくるおそれもないだろう。プロの盗賊は滅多にこんな田舎には現れない。

 荷馬車に合わせてのんびり歩きながら、メリリャのことを思った。

 大きく手を振ってきたメリリャに、こちらも大きく手を振り返した。あれで少しでも彼女の悲しみを和らげることができたろうか。


 荷馬車に合わせてのんびり歩きながら、メリリャのことを思った。

 大きく手を振ってきたメリリャに、こちらも大きく手を振り返した。あれで少しでも彼女の悲しみを和らげることができたろうか。

 いっしょに村を出よう。

 かならず迎えにくるから。

 彼女が望んでいた言葉。

 その言葉を彼女は俺が村を出ると知った時から、ずっと待っていたのだ。きっと。

 彼女が今、どれほどつらい気持ちでいるのかはわからない。だが、時間の経過、日々の生活がいつかかならずそれを癒して、和らげてくれるだろう。

 いや、時間が経つことでしか癒されることはないだろう。

 それが長くなるか短くなるか、イザークとうまくいけばいいんだが。


 そこでふと左側、道の南側のだいぶ離れた方で何かの気配を感じた。南の方に顔を向ける。遠く雑木林の上で鳥の群れが羽ばたいた。

 車列の方へ目を向けると、ポーロが早くも訝しげに鳥の羽ばたいた方を見ている。

 やがてその雑木林の影から、黒い物が姿を現した。こちらへ向かってくる。

 熊か?

 それは明らかにこちらに狙いを定め、一直線に走り出した。熊より大きい。地面にかすかだが、大きな動物が走る時の規則正しい振動がくる。

 とっさに前方、上空にふたつ、空気を集めて固め始める。辺りに微かに風が吹くが、まわりで気にする者などいない。

「なんだあれは」

 もうみな気づいて呆然とそれを見ている。車列はいつの間にか止まっていた。馬やロバが怯えている。御者を務める村人たちが必死に押さえている。

 そいつはこちらまで二百長歩(スカル、約百三〜四十メートル)くらいまで来ると立ち止まり、後ろ足で立つと大きな口をいっぱいに開き、吠えた。

 グガガガーンと、まるで雷が間近に落ちたような凄まじい音だった。周りの空気がビリビリと震えた。

「ひーっ」

「魔獣だ!」

 護衛の何人かは腰を抜かして地面に座り込んでしまう。

 そいつは吠えると前足を降ろし、その場から動かずこちらを伺うような仕草で敵意か、それとも食欲なのか、をにじませてじっと睨んでくる。

 暗い灰色のからだは熊よりもひとまわり大きく、少しスリムにし、後ろ足をより大きくした感じ、問題は頭部で、狼とワニを足して二で割ったようなより凶暴な顔つきをしていた。熊より大きく前に伸びた口先は毛がまばらで大きな牙がいくつか飛び出している。鱗ではないようだが爬虫類のような乾いた皮膚が体毛の間に見え隠れしている。からだが動くたびに、長く伸びた牙や足の爪が陽の光を反射してきらきらと光った。

 なるほど、確かに魔獣だ。吠えた瞬間に胸のあたりに小さな光が灯り、それが全身に薄く広がり始めた。あれはおそらく魔力なのだろう。

 防御系か、筋力を向上させたりする攻撃補助系のものか。その魔力がどんなものなのか、何を起こし起こそうとしているのかまではわからないが、何かの魔法を使うと魔力が発現し、それを感じとることができるようだ。肉眼で見えるようなものではないので村の者にはわからないだろう。これはおそらく、魔法具を所持するか、あるいは体内に魔力を有する者だけが感じとることができるものだ。

 だからあれも獲物を見つけ、随分と興奮していたのに急に立ち止まったのだ。

 おまえには俺の魔力がどう見える。

「落ち着け。弓を持ってきている者は弓を持て。弓に矢をつがえろ!」

 ポーロが叫ぶ。

 エルスも弓を構え矢をつがえる。護衛たち、そして御者をしていた者でも弓を構える者がいる。

「いいか。もう少しひきつけてから一斉に矢を放つ。合図を出すからそれまで待て」

「槍を持ってきた者は前へ出ろ」

「恐れるな」

 腰を抜かして震えていた者も立ち上がって戦う体勢を取り始めた。村の者たちはなんとか統制を取り戻したようだ。 

 あの異様に大きな鳴き声は強力な威嚇だ。獲物を驚愕、萎縮させ、判断や動きを鈍らせる効果もあるのだろう。

 怯えていた馬やロバはからだを震わせているようだが、なぜか暴れたりせず、その場にピタリ、と動かなくなってしまった。

 魔獣はしばらくその場でこちらをじっと見ていたが、ゆっくりとこちらに近づいてきた。

 俺の存在という不安要素より食欲が勝りつつあるのか。

 さて、あれに弓矢が効くかはわからない。刺さりはするだろうが、致命傷を与えるのは無理だろう。槍を持つ者は三人。あれを倒すのにこちらは少なくとも半分くらいはやられるんじゃないだろうか。下手すれば全滅だ。ふたつつくった高圧の空気の弾、それを使えば簡単だが、当然皆に知られることになる。

「そろそろいくぞ!皆弓をひけ」

 魔獣はのそのそと警戒しながら近づいてくる。

 距離が百五十長歩くらいに近づいたところでポーロが号令をかける。

「よーい、射て!」

 きれいに一斉に、とはいかなかったがほぼ同時に矢が放たれる。八本の矢が風を引き裂いて魔獣に飛んでいった。肩に一本、背中に一本矢が刺さった。

 魔獣が立ち上がり、またその顎を大きく開き吠える。

 前よりもより近く、雷鳴のように鳴き声が響きわたった。

 非常に不快だ。

「よし次!」

 ポーロも魔獣に負けじと大声で叫ぶ。

 前足を地面に降ろすと魔獣は姿勢を低くしてこちらに向かって走り出した。

 背中に弓矢が一本刺さっている。位置的には肺の裏側あたりだろうか。前から実地で試してみたかったことがある。

 前方、頭上につくった空気の弾は使わない。そのまま予備として保持し続ける。

 やってみるか。

「射て!」

 二斉射目の矢が飛ぶ。もう一本、背中に刺さった。

 魔獣が半立ちになって、怒りを込めて吠える。

 今だ。

「グガガッ、キューキキ…」

 魔獣の鳴き声が途中から変に高くなり、不自然に途切れた。そして開いた口から血を吐くともんどりうって地面に倒れ込んだ。ドン、と地面に振動がきた。そして苦しそうに、激しくばたばたと動かすと痙攣し始める。

 魔獣が吠えるとき、大きく口を開け息を吐くタイミングに合わせて、肺から一気に空気を、外へと吸い出してやったのだ。ほぼ真空状態になったであろう魔獣の肺は内側に破裂し、潰れた。

 待機させていた空気の弾の圧力を徐々に弱め、「手」を離す。

「やったやった!」

 村の連中は大喜びだ。

 前に何かで人や動物の肺は急な減圧だか加圧だかに弱い、と読んだ記憶がある。それで試してみたのだ。俊敏に動くものや小型の動物には使うのが難しいかもしれないが、充分な効果があったようだ。使える手だ。

 まともに戦えばかなり強いやつだろうに、結果はあっけなく、あっさりしたものだった。魔獣の全身に流れていた魔力は攻撃系だったのか、あるいはこちらの魔力に対してあまりに弱過ぎたのか、なんの抵抗も感じずからだの内部まで「手」を伸ばすことができた。ちょっとした知識と工夫で、簡単に倒すことができた。

 あの魔獣の全身に流れていた魔力が魔法に対し防御するような性質のものだったとしたら、それを歯牙にもかけなかったかつてレーネのものだったこの風の魔法は、伝承どおり相当な力を持つものなのかもしれない。

 ポーロは先頭の荷車から自分の槍を取り出すと、魔獣の方へ歩いていく。その後をぞろぞろ村人がついていった。

 イシュルもついていく。

「凄かったね。父さん」

 横を歩いているエルスに話しかける。

「あ、ああ。あんなの、始めて見た」

「あれ、なんて魔獣?」

「さぁ、知らないな。大灰色熊?」

 見たまんまじゃないか。しかもそれただの熊じゃないか?

 倒れた魔獣のところまで来ると、もう魔獣は痙攣もとまり、明らかに死んでいた。

 先行していたポーロは後ろ手に近寄らないよう合図を送ると、槍で何回か魔獣のからだを突き、本当に死んでいるか確認した。

「すげぇな」

「でかいなぁ。俺、こんなの始めてみたよ」

 村の男たちが魔獣の死体を囲み、口々に驚きの声をあげている。

 横向けに倒れた魔獣は熊よりひとまわりは大きい。胴体だけならゾウやサイくらいの大きさはあるだろう。毛のまばらな顎の辺りと違って、全身は固そうな暗い灰色の毛で覆われている。

 父は頼りにならない。ポーロに近づき、いろいろと聞いてみることにする。

「これなんて魔獣?」

「たぶん、大牙熊だ。竜頭熊ともいう。相当強いやつだぞ」

 ポーロは魔獣の死体に視線を向けたまま答えた。

「俺もこんな近くで見るのは始めてだ。若いころ、これに似たやつを森の奥で見たときがある」

 そしてポーロは魔獣の死体に近寄り、しゃがみ込んで胴体に何本か刺さった矢に視線を這わすと、

「この程度で死んでしまうなんておかしいな。どの矢が致命傷になったのか」

 などと呟いた。

「たぶん背中に刺さった矢だよ。こいつ、もの凄く大きな声で吠えたじゃない? 矢を受けた後、その大きな声で吠えようとしたら途中で血を吐いて死んじゃった。きっと吠えるときに肺や心臓に大きな負担がかかるだろうから、そこら辺のちょっとした傷でも致命傷になったんじゃないかな」

 あまり詮索されるのはまずい。適当に口からでまかせを言ってごまかす。

「うーん、そうかな」

「おお、イシュルは頭がいいからな。さすがだな」

「そうかもな」

「間違いないよ。肺とか心臓とか、よく知ってるよなー」

 今ひとつ納得できないポーロに対し、ふたりの会話を聞いていた村人たちは囃し立てるようにイシュルの言に同意の声をあげた。

「それよりこの魔獣の死体、どうするの?」

 さっさと話題を先に進めてしまう。

「こいつの肉、うまいかなぁ?」

「いや。熊だからな」

「毛皮は?」

「めずらしいものだし良い値がつくだろうが、この大きさじゃな。一日仕事になる」

「じゃあこのまま?こんなの重たくて運べないよね」

「確か、こいつの牙や爪は槍の穂先に使える」

「とにかくセウタの分屯に知らせよう。こんなところにこんなでかい魔獣が出るなんて、聞いたことがない」

 エルスがポーロに話かけた。

「そうだな」

 その後、村の男たちは苦労して大牙熊の牙や爪を抜き取り、死体はそのままにしてセウタ村へと急いだ。

 セウタ村に着いた時にはもう陽が完全に落ちていた。

 村の中心には数十の家屋が固まって、石造りの聖堂教会の大きな神殿と、村の政庁をかねた男爵家の騎士団の分屯所があり、それらが面した広場は石畳で舗装されていた。村とはいっても、ベルシュ村よりはだいぶ大きく、街と言ってもいいような雰囲気があった。

 荷を積んだ荷車は村の中心部の広場から騎士団の分屯所の裏にある木造の倉庫の方へ移され、麦袋を村の男達と騎士団や政庁の下僕たちが運び入れた。イシュルも手伝っていたが、途中からポーロに呼ばれ、騎士団で納税に関する書類に目を通したり、街道で襲ってきた魔獣に関して、ポーロやエルスとともに聴取を受けたりした。

 倒した魔獣、大牙熊のような大物は本来、南東の辺境伯領や聖王国の山岳地帯で生息し、やはりここら辺で見ることは滅多にないそうだ。ここ十年以上、被害も目撃情報も記録されていない。

 明日、放置された魔獣の死体の確認に、分屯所から騎士が派遣されることになるだろう、という話だった。

 その後、エルスとイシュルはルーシの両親の家に泊まらせてもらった。ルーシの両親はセウタ村の中心地区からほど近い、村の北側に住んでいた。ルーシには弟、イシュルの叔父がいたが、彼の家族はいわば本宅、村の郊外に住んでいて、エルスと同じ麦を主に栽培する農家だった。

 ルーシの両親は、ふたりともやさしそうな人たちで、ここ何年か護衛をしてきたエルスは毎年顔を出していたようだった。夕食の用意もしっかりしてくれていて、外孫であるイシュルを可愛がってくれた。

 セウタ村に身寄りのいない者は村の中心地区にある宿屋に泊まった。彼らは宿屋か村の酒場に集まって夜遅くまで飲み騒ぐのだろう。

 いや、セウタには娼家もある。

 それは年に一度、まれに危険な目に遭うとしても、セウタ村に税を納めに行く男達の、密かな楽しみなのだろう。


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