旅立ち 1
新調してもらった革のブーツの紐をしっかりと結びあげ、立ち上がると母が声をかけてきた。
「イシュル、これを持って行きなさい」
ルーシが右手の薬指にはめていた、指輪をはずして差し出してきた。
オパールのような、ところどころにきらきらと光る、複雑な色彩の混じった石がはまっている。いつも彼女がはめていたものだ。
「これはね。わたしが結婚するときにおばあちゃんから貰ったものなの。魔除けの指輪よ。あらゆる悪運からあなたを守ってくれるわ」
それも魔法具のようなものか?
なんとなく指輪の石から、何かの気配を微かに感じるような感じないような…。
だが自分には今はもう、必要のないものだ。本当に効果のあるものならそのまま母に持っていて欲しい。
「いいよ。大丈夫だから」
思いっきり笑顔で、少しでも母を安心させるようにつとめる。
「それは母さんが持っていて」
指輪を差し出す彼女の手を両手でやさしく掴んで、押し戻した。
イシュルはルーシやルセルとともに家を出て、ベルシュ家に向かった。
エルスはすでに朝早くからベルシュ家に行っていて、村の男たちと男爵家に納める麦や酒、セウタ村の商人に売りつける木工品や狐や熊の毛皮、牛や鳥肉の薫製などの荷造りを始めている。
空は雲ひとつない晴天。まだところどころ刈り取られず残っている麦畑を心地よい風がわたってくる。連れ立って歩く三人はその中を無言で歩いていく。
イシュルは左手に見えるメリリャの家に目をやった。麦の収穫が始まってからは、昼前の勉強会はお休みになった。その後は忙しい日が続き、一度もやらないまま今日まできてしまった。イシュルが村を出る話が村中に知られるようになったのも収穫が始まった頃だ。その頃からメリリャとは何も話していなかった。
畑に出ている時には遠くでよく見かけたのだが、前と違ってなんだか避けられているような気がして、こちらから近寄って話かけたりできなかった。メリリャの家に行って村を出ることを本人に直接話そうと思ったが、それもできなかった。逃げてしまった。
勉強会というのはおそらく名ばかりで、自分に会いに来てくれていたメリリャとはそれまでたくさんおしゃべりしたし、ルセルよりもていねいに勉強を教えてあげた。それなりにやさしく接することはできたと思う。だが、いきなり自分が村を出て行く、という話を聞いて、彼女は何よりも先に不信感を抱いてしまったのではないだろうか。勉強をやさしく教えてくれて、たくさんお話したのに、なぜ? と。
それとも、彼女に避けられているように感じたのは単なる自分の罪悪感の裏返しにしか過ぎないのだろうか。
メリリャはメリリャで、俺と会って話すことが怖いのかもしれない。
ベルシュ家の館の広場ではまだ荷造りが行われていた。威勢の良い男たちの声が辺りに響く。荷造りの終わった何台かの荷車は、館の先にある村の広場へ移動されている。
荷車にとりついている男たちにはエルスも、イザークも混じっている。イザークがイシュルを見つけ、近寄ってきた。
「イシュル、元気でな」
「ああ、イザークも」
イザークはひとつ頷くと、肩を怒らせ、何かに堪えているときの彼の癖の、顎を思いっきり引くしぐさをして見せ、口をすぼめて案外に小さな声で言った。
「メリリャのことはまかせろ」
「は? お、おう」
イザークめ。
ファーロとエクトルが母屋の前に立っていたので、先日すでに済ましてはあったが、もう一度挨拶しにいった。
「長らくお世話になりました」
「…」
ちょっと改まった感じで背筋を伸ばし、きちんと頭を下げて言ったらふたりとも呆然としている。
「イシュル、どうしたの? いつの間にそんな礼儀作法をならったんだい?」
「 まるで王都の貴族に仕えている執事のようじゃな」
まずったか。つい前世のころの感じでやってしまった。
「ほんとにおまえは小さいころから不思議なやつじゃった。やはりお前の頭の中にはあれが入ってるんじゃないか」
魔法具と言いたいところをごまかして、ファーロはイシュルをじろっと睨みつけ、
「エリスタールに行っても、ちゃんと商いの勉強に励むんじゃぞ。つまらん事に首を突っ込むなよ」
「ベーム卿にまだ伝手があったらな。王都の神学校あたりに推薦してあげられたかもしれないのに」と、エクトル。
ベームとは辺境伯の家名だ。神学を学ぶ気なんかさらさらないが、今自らと同化している魔法具が風の神イヴェダと強い関係があるのなら、いずれ詳しく調べなければならない時がくるだろう。
ファーロとエクトルに挨拶し、他の村の顔見知りの者にも声をかけると、イシュルは荷造りの終わった最後の荷車の後について、思い出深いベルシュ家の館を後にした。
ルーシとルセルはセウタ村に向かう街道に入ってもしばらくついてきた。ずっと続く畑に、点々と見えていた家も少なくなってきた。
もうそろそろ、お別れを言わなければならない。
イシュルは母に声をかけた。
「もうここらへんでいいよ。母さん」
「うん。気をつけてね、からだを大切に」
涙ぐむ母に横にいたエルスが肩を抱いた。
イシュルはルセルの頭に手を置き、
「父さんと母さんをたのむぞ。勉強も忘れるな」
ルセルは泣いていない。今何が起こってるのかまるで理解できていないような感じで、呆然としてしばらく無反応だった。
「うん」
やがてカクカクと何度も頷いた。
「しばらくしたら里帰りするからさ。心配しないで」
母に声をかけると「え?すぐに帰ってきちゃうの」と、変な顔をされた。
一瞬家族に流れる変な空気。そうか。村には里帰りなんて習慣はなかったか。
「ああ、えーと、しばらくしたら休みをもらって、村に少しの間帰ってくるから。また会えるから」
言い直すと母は笑顔になって頷いた。
「お母さんに心配かけないようにな」
ふたりと分かれると、エルスが声をかけてきた。
父とはセウタ村まではいっしょだ。今からそんなこと、いいのに。
はじめて家族に村を出たい、と打ち明けた時、父は表向きは冷静だった。自分の子が何を考えているか、何を考え読み書きを習い、毎日剣を振っていたのか、以前から充分すぎるほどにわかっていたのだろう。それは母も同じだったろうが、父の説得に、ファーロの書いてくれた紹介状と、村を出ることに渋々承知してくれた後も、くどくどと小言を言い続けた。
母の心配はわかるが、今までさんざん小言を言われ続けてきたのだ。父親までそれはやめて欲しい。そういうのはせめて明日の別れの時ぐらいにして欲しい。
エルスにぞんざいに返事をかえし、憮然として歩いていると、今度は道端に村の子どもたちの集団が現れた。
上はイシュルと同じくらい、下は五歳くらいまで、十人くらいはいる。
彼らは前の方を行く荷車の車列や護衛の村の男たちを一通りひやかすと、イシュルの方に流れてきて、同じように質問したり、羨ましがったり、からかったりした。
畑もまばらになると、子どもたちとも別れ、イシュルはひとりになった。村の子どもらとやりあってる内に、エルスは気をきかしたか逃げたか前の方に行ってしまい、イシュルだけが遅れてしまった。
前に追いつこうと走り出す。
走ると背中に背負った荷物や、腰に差している剣がやたらと重く感じられた。
とうとうメリリャとは別れの挨拶ができなかったな。
走るのを止めてしまい、前を行く車列から遅れたままとぼとぼと歩きはじめた。
もう村の家も畑も視界から消え、街道の景色が変化の乏しい、木々が点々と生える草原だけになると、メリリャに別れを言えなかった後悔の念が、心にだんだんと重くのしかかってきた。
俯き加減に道を歩いていると、ふと先の方で、村の車列の男たちとは違う人の気配を感じた。
右手の先の方の木の影からメリリャがひとり、悄然と姿を現す。
ずっと待っていたのか。
思わず彼女の前に駆け寄った。
「メリリャ…」
「イシュル…」
メリリャは泣いていたのか、少し目を腫らしていた。
いつの日だったか、同じようにふたりで黙りこんでしまう。
でも話さないといけないことがある。きっと彼女のためになることだ。
意を決して話しかける。
「ごめんな。何も話さなくて、ごめん」
メリリャの瞳に涙が溢れ出した。
からだをふるわせて、おそらく必死に嗚咽をこらえている。
「俺が村を出ようと決めたのはだいぶ前からなんだ。もうずっと前に決めたことなんだ」
メリリャは涙をこらえている。何も言わない。彼女が何を思ってるのか、その表情からはわからない。
わからない?本当にか?
「あのさ、向こうに行ったら住み込みで、見習いで働くんだ。でも」
だめだ。気を持たせるようなことを言ってはいけない。
「しばらくしたら、お店の人から休みをもらって、休みの間は村に帰ってくるよ」
母と弟に言ったことと同じことを言っている。
メリリャはどう捉えたのか、にわかに喜色をあらわし、
「じゃあ、その時に? 見習いじゃなくなったら…」
首を横に振った。
じっと、彼女の涙に濡れた瞳を見つめて。
そのまま踵をかえし、大股で車列を追う。
後ろでメリリャの嗚咽が激しくなったのがわかる。その場で声を殺して肩を震わして泣いているのがわかる。
くそっ、こんな時はこの能力がうらめしい。
ぐっと耐えて早足で歩き続ける。彼女の気配が感じられなくなるまで。
しばらく歩き、荷車の車列のすぐ後ろまで追いついたところで、たまらずに振り向いてしまった。
遠く、小さくなったメリリャが手を振るのが見えた。
大きく高く、手を振るのが見えた。
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